○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○
メアリーの最後については、いくつかの逸話が残っている。
斧を手にした処刑人は、緊張していた。 盗賊や極悪人の処刑には慣れていた。 いつもならば、何も感じなかった。 しかし、貴婦人の処刑は初めてだった。 それも、異端とはいえ、女王なのだ・・・・・・という。
「いつものとおりやればいい、ひと振りで済むことだ」と、かれは自分に言い聞かせ、メアリーに許しを請うた。 それでも、動揺を抑えることはできなかった。 メアリーは、「心から許します。 あなたが私のすべての苦しみを終わらせてくれるでしょう」といい、祈りつづけた。
処刑人は、ゆっくりと斧を振りあげると、いっきに振り下ろした。 と、そのとき、一瞬、手もとが狂った。 彼は、メアリーの頭部を体から完全に切り離すには、もう一度、斧を振り下ろさなければならなかった。 処刑人は、立会人に処刑が確実におこなわれたことを示すために、髪の毛をつかんでメアリーの頭部をもち上げようとした。 すると、頭部が抜け落ちて、下に転がった。
彼が掴つかんだものは、かつらだった。 かつらの下から現われたメアリーの頭部は、老い白髪だった。 メアリーは、物ごころがついたころに、人質同然にフランスへ送られた。 フランス王の妃となって優雅な宮廷生活をおくっていたが、それもつかの間、若くして未亡人となった。
祖国スコットランドにもどってからは、貴族たちの権力闘争に翻弄されつづけた。 現実が理解できぬまま父の従妹をたよってイングランドに亡命してみれば、じつに19年におよぶ俘囚の身だった。 彼女の44年あまりの生涯のほとんどが、人質と俘囚の身だった。 メアリーの白髪の頭部は、そのすべてを語っていたのである。
◇◆ メアリーの最後 ◆◇
メアリーの首が切り落とされたあとも、唇だけは、しばらくのあいだ、祈るようにかすかに動いていたという。 処刑人が記念にと、メアリーの靴下止めをむしり取ろうとしたときだった。 彼女の腰のあたりで、何かが動いた。 まわりにいた者が悲鳴をあげ、恐怖で凍りついた。 すると、メアリーのスカートの中から、子犬がでてきた。 その子犬は、メアリーのそばから離れようとせず、血の海のなか、彼女の体と頭部のあいだにうずくまったという。
メアリーの処刑がロンドンに伝えられると、プロテスタントは教会の鐘を鳴らし、かがり火を焚いて歓声をあげた。そのなかで、ひとりエリザベスだけが不機嫌だったという。
メアリーの遺体は、ピーターバラ大聖堂に埋葬される予定だったが、彼女が最後までカトリックでとおしたことから、教会にそれを拒否されてしまった。 そのためメアリーの遺体は、鉛の棺に密封され、フォザリンゲイ城内に安置されることになった。 教会に埋葬が許されたのは、それから半年後のことだった。
16年後にエリザベス1世のあとを継いでイングランド国王となった、メアリーの息子ジェイムズ1世は、母の墓をイングランド王室の墓所であるウェストミンスター寺院に移した。 その場所は、エリザベスの埋葬されたところから、それほど離れていなかった。 生前、顔を合わせることのなかったエリザベスとメアリーは、ここで、初めて対面したのである。
メアリーとエリザベス。 この二人を同一線上に並べて評価を下すのは誤りであろう。 なぜなら、二人はまるで役割が異なっていたからである。 メアリーは国母であり、象徴君主の立場にいたのに対して、エリザベスは純粋な政治家であった。 メアリーは子孫を残し、エリザベスは絶大なる政治的功績を残した。 どちらが欠けていても、その後の大英帝国の発展は無かったであろう。
追考: ジェームズ1世 (イングランド王)
1603年3月に入るとイングランド女王エリザベス1世が重体となり、イングランドの国王秘書長官(英語版)ロバート・セシルは女王崩御に備え、スコットランド王ジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて王位継承準備を整えた(エリザベスがジェームズへの王位継承を認めていたかどうかは不明)。3月24日にエリザベスは崩御し、ジェームズ6世が7月25日に戴冠し、同君連合でイングランド王ジェームズ1世となった[2]。
これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを王冠連合 (Union of the Crowns) と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。
ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきていたため、セシルやフランシス・ベーコンを助言者として重用し続けた[3]。
1604年にイングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った。この中で、ジェームズ1世はカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言した。これにより、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになった。1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こった。なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズ1世の命により国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである。
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解した。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった。
また、ジェームス1世はスコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出していた。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに関税を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。1610年、ソールズベリー伯ロバート・セシルが財政再建策として大契約を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。
1622年にはホワイトホール宮殿の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。
1625年3月27日にジェームズ1世はシーアボールズ宮殿で亡くなった。
尚、先代のエリザベス1世は、倹約家であったことに加えて本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供たちがおり、宮廷経費の増大は避けられなかった。
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部のバースへの大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、1619年に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになった。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う者までいた。
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。