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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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「90億人の食」、食に纏る世界の話題 =057=

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≡ 世界の人口は2050年までに90億人に達し、十分な食料を確保できるのか ≡ 

= あるところに本当のお姫様をお妃に迎え入れたいと考えていた王子様がいた = 

- ある嵐の晩、雨でびしょぬれお姫様がお城にやってきた- 

幾重にも重ねたエンドウ豆の敷布団寝に横たわり熟睡した彼女は本当のお姫さまと

ここに一つの未来図がある 

【この企画はWebナショジオ_2014年4月~2014年12月期、35回記載に追記・補講した】

(文=Rebecca Rupp/訳=北村京子  イラスト・史料編纂:涯 如水)

◇◆ ルイ14世を魅了したエンドウマメの歴史 =2/2= ◆◇

 15世紀、王族や廷臣たちはどうやら、エンドウマメをソースに浸してから、鞘からチュルチュルと吸い出すようにして食べたらしい。この幼児的な食べ方でルイ14世はエンドウマメを食べ続けた。そのせいでついには消化不良を起こし、お付きの医者たちから体を動かすためにビリヤードをするよう助言を受けたという。

 フランス人を夢中にさせたこのガーデンピーは、かつての品種に比べれば格段においしくなっていたとは言え、それでもまだデンプン質が多く、実の表面がツルリとしていた。そのツルツル品種が時代遅れになったのは18世紀末、トマス・アンドルー・ナイト(1759~1838年)が偶然、シワのある珍しいエンドウマメを発見したためであった。

シワから遺伝の法則を発見

 トマス・ナイトは園芸家兼植物学者で、ロンドン園芸協会の会長を務めていた。またたいそうなお金持ちでもあり、ヘレフォードシャーのダウントン城の他、4000ヘクタールの土地を所有していた。ナイトはシワのある豆を交配して「マローファット」と呼ばれるシワのある品種群を生み出した。

1787年にはすでに、「ナイトのシワのあるマロー豆」は英米の菜園を席巻していた。米国第3代大統領トマス・ジェファーソンは、屋敷の庭にこの豆を年に2回植え、スープに入れて食すのを好んだ。

 シワができる原因が判明したのはそれから長い年月が過ぎた1990年代、分子生物学者がエンドウマメの調査に着手してからのことだ。エンドウマメは熟すにつれて、体内にある糖をデンプンに変化させる。この変化をうながすのがSBE1と呼ばれるデンプン分枝酵素だ。

シワのある豆は、この酵素に欠陥があるせいで糖がそのままの状態で残される。糖分の多い豆は成長の過程で通常よりも水分を多く蓄積するが、乾燥する際にもより多くの水分を失い、その結果、空気の抜けた風船のようにシワシワになる。

 ナイトはシワの入った豆で数多くの実験を行った。シワの品種をシワのない品種と掛け合わせ、さらには背の高さ(高いか低いか)、花の色(白か紫か)、種子の色(緑か黄色か)など、豆のさまざまな特徴についても研究を続けた。ナイトはそうしてできた豆の数を丹念に数え、結果を記録し、何冊ものノートをデータで埋め尽くし、さらには観察結果を詳述した学術論文まで発表した。しかしナイトが到達できたのはそこまでであった。

 それから約50年が過ぎた頃、オーストリアにある聖トマス修道院の司祭グレゴール・メンデルが、以前から続けていたネズミの研究をやめるよう司教に言われたことから、次は庭でエンドウマメの研究をしようと思い立つ。メンデルはナイトと同様の交配実験を数多く行ったが、彼がナイトと違った点は、その実験結果のなかに特定のパターンやその原因の仮説を見出すに至ったことであった。

 8年という歳月をかけて、メンデルは2万9000株のエンドウを育て、その結果を踏まえてあのメンデルの法則を確立、近代的な遺伝学への扉を開いた。   (文=Rebecca Rupp/訳=北村京子)

次回“先住民が重宝した、クランベリーの歴史”につづく……

◇◆ えんどう豆の剥き方~豆ご飯が食べたくて ◆◇

・・・・・・ https://youtu.be/Fu8C0HBhrwY ・・・・・

//////参考資料///////

■□参考資料:ルイ14世・出生を巡る俗説 □■

ルイ14世の出生には醜聞が付きまとった。実父については父王の宰相リシュリューとする説やアンヌ・ドートリッシュの摂政時代に宰相を務めたマザランであったとする説がある。こうした俗説が出回る背景には、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの仲が長い間冷え切っていたという事情がある。アンヌ・ドートリッシュは美女として名高く、例えばイングランドのバッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズが公然と言い寄ったこともあるほどだが、ルイ13世とは反りが合わなかった。

ルイ13世は同性愛傾向が強かったともされている。ところがある日、狩りのため遠出したルイ13世は妻アンヌの城館の付近で悪天候に見舞われ、やむなくアンヌの城館に一夜の宿を請うたところ、その夜のことで生れたのがルイ14世であったとされる。

リシュリュー実父説は1692年にドイツのケルンで出版された『アンヌ・ドートリッシュの情事』と題された小説が出典であり、ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』で言及されたことでお墨付きが与えられてしまった。また、アンヌ・ドートリッシュとマザランが愛人関係にあったとする説も根強いが、少なくともアンヌがルイ14世を妊娠した1637年12月は、まだマザランがイタリアにいた時期であり、このマザランが父親という話の方も単なる噂話である。

またルイ14世の治世に実在した謎の囚人(いわゆる「鉄仮面」)の正体をルイ14世の兄弟とする説はドラ=キュビエールという無名に近い作家の史話が初出であり、後にこの話をアレクサンドル・デュマダルタニャン物語 の第3部『ブラジュロンヌ子爵』の題材とした。

少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ・ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている。青年期のルイ14世の恋愛相手はマザラン枢機卿の姪だった。マザランは貴族との縁組の駒として姪たちをフランスに呼び寄せており、ルイ14世はその一人のオリンピア・マンチーニに恋したが[注釈 5]、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー・マンチーニと交際するようになった。

若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした。ピレネー条約によるスペイン王家との縁談がすすめられていた時期であり、摂政太后アンヌ・ドートリッシュとマザランは二人を無理に引き離し、結局ルイ14世は国家が要請するところのスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ・ドートリッシュと結婚した。その後、マリー・マンチーニはイタリアのコロンナ伯ロレンツォ・オノフリオのもとへ嫁がされている。

王妃マリー・テレーズは信仰心に篤く慎ましい女性で王太子ルイ(グラン・ドーファン)をはじめとする6人の子を生んだが、ルイ14世が彼女を愛することはなかった。彼女はスペイン訛りが抜けずに正しいフランス語が話せず、会話でルイ14世を楽しませることができなかった。もっとも王妃を愛さなかったのはルイ14世に限ったことではなく、祖父のアンリ4世そして父のルイ13世ともに王妃とは不仲であった。しかし、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという。

・・・・・・次回へ 

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_ 大和の 和の料理《えんどう豆の含め煮》 _

・・・・・・ https://youtu.be/m-vV2ie91A4  ・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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