○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○
◇◆ 二人の女王の闘い ◆◇
1586年10月15日、フォザリンゲイ城で、スコットランド女王であったメアリー・スチュアートをイングランド女王にたいする反逆罪で裁く裁判がはじまった。 メアリーは、尋問にたいして命乞いをすることもなく、「わたしに責任はない」と毅然として答えたという。 10月25日、枢密院の裁判所――スター・チェンバー裁判所――に、枢密顧問官たちが緊急に招集された。 会議は、メアリーへの判決を下すためのものだった。
1560年に、亡命先のフランスで結婚したフランソワ2世が16歳で病死した。 子供ができなかったメアリーは、翌年にスコットランドに帰国した。 メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とてスコットランドの王冠を頂いた。 しかし、当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックを信奉する貴族も相当数残っていた。 マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。 しかしながら、1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。
スコットランド領内は乱れた。 メアリー政権を担うマリ伯はイギリスに支援を求めて鎮圧に向かうが戦いに敗れ、 メアリー女王は捉えられた。 メアリーはロッホリーヴン城に軟禁され、廃位を強制される。 王位を剥奪されたロッホリーヴン城を脱失したメアリーの逃亡の生活が始まったのだった。 メアリーが、マリ伯のように再起を図るためにエリザベス1世を頼って来たのなら、まだいい。 かつての宿敵同士であろうとも、利害が一致して共同戦線を張ることなど政治の世界ではありふれている。
しかし、窮地に立った血縁のメアリーに対して、「生意気なスコットランド人を懲らしめるのも悪くはない」と エリザベスは思っていたのであろう。 もしメアリーが復位を図るなら、大貴族たちと結束してフランス側につくと、エリザベスを脅し、領内動乱の鎮圧に援軍を要請することもできたはずである。 しかし、君主であるにもかかわらず、女だと言う理由でメアリーに加えられた屈辱。 反乱軍に捕えられたメアリーが、晒し者のようにエジンバラを引き回され、「売女」と罵倒された事実。 女であるが故に耐えねばならなかったメアリーの悲しみを思う時、エリザベスは生理的に激しい怒りを覚えた。 エリザベス自身も即位したての頃、群臣たちの「女だか・・」という嘲笑の視線を忘れていない。
他方、スコットランドを脱出したメアリーは、ここに来て、忘れていた怨みを~メアリーがフランスから故国へ帰るきっかけとなった先祖代々の英国への怨みを~ 思い出したのである。 そしてスペイン.フランス、果ては英国内の大貴族たちにまで、自分との結婚話を餌に、エリザベスを打倒するよう手紙をばらまいていたのだ。 エリザベスの足下で・・・・・・。 以降20年、メアリーは事あるたびに、エリザベス暗殺の計画に首を突っ込んで来た。
しかしながら、当然全部筒抜けであった。 メアリーが亡命してきた年の翌年1569年に起きた北部諸侯の乱でも、メアリーは一枚噛んでいた。 本来のエリザベスなら、ただちに抹殺していただろうが、首謀者のほとんどが大陸に亡命し、腹いせに貧しい兵士700名を虐殺しただけでメアリー自身はおとがめ無しの処理で終えている。 メアリーが血の繋がりがあるエリザベスを憎むようになったのは、理由がある。 それは長年に渡って拒否してきたエジンバラ条約の承認であった。
=1、スコットランドの新教徒の信仰の自由を認める
=2、ジェームス(メアリーとダーンリー卿ヘンリーとの一子)を次期英国王として、エリザベスに養育させる
=3、エリザベスと、その正式な結婚から産まれた子が生存している間は王位を請求しないこと
メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲んだのだ。 しかし、にもかかわらず、土壇場でエリザベスはメアリーを裏切った。 というか、そうせざるおえない苦境にエリザベスは陥ったのである。 メアリーの復位に対し、スコットランドの親英国派豪族が一斉にフランスへ寝返る危険性が生じたのだ。 スコットランドの親英国派工作は、父ヘンリー8世の時代から着々と積み上げられて来た成果である。 それをメアリー1人のために崩壊させるのは、国益に反していた。 エリザベスは、1人の女としては、メアリーを哀れみつつ、1人の政治家として切り捨てざるをえなかったのである。
そうした罪悪感もあって、エリザベスはぎりぎりまでメアリーを許して来た。 しかし、国内の政治状況が、もはやメアリーを許さなかった。 我が身に脅威を感じた英国大貴族が、エリザベス暗殺が現実になった時、自らの手でメアリーを殺すことを誓った「一致団結の誓約書」を取り交わした。 スペインの軍事的脅威も現実のものとなりつつあった。 議会は後顧の憂いを絶つために、メアリーの処刑を可決した。 再びエリザベスは、政治家として、苦渋に満ちた(おそらくその人生においてもっとも辛い)決断を下さねばならなかった。
「メアリーをこの手で、殺さねばならない」
考えてみれば、自分が裏切った相手が、こちらを恨んでいるという根拠で抹殺するほど卑怯なことはないだろう。 この決断を下すまで、エリザベスは1人寝室で荒れ狂い咆哮したと言う。 しかし決断した。 そこにこそ、エリザベスが不出世の政治家である理由があった。
メアリーにも希望は残されていた。 ただ「待てば」よかったのだ。 誰の目にも、次期王位継承者はジェームス以外にいなかった。 メアリーは黙って待ちさえすれば、いつか息子が英国に来て、母を解放するはずだった。 だが、メアリーは待てなかった。
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