○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○
◇◆ メアリーの身辺に危機が迫る ◆◇
1570年、ローマ教皇ピウス5世は「レグナンス・イン・エクスケルシス」と呼ばれる教皇勅書を発し、「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」は異端であり、全ての彼女の臣下を忠誠の義務から解放すると宣言した。これによって、イングランドのカトリックはメアリー・ステュアートをイングランドの真の統治者と期待する更なる動機を持つようになった。
メアリーの存在は、エリザベスとプロテスタント勢力とっては、あまりにも危険なものとなってきた。 「メアリーがいるかぎり陰謀は絶えない」と、枢密顧問官たちはエリザベスにメアリーを処刑するように迫った。 しかしエリザベス1世は、それをためらっていた。 その理由は、メアリーは廃位されたとはいえスコットランドの女王であり、外国の首長をイングランドがかってに裁いて処刑できるのか、ということだった。 それを許せば、いずれはそれがエリザベス自身にも跳ね返ってくるかもしれないからである。
メアリーを処刑するには、それに値するだけの理由が必要だったのである。 しかし、エリザベスが処刑をためらった最大の理由は、彼女にとってメアリーが数少ない血のつながった存在だったからだ、とも言われている。 エリザベス1世の忠実な部下で、かつ彼女の秘密警護隊長でもあったフランシス・ウォルシンガムは、警戒を怠らなかった。 彼は、カトリック勢力に手を貸していそうな貴族とメアリーの監視を強化していった。 そして、メアリーに少しでも不審な動きが見られたときには、彼女を反逆罪で裁判にかけるようにと、エリザベスを説得していた。しかしそれには、彼女が納得するだけの確かな証拠が必要だった。
1585年になると、反カトリック法が強化され、カトリックにたいする弾圧がさらに激しくなった。 カトリックの司祭には、それだけの理由で火刑が待っていた。 また、彼等をかくまった者も反逆罪で処刑されるようになった。 そしてカトリックの信者には、多額の罰金が科せられるようになったのである。 エリザベスが統治した45年間に、イングランドに渡ったカトリックの司祭の半数以上が逮捕され、180人以上が処刑されたという。 それでも、彼女の時代に火刑に処せられたカトリックの司祭や信者の数は、年に4人程度で、5年間で3百人以上のプロテスタントを処刑したメアリー1世の時代にくらべれば、はるかにすくなかった。
1586年7月、メアリーの運命にかかわる最大の陰謀「バビントン事件」が発覚した。 首謀者は、熱心なカトリックの家系で育ったサー・アンソニー・バビントンという、24、5歳の青年だった。 1536年から37年にかけて、ヨークシャーのカトリック勢力がヘンリー8世の宗教改革に反発して「恩寵の巡礼」とよばれる反乱を起こしたことがあったが、バビントンの曽祖父になるダーシー卿トマス・ダーシーはこの反乱に加わっていて、反乱が鎮圧されたとき、反逆罪に問われてロンドンのタワー・ヒルで斬首刑になっていた。
バビントンの体には、先祖から受け継がれてきたカトリックの熱い血が流れていた。 彼は陽気な性格で、ロンドンでもよく知られていた好青年だったというが、胸のうちには、プロテスタントにたいする深い恨みをもっていたのである。 バビントンの背後には、スペインと通じていたジョン・バーナードというカトリックの司祭がいて、彼が陰謀の筋書きを書いていたとされている。 また、バビントンには6人の仲間がいて、1586年の3月ごろから、たがいの家に集まっては計画を練っていたという。
その計画とは、まずエリザベス1世を暗殺し、それと同時に国内のカトリック勢力が反乱を起こし、それをスペイン軍がイングランドに侵攻して支援する、その間にメアリーを幽閉先から救出する――というものだった。
計画を遂行するにあたっては、事前にメアリーの承諾を得ておく必要があるということになった。 そこでバビントンは、7月6日、メアリーに承諾をもとめる手紙を、いつものように暗号で書き、それをギルバート・ギフォードというカトリックの男に託した。
ところがこのギフォードは、エリザベスのスパイ組織のリーダー・フランシス・ウォルシンガムとも通じていた二重スパイだった。
彼は、少し前までは、カトリックの司祭になるべく、ローマの神学校にかよって勉強していた。 しかし、あまり熱心な学生ではなかった。 そのうちに、かれは自分の経歴と身分が、エリザベスにたいする陰謀の仲間に潜り込むのに格好の隠れ蓑になることに気がついた。 そうして彼は、信仰よりも、危険なスパイゲームにとりつかれてゆくようになったのである。 それだけ当時は、カトリックとプロテスタントとのあいだで、激しい諜報戦があったということなのだろう。 ギフォードは、自分の考えを試してみたかったのか、ウォルシンガムに連絡をとり、自分を売り込んでいった。
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