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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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「90億人の食」、食に纏る世界の話題 =203=

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≡ 世界の人口は2050年までに90億人に達し、十分な食料を確保できるのか ≡ 

= 禅宗の精進料理のような禁葷食ではないチベット仏教徒の食 = 

- 地理的に高地の為、もともと食材が豊富な方ではなく、料理の種類や味付けも豊富ではない - 

鳥類は食べない、魚類・両生類なども食べない、動物は、偶蹄類に限る

【この企画はWebナショジオ_「世界魂食紀行 ソウルフード巡礼の旅」】

(文=中川明紀・ライター、編集者  イラスト・史料編纂=涯 如水)

◇◆ 捏ねて楽しいチベット族の国民食 =2/3= ◆◇

「自分でつくって食べるんですよ」とロサンさんは言って、バター茶にツァンパ、バター、乾燥チーズを入れて手で捏ねだした。ツァンパがバター茶やバターを含み、だんだんと塊になっていく。

「バター茶で固さを調節しながら団子にします。ツァンパとバター茶の加減が慣れないと難しい。最近の若者は自分で上手にできず、親につくってもらう子も増えているみたいだけど、本来は自分の食べるぶんだけ自分でつくるんですよ。甘いのが好きなら砂糖、辛くしたいならチリソースを入れて好みの味にするんです」

 出来上がった“ツァンパ団子”は手のひらサイズだが、大きさや形もつくる人それぞれ。チベット族はこの団子状のツァンパを毎日のように食べるという。口に入れると麦とバターの芳醇な風味が広がった。やわらかすぎず固すぎず、素朴だがかむほどに麦の甘みが出て味わい深い。

「遠出をする時もツァンパと磚茶を携帯し、つくって食べるんですよ。バター茶がなければ、磚茶を煮出しただけのブラックティーで練る。家でも外でも手軽に食べる感じは日本のおにぎりに近いですね」

 ロサンさんの話を聞きながらツァンパ団子を口に入れる。なんだろう、食べたことがある気がするんだ、これ。食感といい、風味といい、なんだか懐かしい味……あっ!

「きなこ棒だ!」

 思わず大声を出した私を見て、「日本人はみんなそう言いますよ」とロサンさんが笑う。やっぱり、そう思うよね。砂糖を混ぜたらまさに駄菓子のきなこ棒。懐かしいはずだとバクバク食べていると、「後でお腹の中でふくらむから食べ過ぎてはいけない」とのこと。このツァンパ団子を肉料理などとともにかじりながら、バター茶を飲むのがチベット族の食卓だそうだ。

「ツァンパは体調を整えてくれる滋養食なんですよ」とロサンさん。カルシウムや食物繊維が豊富で、携帯にも便利なツァンパは遊牧系のチベット族に昔から欠かせないものだったのだろう。そして、ヤクも。ヤクは標高3000メートル以上の高地に生息する動物だ。平均標高が4000メートル以上というチベット高原では貴重な家畜であり、肉や乳製品は生きるための大切な栄養源なのである。

 そうなると気になってくるのがヤクの肉やバターの味。ツァンパ団子にヤクの乾燥チーズが入っていたがさほど主張はしていなかった。聞けば、肉やバターもそんなにクセはないという。「ただ、私も生のヤクの肉は食べたことがないんですよ」とロサンさん。彼はネパールで生まれた亡命チベット族の2世なのだという。

 かつてチベットは一つの国だったが、19世紀にインドから東アジアへ侵略を進めたイギリスに脅威を感じた清(中国)がチベットへ侵攻した。その後、清は滅亡するが1949年に中華人民共和国が成立すると、再びチベットに攻め込み、軍事管制下に置いた。チベット族の抵抗は続いたが、多くの死傷者を出し、法王ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。インド北部のダラムサラにチベット亡命政権を樹立して今にいたる。

「私の親たちは1959年にダライ・ラマ法王とともに亡命したのです」とロサンさんは言う。この時、インドやネパール、ブータンに亡命したチベット族は8万人にもおよぶと言われている。

明日に続く・・・・・・・

◇ チベット料理教室(1-3) モモを作る ◇

・・・・・・https://youtu.be/W7Cl8soU1z4 ・・・・・

//////参考資料///////

■□ 参考資料:チベット通史 □■

チベット通史

5世紀頃からホタン方面から入ってきた遊牧民の政権が王国を建設した。テュルク諸語モンゴル語などではトベットとよび、漢文では吐蕃と記される。7世紀頃に盛強となる。その後も異民族による直接支配を受けたことがなく、1642年にはダライ・ラマ政権が成立した。

1723-32年の「雍正のチベット分割」により、チベットの東部(アムド全域・カム東部)の諸侯は分割されて青海およびチベットに隣接する甘粛四川雲南に分属し、西寧弁事大臣と甘粛・雲南の巡撫四川総督などの中国の地方官より六部の「兵部」を介し、清朝皇帝から所領の安堵を受けることとなった。引き続きダライ・ラマとチベット政府ガンデンポタンの管轄下に置かれたチベットの中央部(ウーツァン)および西部(ガリ)は、中国側ではまとめて「西蔵」と称されるようになった。

近世に入り、1912年の辛亥革命により清国が滅亡すると、ガンデンポタンはチベット全土の奪還を目指して東征の軍を起こしたが、甘粛・青海を掌握する馬氏政権、四川・雲南の地方政権などに阻まれた。

その後、中華民国の全時期(1912-1949)を通じ、中国の地方政権がチベットの東部を分割支配し、チベットの西部・中央部をガンデンポタンが掌握するという形勢は変わらなかった。

1949年に建国した中華人民共和国は、まず1949年から1950年にかけて中華民国の諸地方政権が支配していたチベット東部を掌握、ついで1950年にガンデンポタン治下のカム地方の西部に侵攻、翌1951年にはガンデンポタンを屈服させて(十七ヶ条協定)チベットの西部・中央部を制圧した(いわゆる西蔵和平解放)。

1955年、チベットの東部で勃発した抗中蜂起は1959年中央チベットに波及、1959年3月10日のラサ市民の蜂起、中国軍による鎮圧をへて、チベットの君主ダライ・ラマ、チベット政府ガンデンポタン、約10万人の難民がチベットを脱出し、チベットの全土が中国の直接統治下に組み込まれた。

因みに、“ラサ市民蜂起”の鎮圧を指揮したのが習金平である。彼の弾圧強行採決に賛意を表した共産党・北京中央執行部が賞賛の意をもって中央執行部に彼を栄転させている。

2017年現在は独立国家としてブータン王国を持っているが、他の地域では他国の支配を受けている。特に中国支配下のチベット本土においては自治拡大を主張している。

・・・・・続く

◆   チベット料理教室(2-3) モモを作る ◆

・・・・・・ https://youtu.be/PtmxPNsTxgA ・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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