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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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「90億人の食」、食に纏る世界の話題 =039=

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≡ 世界の人口は2050年までに90億人に達し、十分な食料を確保できるのか ≡

= イギリス人やアメリカ人の海賊の多くが財宝を求めてカリブ海の外に目を向け始めた =

- 征服政権・スペイン勢力の衰退著しい1690年代が始まった -

“バッカニーア”と呼ばれた海賊達が、スペイン船や植民地からの略奪などを行った

【この企画はWebナショジオ_2014年4月~2014年12月期、35回記載に追記・補講した】

(文=Rebecca Rupp/訳=小野智子  イラスト:涯 如水)

◇◆ 18世紀の海賊が食べていたものは? =1/2= ◆◇

映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』に登場するジョニー・デップの素敵な姿は忘れてほしい。

 歴史的に海賊の人生は、厳しく、汚く、短かった。いわゆる海賊の黄金時代と呼ばれた17世紀末から18世紀前半であっても、ほとんどの海賊は病気に苦しみながら、窮屈で惨めな船上で生きていた。

 おそらく大半の海賊は30歳まで生きられなかったし、かなりの数がいきなり死刑になったりした。つまり、期待に反して、海賊の生活は全くロマンチックではなかったのである。

乾パンに乾燥肉、でもビールは1日4リットル

 なかでも、海賊の食事はひどいものだった。

 18世紀の英国の船乗り80人の骨を同位体分析した最近の研究によると、彼らは英国海軍指定の食料だけを食べていたようだ。その内訳は、パンと牛肉、たまに少量のバターとチーズ、1日にビールを1ガロン(約4.5リットル)。こう聞くとなかなか立派に感じるかもしれないが、実際はそんなことはなかった。

 船上の食べ物は、当然、航海が長引いても日持ちがするものに限られていた。パンは乾パンのようなもので、数週間航海していると虫がたかるのは避けられなかった。牛肉は、固い塩漬けか乾燥したもの。船乗りたちが、それをボタンやベルトバックルにしたほどだ。

 ビールやラム酒は、水よりも日持ちがよかったので好まれた。実際に海賊は、誰もが認める酒好きだったようだ。18世紀にカリブ海で難破し、海賊とともに4カ月を過ごしたナサニエル・ユリングは、彼らを「乱暴で酔っ払いの連中」と表現した。

 有名な海賊「黒ひげ」は、強い酒は彼らを暴れさせないための唯一の手段だったと主張した。また海賊ジョン・ラカムの一味は、酔っ払いすぎて逃げることも戦うこともできず、最後に捕まった。470隻もの船を乗っ取った海賊バーソロミュー・ロバーツが酒を飲まなかったという事実が、大変注目を集めたほどだ。

ロビンソン・クルーソーを助けた海賊

 海賊たちは、食べるに困ることも多かったようだ。海賊ヘンリー・モーガンとその仲間は、1670年に座礁した時、革のカバンを細かく切り、揚げて食べたという。女海賊シャーロット・デ・ベリーの仲間は、難破して絶望的な状況になったとき、二人の奴隷とシャーロットの夫を食べたとされる。

 一方で、航海の先で様々な食にありつく海賊もいた。17世紀の海賊ウィリアム・ダンピアは、「優雅な心を持った海賊」と呼ばれ、海賊であると同時に博物学者、文筆家、グルメでもあった。
 風や海流、博物学に関する彼の先駆的な研究は、ジェームズ・クックやチャールズ・ダーウィンにも影響を与えた。ダンピアは徒歩でパナマの地峡を横断し、地球を3回周航し、1697年にそれについて『A New Voyage Round the World(邦題:ダンピア最新世界周航記/岩波文庫)』というベストセラーを書いた。

ダンピアは、クックの80年以上も前にオーストラリアを訪れ、その植物区系と動物区系を記述した。また彼は、難破して無人島に暮らしていた船乗りアレクサンダー・セルカークを救出したが、この逸話が小説『ロビンソン・クルーソー』になった。シマウマについて初めて英語で解説を書いたのも、彼だ。

 

//////参考資料///////

■□ 参考資料:海賊周航 □■

1690年代が始まると同時に、イギリス人やアメリカ人の海賊の多くが財宝を求めてカリブ海の外に目を向け始めた。イギリスでスチュアート朝が崩壊したことで昔ながらの英仏の対立が再燃し、英領ジャマイカと仏領トルトゥーガの共同関係が崩れたこと、1692年の地震でポートロイヤルが壊滅し、略奪品を捌く市場が失われたこと、などがあげられる。

これらの理由に加えて、単純にスペイン領の主要植民地が消耗しきってしまっていたことも大きかった。1667年から1678年にかけて、マラカイボだけで3回、リオデラアチャは5回、トル(現コロンビア)にいたっては8回も略奪を受けていたのである。

同時に、イギリス本国は数度にわたり航海法を公布したため、イギリスの植民地(バーミューダニューヨークロードアイランドなど)は金欠状態に陥っていた。財貨に飢えた商人や総督は、海賊を見過ごすばかりでなく、彼らの航海に保険を与えたりした。とある植民地の役人は「領内に金をもたらす人々の縄に首を掛けるのは残酷な所業である」として海賊を保護したほどである。

これらの海賊のなかには1690年代以降も北米や中部植民地から出発して、遠く離れたスペインの太平洋の植民地を標的にする者もいたが、彼らの多くはインド洋に獲物を求めた。この時代、インドの生産力はヨーロッパのそれを大きく上回っており、とくに絹やキャラコなどは高価で取引されたため、それらが海賊の理想の略奪品になった。

加えてインド洋には目立った海軍勢力が存在せず、ムガル帝国の船舶や各国の東インド会社の商船は襲撃に弱かった。また、アフリカ東岸のマダガスカル島は前の時代におけるトルトゥーガ島に相当する役割を果たした。

これらを背景に、トマス・テューヘンリー・エイヴリーロバート・カリフォード、そしてウィリアム・キッドなどの有名な海賊が活躍した。しかし、1697年にフランス軍・バッカニーア連合軍がカルタヘナを占領したの最後に、バッカニーア時代から続いた海賊の活動も徐々に下火になっていった。

※“バッカニーア”とは、17世紀のカリブ海において、スペイン船や植民地からの略奪などを行った海賊を言う。

・・・・・・明日に続く

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_ 【衝撃】知られざる海賊の秘密6選 _

・・・・・・ https://youtu.be/gxfsvNSKPOE ・・・・・・

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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