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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =22=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ ルイ16世の刑死執行と王妃の・・・・・・ ◇◆

 裁判のための調査委員会により、テュイルリー宮殿のルイ16世の住居から、『鉄の戸棚』が発見されました。 メモ魔だったルイ16世は、様々な書類をこの中に残していた。 革命当初から、国王が表と裏の顔を持っていたこと、亡命者と連絡を取っていたこと、外国と交渉していたことなどを証明する文書が出てきた。 これが政治犯として、ルイ16世の有罪は決まったようである。 12月11日、パリ市長が裁判所に行くため、ルイ16世を迎えに来た。 

  この瞬間から判決が出るまで、家族と会うことも許されなかった。 前述のように、下された判決は『死刑』。 死刑に賛成が387票、反対が334票でしたが、賛成のうち、執行猶予を望む票が26票あり、この表を反対票に加えると361対360となり、わずか1票の差で死刑が確定された。  ルイ16世が幽閉されている要塞タンブル塔で、ようやく家族が顔を合わせることができたのは一ヶ月後の1月11日=処刑の前日=、市の役人がひとりマリー・アントワネットのもとに現われて、本日は例外として家族とともに夫に会うことが許される、と伝えた。

 

 妻、妹、子供たちは、暗い要塞の階段をおりて、国王ひとりが収容されている部屋に赴く。 最後の別れである。 タンブルで王国一家の監視に当たっていたのは、一七八九年の革命の立役者のなかでも最も根性の下劣な、「狂犬」と異名をとる極左派のジャック・ルネ・エベールであった。 彼は、後年の1794年、蜂起を呼びかけたが失敗する。 その結果、ロベスピエールサン・ジュストに告発されて処刑されるが、すでに夫を失い無力になったマリー・アントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼である。

 エベールが許可したルイ16世の家族との再会は、最後のお別れであった。 家族は2時間の間、泣きながら、嘆き悲しんでいたと言われてる。 そして、1793年1月12日早朝、 ルイ16世はタンプル塔から馬車に乗せられて、刑が執行される革命広場までエーベルに連行された。 ルイ16世は、これまで王妃の愛がフェルセン伯爵に向いているのを知ってた、人生の最後の最後でやっと妻に愛されていると実感することができ、司祭に対し、自分の髪の毛と結婚指輪を王妃に渡すように頼み、『別れるのが辛いと伝えて欲しい』と言い残して断頭台に上って行った。

 午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場でギロチンで斬首刑にされた。 これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのはルイ16世本人だった。 大デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。

“朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」。”

 10時22分。 マリー・アントワネットは連打される太鼓と大砲の音で、夫の刑が執行されたことを知る。 悲しみと絶望にさいなまれながらも、次の瞬間、息子ルイ・シャルルの前に膝まづき、ルイ17世としての即位を讃えたのです。 最期まで、マリー・アントワネットは王妃であり、母であり、こうした窮地に立たされて、はじめて自分がどういう立場の人間だったのかを自覚し、それにふさわしい態度で臨んだ。

 因みに、国王・ルイ16世の遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。 後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世=兄・ルイ16世のヴァレンヌ事件と同時に夫人と愛人を伴いトリーア大司教領のコブレンツに亡命した。 1795年、革命政府によって幽閉されていたルイ16世の王太子ルイ・シャルルが死んだという風評が流れると、ルイ・シャルルがルイ17世と呼ばれていたことから、自らはルイ18世を名乗った=は、私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。

 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立ち、発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その近くからコルセットを纏う遺骨が陽光の下に現れた。 期しくも、ルイ16世の22回目の命日である1815年1月21日であった。 その後、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻マリー・アントワネットと共に改葬された。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =23=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 王妃、コンシェルジュリー≪牢獄≫に移管され・・・・・・ ◇◆

 ルイ16世の刑が執行された後、民衆は国王一家の存在を忘れたかのように見えた。 フランスの新しい指導者にとって、国王一家は諸外国との取引のための人質のようなもので、重要な存在でもあり、手厚く保護されていた。 マリー・アントワネットも、家族を残して自分だけ助かることを望んでいなかった。 1792年7月3日、王党派がルイ・シャルルを強奪して、ルイ17世として即位させようとしているとの噂が立ち、マリー・アントワネットとシャルルは引き離される。 この日から、アントワネットは喪服を脱ぐことをせず、口もきかなくなり、部屋の中を亡霊のようにさまようようになる。 連合軍が快進撃を続ける中、議会は革命の敵を一掃する目的で、8月2日、マリー・アントワネットをコンシェルジュリー(監獄)に移すことになった。

 ここで王太子(ドーファン)ルイ・シャルルに視点むけて母親マリ-・アントワネットともの双視点で記して行く。 後日、マリー・アントワネットが裁判の席に立たされた時、ジャック・ルネ・エベールが幼い王太子を暴力と洗脳で「母親との近親相姦の事実」の署名証言書を突きつけられるのである。 重複することを顧みず筆を進める。

 1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。 ルイ・シャルルは、パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。 新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。国王一家は2年後の1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。 このときルイ=シャルルは6歳だった。

 タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語、フランス語、歴史、地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。 数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いした。この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、国王一家に同情した職員からルイ=シャルルに贈られた愛犬ココと過ごした=この犬は後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死している=。

 1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。 1月28日、ドイツのヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。 しかしルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

 恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。 その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。 以後、ルイ17世(ルイ=シャルル)は体調を崩したままとなる。

7月3日、ルイ17世(ルイ=シャルル)は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。 王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベール(前節イラスト参照)から後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーム・シモンの元で過ごすことになった。 シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメットによる監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。

 彼らはサンキュロット(パリの貧困層)に見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。そして「ら・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。

 やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。 また、シモンはルイ17世(ルイ=シャルル)を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。 暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。 偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通称取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。

 シモンの妻マリー=ジャンヌはルイ17世(ルイ=シャルル)の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待をやめさせることは出来なかった。 ルイ17世(ルイ=シャルル)は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。 この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。

 さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。 母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。 翌日、マリー・テレーズとエリザベートはそれぞれ別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世(ルイ=シャルル)はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。 そしてこの尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。

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断頭台の露と消えた王妃 =24=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 囚人番号280のマリー・アントワネット・・・ ◇◆

コンシェルジュリーは、もともとフィリップ4世などカペー朝の王の宮殿(palais de la Cité、シテ宮)として建てられ、10世紀から14世紀にかけて使用されて来た。 フィリップ4世の宮殿だった。 しかし、シャルル5世らによって放棄され、ヴァンセンヌ城に居城が移された後の1370年に牢獄として使われ始める。 ロロージュ河岸に沿って建つ建物の地上階と2つの塔が牢獄に割り当てられた。 14世紀後半から牢獄として使われ始め、フランス革命の際には、多くの王族や貴族が収容された。 ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人もここに収容され、断頭台に送られている。 

 フランス革命の後、恐怖政治の時代は国民公会により革命裁判所が隣設され、1793年からフランス革命歴3年草月12日(1795年5月31日)までの約2年間に、2780名に対して死刑判決が下されたという。 多くの王族、貴族などの旧体制派が収容され、当時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」「ギロチン控えの間」とよばれた。 マリー・アントワネットが投獄されたのは1793年である。 そこにマリー・アントワネットは子供達から引き離されて移されたのである。

 国王一家が幽閉されているタンプル塔では、フェルセン伯爵をはじめ、アントワネットを救い出そうとする動きを誘発させる。 この国外からの救出活動を牽制するために王妃のアントワネットを単独で幽閉したのである。 幼いルイ17世(ルイ=シャルル)はジャック・ルネ・エベールの罠に落ちていた。 コンシェルジュリーの収監名簿に、監獄所長リシャールは『フランスに対して陰謀を企てた罪』と書き、アントワネットに与えられた囚人番号は280だった。 少なくともタンプル塔では、住むのは王家の人間だと言うことが配慮されていたのだが・・・・・。

 しかし、コンシェルジュリーの独房は、備品も設備も囚人用のものだったので、住み心地は格段に悪い状況である。 反対に、牢獄全体の雰囲気はタンプル塔よりもよく、監視もそれほど厳しいものではなかった。 囚人用の設備でタンプル塔よりも劣悪な環境にも関わらず、コンシェルジュリーの方が雰囲気良く感じられたのには訳があった。 タンプル塔で監視にあたっていたのは、活動家の中からパリ市が選んだ者たちで、反王政の人達であったが、コンシェルジュリーの監視は、フランス革命前に任命されている者たちばかりですので、王家を敬う気持ちも持ち合わせており、王妃のアントワネットに対しても、それなりに敬意を表して接していた。

 独房内には2人の監視兵がいた。 この2人はパリ市が任命した者でしたが、タンプル塔にいた警備兵よりも好意的で、定期的に花を持ってきてくれ、革命に思誠を誓うことを拒否した僧侶と会うことも黙認してくれた。 =この僧侶は、コンシェルジュリーに収監されていた僧侶と思われる= また、身の回りの世話をする女性が2人つけられている。 この女性はポケットマネーでアントワネットに小さな鏡をプレゼントしてくれたり、自分の部屋から小さな椅子も持ってきてくれたと言う。

 監視責任者のミショニは視察に来るたびに、タンプル塔の子供達の様子や、外の出来事を教えてくれ、リシャール所長の夫人も色々と便宜を図ってくれた。 他の囚人とは違う、上等なシーツを用意してくれたり、特別な料理も用意してくれるなど、タンプル塔に比べ、マリー・アントワネットに対して好意的な者が多くいた。 

 しかしながら、いくら好意的な者が周りにいても、アントワネットの行動は制限されてた。 朝は7時に起床し、就寝は22時。 朝食はパンにコーヒーかココアの軽いもので、髪を整えて2着しかない、黒か白の服を着ると、何もすることがなくなってしまう。 普通の囚人は、中庭で散歩やおしゃべりが可能だが、アントワネットは独房から出ることを許されていなかった。 独房内をウロウロしたり、散歩をする囚人を眺める気晴らしをしたりするしかない囚人生活である。

 本は許可されていたが、編み物と刺繍は禁止されていた。 針でケガをしてはいけないという表向きの理由がありましたが、本音は自分で命を絶たれては困るということだったのであろう。 アントワネットは壁布から抜き取った糸を紐にして編んだりして時間つぶしをしていた。 王妃の独房での健康状態は極めて悪く、慢性的な出血にも悩まされていたと言う。 美貌の面影はなく、見違えるほど衰えてしまい、見る者が胸を痛めるほどであった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =25=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ カーネーション事件と脱出の失敗・・・ ◇◆

  コンシェルジェリー(獄中)のマリー・アントワネットのもとには、いつも見知らぬ面会人がやって来た。 守衛にお金を払うと、誰でもアントワネットと面会ができた。 どれも見知らぬ人なので、アントワネットはいつも無視を決め込んでいた。 が、ある時、監視責任者のミショニが連れてきた面会人は見覚えがあった。 聖ルイ騎士団のルージュヴィルというこの人物は、民衆がテュイルリー宮殿に乱入したところを助けてくれた人物である。 彼は初対面を装っていたが、ボタンホールにさしたカーネーションを抜き取ると、床に捨てて目配せをした。

  あとで拾ってみると、花の中には手紙が入っていて、救出の計画があること、しかるべき味方がいること、ミショニもその1人であること、買収用のお金が用意されていることなどが書かれていた。 2日後、再びルージュヴィルがやってきて、買収用の資金、金貨400万ルイ、紙幣1万リーブルを渡し、脱出は2日後であることを告げた。

 アントワネットは、手渡された軍用金で監視兵を買収することに成功。 決行の夜、ミショニとルージュヴィルが独房に来て、マリー・アントワネットをタンプル塔に移すことになったと牢番や監視兵に告げた。 監視兵に付き添われ、いくつもの扉をくぐり、最後の扉を潜り抜けると、そこには逃走用の馬車が用意されているというときに、監視兵がアントワネットを外に出すことに反対しだし、騒ぎになって計画が失敗に終わる。

 脱走計画が露見してしまい、関係者に対する尋問を保安委員会が始まった。 ルージュヴィルはうまく逃走することができたのですが、ミショニは逮捕され、翌年6月に処刑されることとなる。 この事件をきかっけに、それまでマリー・アントワネットに対する裁判に積極的ではなかった革命推進の穏健派の中も、一変して裁判への動きが強くなって行く。

 一昨年(1793年)の1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑に処していた。 息子である王位継承者のルイ17世(ルイ・シャルル)はジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、下僕以上のぞんざいな扱いを受けていた。 1794年8月2日にコンシェルジュリー監獄に移送された王妃マリー・アントワネットが息子の王太子に会ったのは昨年の10月、獄舎の管理は厳しくなかったが、脱走計画が露呈してからは自由が束縛され、革命裁判の被告席に立たされることに成った。 その裁判の結果は初めから決まっていた。 急進化する革命裁判所は多数の反革命分子を処刑するため、王妃のアントワネットを最初の生贄として、急進派は欲していた。 

 しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。 業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。 しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。 その裁判の経緯は・・・・・

 元々、マリー・アントワネットを裁判にかける動きは革命当初にはなかった。 外国との交渉時の大事な人質だったからであり、ルイ16世の裁判は、国家の裁判所を自任していた国民公会で、正当な裁判を実施して王権を覆す正統性を論証するプロセスであった。 民衆は政権がブルボン家には無いことを認証できた。 一方、マリー・アントワネットの裁判は、不公平で形だけのものと成った。 裁判をする前から、マリー・アントワネットの運命は決められていたのである。

マリー・アントワネットを裁判にかけることを強く望んだのが、パリ市の幹部エベール(前節イラスト参照)と、革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルだった。 革命政府の中には、外国との交渉の道具にマリー・アントワネットを使おうと言う意見も相変わらず根強かったのだが、肝心の相手国が交渉に乗ってくる気配もなく、仮に逃亡されたら反革命派の勢いが再燃すると恐れていた。

民衆もアントワネットの裁判を強く望んだために、国民公会は裁判にかけることを決定した。 そのためには有罪判決がでるようにしなければならない。 フーキエ・タンヴィルが革命裁判所の組織強化に取り掛かりる。 判事と陪審員を筋金入りの革命派で固める策に出た。

 第1回目の尋問がコンシェルジュリーで行われた。 1793年9月3日16時頃から翌朝7時半まで、休憩を含めて15時間も行われたと言う。 罪を問われるのは『敵国との共謀』と『国家の安全に対する陰謀』であり、この設問について審問された。 しかし、マリー・アントワネットがフランスを裏切っているという、有罪になるだけの証拠は揃えらなかった。

 強引な尋問は、タンプル塔にいる義妹エリザベート(前節イラスト参照)と娘マリー・テレーズ、息子ルイ・シャルルにも行われた。 エリザベートとマリー・テレーズは、何を聞かれても否定を通した。 しかし、息子ルイ・シャルルは尋問の中で、マリー・アントワネットが何かしらの方法を使い、外部の協力者と情報を交換していたこと、塔に派遣されたパリ市の役員に、共犯者がいるのではないかという嫌疑を全部認めてしった。

母が監視の役人達と1時間半ほど何か相談をしていたとか、毎晩22時半になると、窓の外から行商人が情報を叫んでいたなどと証言した。 しかし、エリザベートとテレーズの証言の一問一答が記録されているにもかかわらず、シャルルの証言は、あとからまとめて書かれたものであった。

8歳の子供が証言するには詳細すぎて具体的すぎ、信憑性に欠けているが、どんな手を使ってでもマリー・アントワネットを有罪にしなければいけなかったのだ。 何故なら、裁判は見せ掛けだけのものであり、判決はとっくの前に決まっていたのだから・・・・・・。

 

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○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 王妃マリー・アントワネットの裁判・・・・・・ ◇◆

 1793年10月12日18時、革命裁判所の法廷で、非公開の予審尋問が開かれた。 とは言うものの、内容は尋問というよりも告発に近いものだった。 裁判長がマリー・アントワネットに問いただしたのは以下の7つの項目。

 1.日頃の浪費だけではなく、兄である皇帝レオポルト2世と、フランスの利益にはならない関係を維持し、数百万リーヴルの送金をして、フランス財政を逼迫させた。

 2.フランス人民を騙す術を国王に指示し、国王の拒否権行使やヴァレンヌ逃亡をそそのかした。

 3. フランス国民の自由を破壊し、王政を復活させようとした。

 4. 亡命した貴族と共謀し、国家の安全を脅かす計画を企てた。

 5. 1792年8月10日の革命のとき、人民に向けて発砲させた。

 6. タンプル塔で、革命の敵となる者たちと連絡をとっていた。

 7. カーネーション事件に関与した。

 陪審員が1時間の退席をして審議をしている間、アントワネットは自分が国外追放になるものだと信じていた。 しかし、この裁判は革命に生贄奉げる儀式であったがゆえに、裁判の審議過程を問わずに、開廷前に判決は決まっており、審議するふりをして陪審員らは時間を稼いでいるだけだった。

 尋問が再開された。 そこで例の狂犬ジャック・ルネ・エベール(前節イラスト参照)により、思いがけない驚くべき汚名が彼女に蒙らされる。 彼女が久しい以前から、九歳の息子に不潔な快楽の方法を教え、息子と忌わしい近親相姦にふけっていたという罪状である。 これには息子や王妹エリザベートも証人として出廷させられ、裁判長の尋問を受けている。 息子が検事の誘導尋問の通り、母親の不利になるような供述をしたことが事実の蓄積として記録され、陪審員に印象を残して行った。

 まだやっと九歳になったばかりの子供の、こんな破廉恥な証言に、どれほどの信憑性があるか知れたものではなかろう。 が、マリー・アントワネットは心底から好色な、堕落した女だという確信が、数えきれないほどのパンフレットのおかげで、革命家の魂のなかに深く滲み入っているので、実の母親が八歳六ヶ月になる息子を性的にもてあそぶなどという、容易には信じがたい罪状でさえも、ヘーベルらの徒には何の疑念もなしに受け容れられたのである。

 牢獄・コンシェルジェリにおける七十日は、王妃アントワネットの肉体をいよいよ老いこませていた。 日光から遮断されていた彼女の眼は、赤く充血して焼けつくように痛む。 唇と下半身のひどい出血が、見違えるほど彼女を憔悴させた。 しかし法廷に立つ彼女は頭をしゃんと起し、動揺の色もなく、落着いた眼ざしを裁判官のほうに向けていた。

 再び、鬼検事フーキエ・ダンヴィルが立ちあがって、起訴状を朗読する。 王妃は、ほとんど聞いていないかのごとくである。 しかし、再度 尋問がはじまると、彼女はしっかりと確信をもって答える。 一度も取り乱したり、自信をなくしたりしない。 ともあれ、筋書通り、陪審員たちは全員一致して、マリー・アントワネットが彼女に帰せられた犯罪に対して有罪であると言明する。

 この判決を聞いても、彼女はまるで無感動で、不安も示さなければ怒りも示さない。 裁判長の質問には一言も答えず、ただ否認のしるしに頭をふるばかりである。 あたかもこの人生に一切の希望をなくし、ただ一刻も早く死に赴きたいと願ってでもいるように。

 審議が終わり、深い沈黙に閉ざされた法廷に、裁判長エルマンが『マリー・アントワネット。 これから陪審員の答申を言い渡す』 と告げた後、検事フーキエ・ダンヴィルが『被告人は死刑に処せられる』 と叫んだ。 身じろぎせずに判決を聞いたアントワネットは、法廷を後にするとき、『もう何も見えなくて歩くこともできません』と、憲兵の手を借りた。 こうして見せ掛けだけの裁判が幕を閉じた。

 しかし、10月14日の出来事 公判裁判の判決を覆すまでには至らず翌日の10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。

 処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート =後日、彼女もギロチンの犠牲になる。エーベルが王太子を暴力的な脅迫で証言させる= 宛ての遺書を書き残している。 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。 この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。 遺書は革命後に再び発見され、マリー・テレーズ(フランス国王ルイ16世の長女。アングレーム公ルイ・アントワーヌ(フランス王太子)の妻)がこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =27=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ マリー・アントワネット、最後の日・・・・・・ ◇◆

 マリー・アントワネットは判決に嘆願もせず、抗弁もせず、猶予を願うこともあえてしない。 彼女にはもう失うものが何もないのである。 まだ三十八歳だというのに、髪はすでに白くなり、その顔には不安は消えて、茫漠とした無関心の表情があらわれている。 すでに彼女は「自分自身を使いつくして」別の女になってしまっていたのである。 王妃マリー・アントワネット、未亡人カペーは、世界中から見捨てられ、いまや孤独の最後の段階に立っている。 あとはただ、王妃にふさわしく、誇り高く立派に死ぬことが残されているのみだ。

 マリー・アントワネットは、死刑の判決を受けて独房に戻ったときに、義妹エリザベートに手紙を書いている。 『妹よ、あなたに最後の手紙を書かなければいけません。私は判決を受けたところです。 しかし恥ずべき死刑の判決ではありません=死刑は犯罪者にとってのみ、恥ずべきものなのですから=。あなたの兄上に会いに行くようにとの判決をくだされたのです。 ・・・・・・』、 しかし、この長い告別の手紙を義妹エリザベートが目にすることはなかった。 エリザベートも二ヶ月後にギロチンに処せられるのである。 王妃のこの遺書は、牢獄管理人から数人の手を経て、最後に手にしたのはルイ18世で(ルイ16世の弟)、後に王政復古後の時代になってからに成る。

 足掛け3日間続いた裁判が終わり、王妃マリー・アントワネットが獄舎のコンシェルジュリーに戻ったのは10月16日未明だった。 刑場に出発する時間まで、7時間あまりしか残されていなかった。 上記の義妹エリザベートに手紙を書き終えた王妃は、1人跪いて長い間神に祈りを捧げ、衣裳を着たままベッドに横たった。 夜明け頃、部屋係のロザリが王妃の独房に行き、朝食をどうするのか尋ねると、アントワネットは涙を流しながら、自分は何も必要としない、全てが終わったと告げたと言う。 それでも『マダム、かまどにブイヨン・スープとパセリをとっておきました。あなたは持ちこたえる必要があります。 何か持ってこさせてください。』と言う、『ロザリ、私にブイヨン・スープを持ってきて』と、更にたくさんの涙を流して言ったと言う。

 このブイヨン・スープがマリー・アントワネット最期の食事となった。 午前8時、それまで身にまとっていた喪服を脱ぎ、白い普段着に着替え、下は黒のスカートをはき、黒いリボンのついた小さめの帽子をかぶる。

 午前10時頃、刑場へ行く準備をするために、独房に判事と死刑執行人のサンソン(前節イラスト参照)がやって来た。 サンソンに手を出すように言われたマリー・アントワネットは、うろたえて、『私の手を縛るのですか? ルイ16世の手は縛らなかったのに』と抗議する。 判事に促されてサンソンはアントワネットを後ろ手に縛ります。 そして、断頭台の刃が妨げられないよう、髪の毛も乱暴に短く切られてしまう。

 午前11時15分、後ろ手に縛られたままのマリー・アントワネットは、夫ルイ16世が刑場に向うときは立派な馬車で向ったのに対し、彼女が乗せられた馬車は普通の罪人にも使われる荷馬車だった。 死刑執行人サンソンが、彼女の両手を背中に縛りあげた縄の端をにぎっている。 王妃は最後まで強さを失うまいと、精神力のありったけを集中して前方をにらんでいる。

 刑場までの道には、アントワネットの救出を警戒し、3万人の憲兵が動員され、多くの見物人も詰め掛けていた。 馬車はゆっくりと進み、セーヌ川を渡り、断頭台のある革命広場(旧ルイ15世広場・現コンコルド広場)に到着した。 その間、王妃マリー・アントワネットは背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据え、付き添いの僧侶とも口をきかずに群集を黙って見ていた。 充血した目に青白い顔の頬はほんのりと赤く、乱暴に切られた白髪が帽子から出ていた。

 革命広場(コンコルド広場)に到着したマリー・アントワネット。 テュイルリ庭園の方をチラっと見ると、誰の手も借りずに荷馬車から降りた。 毅然とした態度で処刑台の階段を登り、頭を振って自分で帽子を頭から落とした。 取り乱して見苦しいところを見せることなく、執行人に身をゆだねたのである。 ただ、荷馬車から降りる時に手を貸そうとした、死刑執行人アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」と微笑んだと言われている。

 準備をするのに4分かかり、1793年10月16日12時15分。 マリー・アントワネットの首に、刃が落とされた。 執行人が、マリー・アントワネットの血のしたたる首を掲げると、『共和国万歳!自由万歳!』という歓声が、見物人から地響きのように繰り返しあがる。 マリー・アントワネットの最期の言葉は、『さようなら、子供達。あなた方のお父さんのところに行きます。』だった。

 それを聞いていた、刑の執行人のサンソンは、皮肉なことに王党派であり、後に、見つかると重罪になる、ルイ16世とマリー・アントワネットのためにミサを行っている。 刑が執行されたあと、マドレーヌ墓地に運ばれたアントワネットは、埋葬命令が出ないため、半月近くもの間、膝の間に頭を置かれた状態で、墓地の隅の草むらに放置されたままだった。

 この光景を、的確なスケッチにより見事に描き出したのが、革命派中の唯一の芸術家ルイ・ダヴィッドである。ほんの一筆の素描のうちに、彼はあり合せの紙の上に、馬車にゆられて断頭台に赴く王妃の顔を、生き生きと写しとった。 彼はカメレオンのように色を変え、権力に尻っぽをふる卑劣な人間ではあったが、画家としては当代最大の、狂いのない手をもった達人であった。 マリー・アントワネットの最後にして最良の肖像画=書き出しで引用したジャン・コクトーの表現=が、これである。

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断頭台の露と消えた王妃 =28=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットの評価 =その一= ◇◆

 パリ・コンコルド広場(革命広場)、1798年10月16日12時15分、ギロチンの刃が落下した。 通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたと言う。 これは真実ではない。 しかしこのような噂話が実しやかに語られるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠であろう。 この風説が王妃マリー・アントワネットの評価を歪にしていったようである。

 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。 後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。 発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。

 その後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。 現在では、後述の「パンがなければ」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、そのほとんどが中傷やデマだということが判明している。 ただし、彼女が一部の寵臣のみ偏愛したために不要な反発や、ヴェルサイユの品位の低下を招いたこと、また無類の浪費家でギャンブルにふけったことは事実であり、彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出された。

 しかしながら、マリー・アントワネットの浪費だけでフランス一国の財政が傾いた訳ではない。 1778年の場合を例に取ると、王室および特権貴族の出費は3600万リーブルであり国全体の6%程度に過ぎず、彼女の支出はさらにその一部である。 フランスのシンボルたる王妃としての体裁を繕うための出費が含まれると考えれば、「彼女がフランス財政を崩壊させた」ということはあり得ないと言える。 既にフランスの財政は先代ルイ15世の時代から傾いていた。 過去の王達が愛人を多数囲っていたのと戦争により巨額の支出が最大の原因と言われているのであり、当時の貴族は免税の特権があった。 また、アントワネットが所有したと言われる「60万リーブルのドレス」「50万リーブルの耳飾り」と言った豪華な品々も現在では誇張が含まれていたとされ、信憑性が疑問視されている。

 マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。 彼女はフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取り、あえて旧体制を守ろうとしたのである。 このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ、それだけでも死に値する罪状となったのである。 彼女自身は王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え上がらせる結果となってしまうのである。

 このように、不幸な王妃の代表格といわれることも多い。 しかし、夫ルイ16世は彼女以外に寵姫や愛人を持つこともなく、断頭台に登る間際まで彼女を案じる手紙=彼女には何の落ち度も無いことを訴える内容のもの=を残すなど、王政廃止から二人が処刑される間のほんの短い間であったとしても、妻としては幸福な一生だったとも言えるだろう。 民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられる。 しかし、「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」という自戒の言葉のように、晩年は置かれた現実を把握をしていたのであろうとも言える。

 「パンがなければ…」の発言

 マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある。 原文は、 “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュ(菓子パン)を食べるように」となる。 ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、当時の原料はパン材料よりも非常に安価な小麦粉・塩・水・イーストだけのパン生地に、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。 確かに、庶民は安価な菓子パンのみの食生活だったかもしれない。

 しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないこと (ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)が判明している。  歴史学者アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書いている。

 実際には、1780年代 マリー・アントワネットを妬んだ他の貴族達の作り話で、アントワネット自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。 トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるフランツ1世(前節イラスト参照)が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =29=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットの評価 =その二= ◇◆

  ハプスブルグ家の王女として自由闊達に育てられたマリー・アントワネットは、ウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。 また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルトからプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードが残っている。 因みに、モーツアルトも少年の域を出ない年齢であったと言う。

  後年、アントワネットはルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏していたという。 タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれていた。 歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしているのです。

  なお、マリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。 彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。 近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。

 蛇足ながら、2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝図化歌劇『ベルサイユのばら』で使用されている。 このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜も出版された。

 マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。 母マリア・テレジアも幼い頃から彼女に入浴好きになるよう教育している。 入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだ後も彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。

 入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。 マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、バラやスミレの花やハープなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族達の間でも流行するようになった。 もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。

 また、マリー・アントワネットは家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。 マガボニー、黒檀、紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。 珊瑚や銀も家具の装飾用として使われた。 ドイツ人家具職人を多く抱えルイ16世様式の家具を多く貴族に広めている。 また日本製や中国製の家具や漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。 これらは現在もルーブル美術館に展示されている。

 当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘアスタイルを競っていた。 アントワネットも王妃になってまもなく、ローザ・ベルダンという新進ファッションデザイナーを重用する。 ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。

 何より女性達の視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた“庭ヘアー”や船の模型を載せた“船盛りヘアー”など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけるファッションで周囲を驚かせている。 しかし、即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった。 この頃ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。

 最後に彼女の容姿について記しておこう。 身長は154cm。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58~59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった。 顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、『ハプスブルク家の下唇』と言われる特徴があった。 しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。  教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。 

 これほど美しい腕や手は、その後二度とみたことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。 思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている。

 身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている。 ベルサイユ独特の足をあげずに滑るように歩く「ベルサイユの摺り足」は彼女を参考にするべきとされた。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =30=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ≪第一部・子女≫マリア・テレーズ・シャロット =1/5= ◇◆

追考として、一部:マリー・アントワネットの子女、二部:王妃の周囲の重要な人々/ マリア・テレシア(前節イラスト参照) / デュ・バリー夫人 (前節イラスト参照) / フェルセン伯爵  / ポリニャック夫人 / エリザベート 等々を記述しよう。 因みに、子女については、マリア・テレーズ・シャロットとルイ・シャルルを記述し、生誕後まもなく他界したルイ・ジョセフ・グザヴィエ・フランソワーとマリー・ソフィー・ベアトリスは割愛する。 尚、4人の子供たちはいずれも子を残していないため、直系の子孫はいない。

【マリア・テレーズ・シャロット ① / ウイキペディアより】

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。 夫妻の結婚から7年目にしてようやく生まれた子供であった。 名前は祖母である「女帝」マリア・テレジアの名のフランス語形である。 幼少期はブルボン家ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、プライドが高く、少しこましゃっくれた性格であった。 9歳の頃、ヴェルモン神父から母が落馬したが無事だったという話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。 養育係が誤って彼女の足を踏みつけたが、その日の晩に傷ついた足に乾いた血がついているのに気づいた養育係は「なぜ足を踏まれた際に何も言わなかったのか」と聞くと、「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、あなたが原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう」と答えたというエピソードがある。

マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエ(下着の一種)を身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母への悪口を耳にしていた。 1789年5月5日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。 それでもフランス革命以前は、人々からマダム・ロワィヤル(Madame Royale)の称号(第一王女に授けられる)で呼ばれ、愛された。

10歳の頃、1778年7月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズの遊び友達として迎えられた。 この少女はマリー・テレーズと瓜二つだったと言う。 1788年4月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。 ルイ16世はエルエスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた。 マリー・テレーズは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼル夫人の娘、ポーリーヌ・ド・トゥルゼルによくなついた。

1789年10月6日、マリー・テレーズは家族や廷臣と共にチュイルリー宮殿に軟禁される。 そして、1790年4月4日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受けた。 1791年6月21日、ヴァレンヌ事件が起きたが、前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。 1792年8月9日、チュイルリー宮が襲撃される。 

かねてからマリー・アントワネットよりエルネスティーヌの安全を命じられていたマリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人は、エルネスティーヌを連れてチュイルリー宮を脱出。 しかし、8月13日、マリー・テレーズはタンプル塔に監禁された。 父母と叔母エリザベート王女は革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離され、2年近く1人で幽閉生活を強いられていた。

マリー・テレーズは国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会面会者からの質問には全く答えなかった。 また、幽閉されてから病気になった弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。 マリー・テレーズの部屋では下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえてきた。 少女の慰めはエリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であったと言う。

ロベスピエール処刑以降は待遇が良くなり、1795年7月、身の回りの世話をするアルサス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。 30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩をする許可を得て、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」をペットとして部屋に呼んだ。 ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に彼女が気の毒になり、それまで伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。

また、誰ともほとんど会話をすることのないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズの発声異常を、ド・シャトレンヌ夫人は手助けした。 しかし、彼女のガリガリと話す発声異常は生涯治ることはなかった。 マリー・テレーズはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼ぶようになる。

この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズに同情的になっており、彼女が散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーは近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。 タンプル塔近くのボージョレ通りは、マリー・テレーズを見学しようとする野次馬であふれ、民衆の関心を集めて行った。

流転の亡命生活 / オーストリア

1795年7月30日、マリー・テレーズの母方の従兄の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、フランス人捕虜との引き換えによるマリー・テレーズの身柄引き渡しに同意した。 9月、ド・トゥルゼル夫人とその娘ポーリーヌと面会、まもなく彼女と釈放されウィーンに送られることを話す。 この時マリー・テレーズは、ルイ・シャルルが使った部屋を案内した。 12月19日、マリー・テレーズが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発する。 翌1796年1月9日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着する。 しかし、ナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏ごろまで避難する。

ウィーン宮廷では亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズを丁重に扱い、手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。 しかし、マリー・テレーズは時にレモンの果汁で手紙を書く=炙り出し文=など、非常に慎重に文通や送金を行っていた。 1797年、文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人が出産した男児を命名して欲しいという手紙が届き、自分の名前からシャルルと名づけてはという提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるため非常にそっけない内容の返信となった。 この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍してくる。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =31=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ≪第一部・子女≫マリア・テレーズ・シャロット =2/5= ◇◆

【マリア・テレーズ・シャロット ② / ウイキペディアより】

1797年、この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍してくる。

フェルセン伯爵は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズのために親類や友人に分散して残した金と宝石を取り戻し、彼女が相続できるように各国の宮廷を奔走した。 フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、1797年2月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズが相続すべき財産の所有を認め、後に彼女の持参金にするとフェルセン伯に答えた。 フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていたが、彼女はブルボン家の叔父が薦める父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。

ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉、フランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いを嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大公女、マリア・アマーリア大公女とは親しく、1798年にマリア・アマーリアが死去した際には非常に悲しんだ。 他方、スペイン・ブルボン家カルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの旅費を負担すると約束した。 トリーア選定候クレマンス・フォン・サクセンから、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画と父ルイ16世が断頭台で身に着けていた血で汚れた肌着を受け取り、それらを持ってミタウへと旅立った。

流転の亡命生活 / クールラント

1789年春、叔父ルイ18世夫妻の亡命地ロシア領クールラントのミタウ城に到着した。 彼女はルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面したが、神父は涙ぐみ言葉にならなかった。 マリー・テレーズは同年6月10日、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚した。 結婚祝いにルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズの手のひらに載せると、新郎新婦は抱き合って泣いた。 当時のロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドのアクセサリー一式と金がつまった財布、帽子とガウンを山のように贈った。 マリー・テレーズの勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまでロシア領滞在を認める手紙も添えられていた。 彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べている。

この頃のマリー・テレーズについてルイ18世は「両親にそれぞれ似ており、身長は母親ほど高くないが、かわいそうな妹よりは高い。 軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時涙は見せない。 善良で親切で優しい」と弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世)宛ての手紙で評した。 この結婚はアングレーム公の父アルトワ伯が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったようである。

アングレーム公とは愛し合っていたが、子供が出来ず、亡命中のアングレーム公は対ナポレオン戦線に加わることを望んだ。 1800年4月、ナポレオンが第2次イタリア戦役を開始すると、アングレーム公はコンデ公と共に戦うためミタウを去った。 この結果、夫婦はイギリスで合流するまで、長年離れて生活せねばならなかった。 5月、ミタウを訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズから生きる気力を感じれられず、結婚生活が不幸なのではと考えた。 その後、父の処刑に賛成票を入れたオルレアン公の長男ルイ・フィリップ(後のフランス王)がやってきたが、マリー・テレーズは面会すら拒んでいる。

1801年1月22日、ルイ18世はパーヴェル1世から、ロシア領からの退去命令を受ける。 マリー・テレーズにはサンクトペテルブルクで自分の客として過ごすよう薦めた。 しかしマリー・テレーズは、叔父の2台の馬車の一行に加わった。 真冬のロシアから行き先もない旅をするため、家具を売却して旅費に充てた。 旅費も乏しい極寒の旅の最中、ルイ18世の秘書であり、マリー・テレーズの聞罪司祭だったマリー神父が自殺する。 彼は最期に「ド・ショワジー嬢」と彼女の侍女の名前を残していた。 マリー・テレーズは聖職者の密かな恋を知り、ショックを受ける。

ルイ18世はプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に滞在許可を求める手紙を送り、マーメル滞在中にプロイセン王から、ナポレオンを刺激したくないのでフランスの許可を先に待つという返事を受け取る。 マリー・テレーズは母の幼馴染フレーデリケの娘、プロイセン王妃ルイーズからサンクトペテルブルクに安全な場所を提供されるが、「叔父を見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている」と断った。 その後ルイーズ王妃は「ナポレオンがルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズはラ・メイユレイ侯爵夫人と名乗る条件付きで、この一家と側近をワルシャワに滞在許可を出した」という手紙をマリー・テレーズに送った。 ルイーズ王妃はその後も王に代わり、フランス亡命宮廷のためにナポレオンや各国の王族と交渉し続け、マリー・テレーズの頼れる友となった。

流転の亡命生活 / ワルシャワ

1801ねん3月6日、一行はワルシャワに到着した。 数週間後、休暇をとったアングレーム公が到着した。 その直後、パーヴェル1世の暗殺に息子アレクサンドル1世が関わっていたことを知る。 アレクサンドル1世はブルボン家にあまり関心を示さず、父が支払っていた半額以下の手当しか出さなかった。 しかし、ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの曾孫であるルイ18世と、熱心なカトリック信者であるマリー・テレーズは、ワルシャワで非常に歓迎された。 

ワルシャワではヴェルサイユのように宮廷儀礼が作られ、彼女はフランス亡命貴族の支援や修道院や貧民を見舞う慈善事業も行った。 ポーランド貴族たちは、亡命宮廷がレシチニスキ宮殿で夏を過ごすよう手配した。 この頃、ルイ18世は政治的な相談についてマリー・テレーズを頼るようになった。

ワルシャワにフランス王室が定住すると、ミタウやヨーロッパ各国からルイ18世のために廷臣たちが集まった。 カルロス4世やフランツ2世、アルトワ伯からの送金だけでは宮廷費がまかなえず、マリー・テレーズはパーヴァル1世から贈られた豪華なダイヤモンドを売却した。 ルイ16世に仕え、ルイ18世の側近となったユー男爵は、1801年から1802年の冬の厳しさ、マリー・テレーズの倹約、そして彼女がよく泣いていたことを記録している。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =32=

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○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

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【マリア・テレーズ・シャロット ③ / ウイキペディアより】

再びクールラント、そしてイギリス

1804年3月21日、コンデ公がナポレオン暗殺を企んだという冤罪により処刑された。 ワルシャワの亡命宮廷は4月9日にこの事実を知った。 マリー・テレーズは憎しみを込めて、ナポレオンを「犯罪者」と呼んでいる。 そして、翌年の1805年4月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。 ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まると、マリー・テレーズとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護する。 看護中にエッジワーズ神父は腸チフスに感染し、5月22日に病死してしまう。 またしても彼女は悲しみに襲われた。

ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世が避難場所を用意することを知らせた。 8月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公は妻たちを残してストックホルムへ旅立った。 グスタフ4世は2人を手厚くもてなしたが、2人は突然やってきたベリー公とともにイギリスへ向かった。

イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドのエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、バッキンガム侯爵 が仲介し、ロンドン北東部のゴスフィールド・フォールをフランス亡命宮廷の定住地とした。 1808年8月、マリー・テレーズはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌとゴスフィールド・フォークに到着した。 翌1809年4月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借り、移転した。 マリー・テレーズは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。 義父アルトワ伯はロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。 イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。

1810年3月11日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼ大公女がナポレオンに嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズも衝撃を受けた。 フランス亡命宮廷にはフェルセン伯爵殺害、プロイセン王妃ルイーズの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズは落ち込んだ。 1812年2月、認知症となったジョージ3世の摂政となった王太子(後のジョージ4世)は、亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続け、亡命王室に多額の手当を出し、フランス亡命貴族にも愛を持って接し、盛大なパーティを催して楽しませた。 

舞踏会の際、栄誉ある王太子の右隣にはマリー・テレーズが座らせた。 彼女はもちろん、王太子を気に入った。 英国亡命生活には憂いが無く、1813年1月、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。 しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。 その後、彼女が妊娠することはなかった。

復古王政期 / フランスへの帰国

1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、マリー・テレーズはイギリスを後にした。 4月23日、フランス・コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。 パリに戻ってからのマリー・テレーズは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたチュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。 そこにはナポレオンによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。

マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で名前を呼び、彼らを怒らせた。 他方、新興貴族たちは、マリー・テレーズがイギリスの田舎くさい格好でパリに戻ったと嘲笑した。 ルイ18世は「人前でむすっとした顔をしないこと、垢抜けない服装をしないこと、人前では紅ぐらいをつけなさい」と彼女を叱った。 また、帝政下で成功したかつての仲間もマリー・テレーズは嫌った。

また、マリー・アントワネットの侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していたことを知ると、彼女との面会も拒んだ。 反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。 時代に融合できない旧家僕の恩に報いている。

両親のルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は1805年に発見されていたが、ルイ・ジョゼフの遺体はマリー・テレーズが帰国後も見つからなかった。 亡命時代からルイ・シャルルだという人間が現れてはマリー・テレーズに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じなかった。 しかし、彼女は弟の生存を確かめるべく、12月13日にかつての弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪ねた。 シモン夫人は、ルイ・シャルルはタンプル塔で死んでおらず「1802年に自分を見舞いに来た」と答えた。

翌1815年1月27日、パリ市立病院を見舞っていたマリー・テレーズは、ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ・ジャン・ペルタン医師を紹介された。 ルイ・シャルル(ルイ17世)の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べている。 2日後、ペルタン医師は再び彼女と会い、ルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えたが、その後何度も手渡すことに失敗し、1825年5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託した。 その後の1826年9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠されたと言う。

 

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【マリア・テレーズ・シャロット ④ / ウイキペディアより】

ナポレオンの百日天下

この頃のフランス国民はマリー・テレーズの地味な衣装や不機嫌さを嫌ったが、極寒のミタウからワルシャワまで叔父を支えて旅した勇気を称え「新たなアンティゴーネ」と呼んだ。 彼女はブルボン家の再興に熱意を燃やし、フランス各地を視察した。 アングレーム公もそれを支援した。 1815年3月12日、滞在先のボルドーにアングレーム公が到着するが、ナポレオン逃亡の一件を聞き、アングレーム公は引き返す。 マリー・テレーズはボルドーに残り、4000人の国王軍を指揮する。マリー・テレーズ小さな国王軍の主導権を握った。 

彼女は、3月20日からのナポレオンの百日天下に際して、カロンヌ川岸のベルトラン・クロレール率いる革命軍と反対側に陣取るブルボン家軍が緊張する中、屋根のない馬車で立ち上がり、反ナポレオンの挙兵演説を行った。 その内容は翌日、ロンドンの『ザ・タイムズ』に紹介された。 これを知ったナポレオンはマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄した。 ヘントに逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争ヘンリー6世のためにランカスター家の軍隊を指揮したマーガレット・オブ・アンジューに例えた。

マリー・テレーズはその後再び亡命し、4月19日にイギリスに上陸。 彼女はまずブルボン公に手紙でけしかける。 ヘントに逃れていたルイ18世に送った手紙では、ナポレオンを「あの男」と呼んだ。 ナポレオンはマリー・テレーズと亡命中の夫との書簡の一部を奪い、その中身を公開した。 この行為に彼女は怒り狂った。 そして、7月29日、彼女はにパリに戻るが、臆病なルイ18世にうんざりしていた。 帰国するやいなや、彼女はチュイルリー宮殿にあるNの文字、蜜蜂と鷲の装飾をすべて取り払うよう命じた。 そしてルイ18世に頼み、100日天下の頃、自分を王座につけるよう民衆を煽っていたルイ・フィリップをフランスから追放させた。

ルイ18世時代

マリー・テレーズは死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のように彼女についてまわった。 アルトワ伯とマリー・テレーズは超王党派となり、出版の自由の制限や教会勢力の増大、完全な国王主権を望んだ。 ルイ18世は中道的で、時には自由主義者と妥協することもいとわぬためそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。 また、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえる。

そのため、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった。 夫君・アングレーム公はイギリス亡命時代に触れた議会政治への憧れが徐々に強くなり、夫婦は政治面に口論することもあった。

しかし、ボルドーで彼女が見せた勇気と慈悲深い性格を人々は称え、作家で政治家のシャトー・ブリアン夫人は1816年、パリに元亡命貴族と聖職者の避難所のマリー・テレーズ病院を作った。 ルイーズ王妃に先立たれたプロイセン国王が最初の寄付者となった。 この年、ルイ18世はマリー・アントワネットが最期を過ごしたコンシェルジュリーの独房を公開し、フランスのキリスト教会は敬虔なマリー・テレーズに司教と枢機卿を指名する名誉を与えた。

同年の5月17日、アングレーム公の弟ベリー公が両シチリア王フランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌと結婚した。 ところが1820年2月13日、オペラ座でベリー公は狂信的なボナパルト派の馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルにより暗殺された。

王族一同が警察大臣エリー・ドゥカズの罷免を求め、アルトワ伯爵とマリー・テレーズはこの事件を、ルイ18世の自由主義的政権と権力を強めたドゥカズのせいとした。 彼女はルイ18世に「もう一緒に食事をしません、パリを立ち去ろうと思います」と夫婦で南西部へ行こうとする意思を見せると、ルイ18世は譲歩し、ドゥカズを罷免した。 9月29日にマリー・カロリーヌがアンリ・フェルディナン・デュードネ(フランス・ブルボン家最後の王位継承候補だった人物)を出産する。 マリー・テレーズは友人ポーリーヌに「やっと永遠に諦めがついたから子供がいないままでいるわ」と心中をもらした。

マリー・カロリーヌは社交に熱中し、子供たちと過ごすことは少なかった。 マリー・テレーズは幼い甥と姪が自由に遊べるプチ・トリアノンのような場所を望み、自らも辛い思い出から離れるために1821年12月29日、パリ西部にあるヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入した。 図書室には彼女が集めた旅行記や革命史の本が並び、父ベリー公を失ったルイーズとアンリのために動物を集め、農場を作った。 彼女は農場で取れる牛乳と生クリームを自慢にし、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだ。 しかし、政治的な面で嫌っていたリシュリュー公が参加した晩餐会では、彼の皿にそのクリームを与えなかった。

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断頭台の露と消えた王妃 =34=

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○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

 

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シャルル10世時代

1824年、ルイ18世が病死した。 アルトワ伯が国王シャルル10世となり、マリー・テレーズは王太子妃となる。叔父ルイ18世によく仕えたように、彼女はこの叔父(かつ舅)にもよく仕えた。 1825年7月24日、差出人不明のマリー・テレーズ殺害予告文を議会で大臣に見せた。 いまだ彼女は政敵から狙われていた。 だが、彼女を慕い訪問する人々は絶えなかった。 王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。

そしてベリー公の遺児ルイーズとアンリの面倒を見る。 2人は伯母であるマリー・テレーズによくなついた。 フランスに帰国していたルイ・フィリップを相変わらず嫌っていたが、毎年元日にはオルレアン家の子供たちにプレゼントを贈った。 だが、ルイーズとアンリにはかつて自分が母にされたように、多くのおもちゃを見せてから「ありがたみと貧困」の教えを説き、おもちゃを送り返した。 子供たちはこれをよく理解し、不満は口にしなかった。 孫たちの様子はシャルル10世を満足させていた。

7月革命後の再亡命 / イギリス

1830年、7月革命によって、またしてもシャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなった。 パリでの暴動の後、マリー・テレーズはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を売却した。 購入したドゥカズ子爵は、ベリー公暗殺の際に罷免されたドゥカズの兄弟であった。 亡命準備をしたマリー・テレーズは、親友ポーリーヌと泣きながら別れた。 彼女は別れの際に、マリー・アントワネットの遺品の印章をポーリーヌに差し出した。これが2人にとって今生の別れとなった。 

シャルル10世一家は8月3日にパリを出発し、ゆっくりとフランスを北上した後、8月16日、シェルブールからイギリスへ渡った。 ワイド島のセントヘレンズへ上陸させられた一家は、ウェリントン公ウィリアム4世の代理となった信書を受け取る。 そこには、私人として到着するならイギリスに避難所を用意する、と記されていた。 イギリスではシャルル10世はポンティユー伯爵、マリー・テレーズはマルヌ伯爵夫人、ベリー公妃はロニー伯爵夫人、アンリはシャンボール伯爵と名乗った。

カトリック教徒のトマス・ウェルド卿は、国王一家にドーセントのラルワース城を貸した。 マリー・テレーズは秘書のシャルレ男爵の画策により、一家を養うための多くの金をロンドンの銀行家ワースから受け取った。 10月、一家はエディンバラのホリールード宮殿に移ったが、ここは一般公開されており居心地が悪く、マリー・テレーズは宮殿の近くに小さな家を借りた。 シャルル10世は老年を孫に囲まれて暮らすのは幸せだと、たびたび口にした。

7月革命後の再亡命 / オーストリアの庇護下

フランス新政府とイギリスの関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝フランツ1世を頼りプラハへ移ることに決定した。 その際、マリー・カロリーヌは同行を拒み、シャルル10世はしぶしぶ「フランスに帰国した際、息子が未成年の場合はベリー公妃を摂政とする」と宣言し、署名した。 その直後、マリー・カロリーヌは姿を消し、ヨーロッパ各地を転々とした後、1832年4月にブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こし、逮捕された。 拘留中のマリー・カロリーヌが青年弁護士との間の子を妊娠していることとルッケーシ・パッリ伯との秘密結婚が明らかにされ、嫁の不貞に怒ったシャルル10世はマリー・カロリーヌを絶縁し、マリー・テレーズが母親代わりにルイーズとアンリを養育することになった。

プラハではフラドシン城を用意してもらい、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させ、生活した。彼女はここで刺繍をして静かに過ごし、その刺繍はオークションに出され、収益は恵まれない者に寄付された。1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後コリツィアのグラッファンベルク城へ転居した。 ここで義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ転居した。 ここで彼女は散歩と読書、刺繍と祈りを日課に静かに暮らした。 刺繍はオークションにかけられ、売上は貧しい者たちに寄付された。

そして、マリー・テレーズは1851年10月19日、肺炎のため死亡した。 これにより、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなった。 尚、タンプル塔幽閉までは、かわいらしい笑顔のマリー・テレーズの肖像画が残されている。 しかし、その後の過酷な体験を反映して、以後の数少ない肖像画には気難しそうな女性が描かれている。

革命から解放された当初のマリー・テレーズは、その悲痛な体験のためフランス国民からの同情を受けていた。 しかし堅物な性格や、若さをイメージさせる王太子妃としてはかなり高齢だったことから、一部の王党派や聖職者の人気を除いて、民衆からの人気はあまり無かったとも言う。 また、生涯を通して一人の恋人も作らなかったと伝えられる。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =35=

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○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ルイ・シャルル =1/3= ◇◆

革命以前

ルイ17世/ルイ・シャルルは1785年3月27日フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男として誕生した。 出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子となった。 姉はのちに従兄のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、ブルボン朝最後の王太子妃となるマリー・テレーズである。

第2王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも、子どもができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。  しかし、フランスは絶対王政が次第に揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。 短い幸せな宮廷生活では姉のマリー・テレーズと共にフランス革命後に養育係となったトゥルゼール侯爵夫人の娘ポーリーヌを慕い憧れた。 4歳の時に兄が病死し、ドーファンとなる。

幼年ながらも目鼻立ちは整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持つ美しい顔立ちと、愛嬌もあり活発な性格で宮廷内の人々を魅了した。 マリー・アントワネットは「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いだ。 だが、神経質で慣れない物音に怯えること、軽率な面があり、嘘をつくつもりはないが想像力により話に尾ひれをつける癖がある欠点をトゥルーゼル侯爵夫人充ての書簡に記載している。

フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで

1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。 パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。 新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。 しかし、国王一家は2年後の1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。 このときルイ=シャルルは6歳だった。

タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語、フランス文学、歴史、地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。 数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いしたという。 この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、国王一家に同情した職員からルイ=シャルルに贈られた愛犬ココと過ごした。 この犬は後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死しているが・・・・。

 1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。 1月28日、ドイツのヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。 しかしルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

恐怖政治下の監禁生活

恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。 その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。 以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。

同年の7月3日、ルイ17世は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。 王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベールから後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモンの元で過ごすことになった。 シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメットによる監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。 彼らはサンキュロットに見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。

そして「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。 やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。 また、シモンはルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。 暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。

偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通称取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。 シモンの妻マリー=ジャンヌはルイ17世の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待をやめさせることは出来なかった。 ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。 この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。

さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。 母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。 翌日、マリー・テレーズとエリザベートはそれぞれ別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。そしてこの尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。

マリー・アントワネットの処刑後、今度はエリザベートを処刑するための証拠を作ろうとした。 既にエベールらに洗脳されていたルイ17世は、かつて叔母が行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。 この頃ショーメットは、常にルイ17世と過ごしているシモンが王党派に買収されるのではないかと不安になり、シモンを厳しい監視下に置いた。 この待遇が面白くないシモンは、ルイ17世にさらに暴力を振るうことで鬱憤を晴らした。 パリ・コミューンはシモンに圧力をかけ、1794年1月19日にシモンはルイ17世の後見人を辞職、妻とともにタンプル塔から去った。 陰湿なシモンがルイ17世(ルイ・シャルル)の身辺から消えたのだが、次の後見人は指名されなかった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =36=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ルイ・シャルル =2/3= ◇◆

  1794年1月19日、後見人であるシモンは革命勢力の派閥争いに敗れ、妻とともにタンプル塔から去った。 しかし、 幽閉されている幼いルイ・シャルル=ルイ17世=は、 政変の国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王とみなされ、政治的に利用されることを恐れたショーメットとエベールは2月1日、元は家族の食堂であった部屋に幼いルイ17世(ルイ・シャルル)を押し込んだ。 厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。

 不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。 そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。

 また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。 この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。 食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。 ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。 監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる廟になり、歩けなくなった。

 その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。 室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。 深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。 番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。 もはやマリー・アントワネットとルイ16世の血を引く国王であるルイ17世に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。

 パリ・コミューンの派閥争いにより、エベールは支持者らと共に3月24日に処刑され、その3週間後にショーメットも処刑された。 5月11日、ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。 その後、7月28日にロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人シモンも処刑された。

タンプル塔のルイ17世 / 光が差し込まぬ獄舎での孤独

 ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。 バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。 バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに、衰弱したまま横になったルイ17世を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕する。 バラスは当時24歳だったマルティニック島(カリブ海・西ンド諸島一島)の出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にすることに成功した。

 ローランは9月1日にルイ17世の独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世のベッドを処分し、彼女が使用していたベッドをルイ17世に使用させた。 ローランは自らルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。 室内の家具とカーテンの焼却も命じた。 この日、ルイ17世は医師の診察を受けた。

 この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。 ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人では歩けなかった。

 11月8日、国民公会はルイ17世の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。 ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。 ルイ17世は長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。 11月末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。

 しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。 ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。 ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。 しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。

 この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。 11月26日、「世界通信」紙はルイ17世のひどい待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。 関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のためにルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けていると説明した。

 スペイン王室はルイ17世の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、1795年の早い時期に申し出たが、スペイン側がこれに関し争う気が見えないため、フランス側は要求を拒否した。 この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世は見捨てられた存在であった。

 1795年3月31日、エティエンヌ・ラーヌが世話係に加わった。 ラーヌはルイ17世はラーヌにはなつかなかったという記録を残している。 その後、ローランは別の役職に就き、ゴマンが後見人となった。 5月8日にローランとゴマンの再三にわたる要求により、ピエール・ジョセフ・ドゥゾー医師によるルイ17世の診察が許可された。ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。 最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。 私には元に戻すことができない。 なんたる犯罪だ!」と正直に意見を述べた。

 毎日午前中に往診に訪れ、ルイ17世から感謝されていたドゥゾーは、5月29日に招待された国民公会公式晩餐会の後、急に具合が悪くなり、3日後に死去した。 彼の助手もその後死去したので、暗殺が疑われた。 次の医師が決まるまで、重態のルイ17世は治療を受けられなかった。 6月6日、新たに主治医となったフィリップ・ジャン・ペルダン医師が治療に向かった。

 彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。 孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び少し、様態が改善した。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =37=

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○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ルイ・シャルル =3/3= ◇◆

国民公会末期のルイ17世とその死

 新たに主治医となったフィリップ・ジャン・ペルダン医師が治療に向かった。 彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。 孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び少し、様態が改善した。

 しかし、ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた、何の望みもなかった」と報告している。 6月7日、ルイ17世は衰弱し、一時は意識を失う。 夜遅くに様態が急変し、ペルタンは薬の投与指示をして、翌6月8日朝に訪れたが、この時初めてルイ17世が瀕死の状態で昼夜とわず看護もされていないことを知った。 ゴマンは看護婦を求めに行っている午後、ルイ17世の意識が薄れ始めていた。 午後3時ごろ、激しい呼吸困難に気がついたラーヌは症状を和らげようとルイ17世を抱き上げ、両腕を自らの首に回した。 しかし間もなく、長いため息の後、全身の力が抜け、ルイ17世の短い生涯は終わりを告げた。

 ルイ17世は生前に、母と叔母の死を知ることはなかった。 独房に墨で書かれた「ママ、あのね…」という書きかけの言葉と花の絵が残されたことや、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。

王太子ルイ17世/ルイ・シャルルの死後談

 ルイ17世の死に際し、後見人たちは慎重に行動した。 何事もなかったように食事の用意をさせ、部屋に運んだ。 翌6月9日、ペルタンはジャン・バティスト・デュマンジャン医師、ピエール・ラシュ医師、ニコラ・ジャンロワ教授を引きつれ、遺体の解剖を5時間かけ丁寧に行った。 ペルタンの記録によると「胃は非常に膨らんでいた。右膝の内側に我々は腫瘍を発見した。 そして左手首の近くの橈骨に小さな腫瘍があった。 

 膝の腫瘍は2オンスの灰色がかった物質を含んでいたが、それは膿とリンパ液でいっぱいだった。 手首の腫瘍にも同じような物質を含んだが、もっと濃い色をしていた」。開頭され、脳があらわになると、ジャンロワ教授は「この分野に就いて40年になるが、この年齢の子供で素晴らしく発達した脳を見たのは初めてだ。 博識な男性を思わせるほど完成度が高く発達している」と述べた。

 胃の内部からは1パイントを超える非常に臭い液体が流れ出て、腸は膨れ上がり腹壁で癒着をしていた。 内蔵全体と両肺付近にさまざまな大きさの腫瘍がみつかり、彼らは死因を「腺病質の傾向がしばらくの間滞在していたため」結核が死因であるとした。 国民へのルイ17世死去の発表は4日後に行われ、遺体は共同墓地のサン・マルグリット墓地に葬られた。

 死亡証明書には「故ルイ・シャルル・カペーの記録。牧月20日午後3時、10歳2ヶ月没、出生地ヴェルサイユ、住所パリ・タンプル塔、フランス人最後の国王ルイ・カペーとオーストリアのマリー・アントワネット・ジョゼフジャンヌの息子」と記載された。

 ペルタンは検死の際、ハンカチにルイ17世の心臓を包み、コートのポケットに入れて持ち出した。 心臓はペルタンの自宅において、蒸留したワインのアルコールを塗られて書棚に隠されたが、数年の時を経てアルコールは蒸発し、心臓は石のごとく硬くなってしまった。

 ルイ17世への虐待に加わった者たちは苦しんだ。 夫婦でタンプル塔で働いていたティゾン夫人は神経衰弱となり、その後何年間も、自分はルイ17世脱出の手助けをしたと主張した。 シモン夫人マリー=ジャンヌは、ルイ17世の死後19年経過してから「施療院の自分の部屋にルイ17世がやってきた」と言い出した。 

 毒殺説も流れたが、ベルタン医師が否定した。 後に、弟のルイ17世の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べたと言う。

生存説とその否定

生存中から「タンプル塔にいるのは重病の別の子供であり、ルイ17世は逃亡している」と噂が流れており、実際にタンプル塔で勤務する者もヴェルサイユ時代、もしくはテュイルリー宮殿時代の彼を知るものは皆無であり、独房で幽閉されている姿を見た者もごくわずかである。

死去の際にルイ17世の世話をしていたローラン、ゴマン、ペルタン医師も同様である。 そのため「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という噂が立った。 そのためブルボン家の財産を目当てにして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが、ヨーロッパだけではなくアメリカ大陸やインド洋のセイショル諸島にまで出没する有様だった。

因みに、アメリカの作家マーク・トウェインは1885年発表の『ハックルベリー・フィンの冒険』において、偽王太子をからかう一節を記している。

フランス北東部のシャロン・シュル・アルヌ付近で発見されたジャン・マリー・エルヴァゴーという少年は牢番がかごに入れ脱走させたルイ17世だ、という噂が流れ、総裁政府やフェルセン伯爵までもが振り回された。 偽王太子の中でもドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフという人物は有名であるが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。

1814年、復古王政期に改葬された際、サン・マルグリット共同墓地で遺体の捜索が行われた。 ルイ16世、マリー・アントワネット、エリザベート王女の遺体は他とは別に埋葬されていたために証言から発掘できたが、ルイ17世の遺体については埋葬時を詳しく知る人物はほとんど死去しており、証言する者の記憶も曖昧であったため、掘り起こした少年の遺体がルイ17世のものか確証がなかった。 腐敗した遺体は膨張していて、10歳の少年の遺体には見えないという者がいたため、このことも、別人とすり替わったのではないかと憶測される原因となった。

2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世のものと思われる心臓のDNA鑑定がなされた。 しかし、心臓の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった=マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較でDNA鑑定は行われた=。 その結果は「心臓はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓地があるサン=ドニ大聖堂に心臓が埋葬された。

蛇足ながら、サン=ドニ大聖堂にはイングランドにおけるウェストミンスター寺院同様、フランス王のほとんどがここに埋葬されている。 このサン=ドニ大聖堂は建築学的にも画期的な建物であり、ゴシック建築初期の名建築である。 現存する回廊の後陣(chevet)もしくは東端が建設当初からの唯一現存している部分である。 今日我々が目にするサン=ドニ大聖堂のゴシック構造は、大修道院長のシュジェール(1081年 - 1155年)によって1136年頃に始まり、わずか4年の建築期間を経たのち、1144年6月11日に奉献された。

サン=ドニはフランスの王と王族が何世紀にもわたって埋葬されてきた場所であり、これによりしばしば「フランス王家の墓所」と呼ばれる。 事実、10世紀から1789年までのフランス王は、3人を除いて皆ここに埋葬されている。 しかし、ギロチンにかけられたルイ16世、王妃マリー・アントワネット、王妹エリザベートの遺体はサン=ドニには埋葬されなかった。

国王夫妻の遺体はマドレーヌ墓地に打ち捨てられるように埋葬された。 1794年にこのマドレーヌ墓地は廃止され、王政復古期にルイ16世広場となり、現在は贖罪礼拝堂が建っている。 王妹エリザベートは刑死後エランシ墓地に埋葬され、病気で死んだ王太子ルイ(7世)の遺体は、パリのタンプル近くの教会の無縁墓地に埋葬された。

ナポレオン・ボナパルトが教会を1806年に再開させたが、王の遺体は埋められた穴に残されたままだった。ナポレオンがエルバ島に流されると、王政復古がなされ、ルイ18世は、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸を捜すよう命じた。 わずかな遺骸、おそらく王のものと思われる骨、女性のガーターベルトを含んだ灰色の物質が1815年1月21日に発見され、サン=ドニに運ばれて地下室(crypt)に埋葬された。

1817年には、他のすべての遺体が入った穴が開けられたが、どれが誰の骨かを識別することは不可能だった。 それらの遺体はサン=ドニ地下室の納骨堂(ossuary)に置かれ、前に大理石板が2枚置かれ、何代ものフランス王朝の王族の名前が、教会に記録された順に何百人も連ねられている。

革命時も無事であったルイ7世の墓はサン=ドニに移され、地下室に埋葬された。 また、2004年には王太子、つまりルイ17世だった少年のミイラ化した心臓が地下室の壁に封印された。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =38=

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○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ 王妃に奉げた献身的な騎士道; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =1/3= ◇◆

 ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵(Hans Axel von Fersen 1755年9月4日 - 1810年6月20日)は、政治家軍人。 スウェーデンの名門貴族で王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の子である。フランス王妃マリー・アントワネット愛人として知られるが、スウェーデン王グスタフ3世の寵臣でもあった。 また、次代グスタフ4世にも仕え、ナポレオン戦争に至る時代までを生きたが、1810年に群衆に撲殺された。

 ・・・・・・・・中世の騎士道精神をもってしても理解しがたい支援をマリー・アントワネットに注いだ人物。 王妃の愛人と噂される。 しかし、膨大な私財を王妃救出に使い、外交官の立場で王妃を支えるも革命の炎に挫折する。 マリー・アントワネットの死刑執行の現実に民衆を信じなくなり、憎むようになる。 そして、その民衆に撲殺されて全裸で路の側溝に投げ捨てられる・・・・・・・・

青年期

 父親のフレデリックは、フランスを第2の故郷として愛し、家庭ではフランス語が話されていたという。 家門はスウェーデンの名門貴族で、王室顧問でもあるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵が当主であり、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンはかれの一人息子です。 フェルセンは、容姿端麗で背が高く雄弁家に育った。 ヨーロッパを3年間遊学し、貴族の必須である知識を習得して1773年12月、18歳でパリの社交界にデビューし、たちまちパリの上流階級の婦人に人気を博した。

 フェルセンは、1774年1月、オペラ座の仮面部総会でフランス王太子妃マリー・アントワネットに出会う。 ヨーロッパ遊学の旅に出ていたフェルセンは、最期の仕上げにフランスに立ち寄っていた。 この夜の舞踏会で仮面をつけた女性が、背が高いフェルセンに優しく手をとってお喋りを始める。 遊学したウイーンでハプスブルク=ロートリンゲン家を訪れていたフェルセンには何かと話題が共通し、二人の会話は和やかに進展する。 

 数日後、ヴェルサイユの舞踏会で、2人は再会する。 仮面の女性は、誰もが知っているフランスの王妃、マリー・アントワネットだった。 マリー・アントワネットにとっては数多い寵臣の中の1人ではあったが、同い年ということもあって次第に親密になっていった。 この二人の出会いの裏には、スウェーデンの国益に準じたグスタフ3世の意図があったとされている。 グスタフ3世は、フェルセンの血筋と容貌から彼をウイーンに遊学せしめてハプスブルグ家に近づけていたのである。 

 1774年5月10日、夫・ルイ16世の即位により王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。

 こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。王妃のアントーワネットは、地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。 

 マリー・アントワネットとハンス・アクセル・フォン・フェルセンの関係は日増しに濃密と成る。 マリー・アントワネットは、誰の目から見ても、フェルセンに夢中になっているのは明らかだった。 一方フェルセンは慎重だった。  王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つのを恐れ、王妃に迷惑が掛かからなうようにと、フェルセンはスウェーデンに帰国する。

 フェルセンは、1778年に再びフランスに戻ったが、フランス遠征軍に加わりアメリカ独立戦争に参加してアメリカに渡る。 帰国後にフランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられた。 その後グスタフ3世と共に欧州諸国を廻り、1785年からパリに在住することとなった。

 しかし、1788年にはスウェーデンがロシア帝国と起こした第一次ロシア・スウェーデン戦争にも従軍している。 名門貴族出身のエリート武官として、外交のひのき舞台で活躍しているのだが、マリー・アントワネットと距離を置く事を自ら課していたのであろう。

 フェルセンは数ある結婚話を頑なに断り続けた。 『この人のものになりたいと願うただ1人の女性のものになれないのなら、わたしは誰のものになるつもりもない』と、妹への手紙に記している。 4年間外国で暮らしたフェルセンですが、外国での暮らしに耐えられなくなり、1783年6月、再びパリに戻ってきた。 フェルセンの留守中に王太子を出産していたアントワネットは、後継者を生んだということで、安堵してフェルセンとの恋に積極的になったことは想像に固いことですが・・・・・・。

 再会したフェルセンは、王妃マリー・アントワネットただ1人に愛を注いだ。 王妃の不幸が増せば増すほど、献身的に王妃の力となり、支え続けた。 しかしフェルセンの王妃への愛は、スウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになる。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =39=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ 王妃に奉げた献身的な騎士道; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =2/5= ◇◆

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン、フランス革命と相克する青年期

 フェルセンは王妃と成ったマリー・アントワネットに迷惑が掛からぬように祖国に戻るが、1778年に再びパリに戻って来た。 しかし、グスタフ3世の特命を受けてフランス遠征軍に加わり、アメリカ独立戦争に参加、アメリカに約三ヵ年滞在して独立闘争を客観的に監察している。 1783年6月 パリに帰任したフェルセンは、フランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられた。 

1784年6月、フェルセンはマリー・アントワネットが小宇宙を形成すトリアノン宮殿の離宮を訪れた。 再会した王妃マリー・アントワネットはルイ16世との間に長女マリー・テレーズ・シャルロット、長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワを生み、離宮・小トリアノン宮殿で以前の自由奔放な快楽的生活から、家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていた。

 因みに、小トリアノン宮殿はヴェルサイユ宮殿の庭園にある離宮の一つ。 新古典主義建築であり、建物の形は正方形。 内装はロココ様式の最高峰とも評される。 1762年から1768年、ルイ15世の公妾、ポンパドゥール夫人のために建てられたもので、アンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)の設計による。 しかし宮殿が完成した時には、ポンパドゥール夫人はすでに亡くなっていた。

 その後ルイ16世により王妃マリー・アントワネットに与えられた。彼女は庭をイギリス式とし、そこに農村に見立てた小集落を作らせた。 日本語では「王妃の村里」と訳されている。 革命中は酒場になったこともあが、アントワネットが生前に一人静かに田園生活の風情を楽しんだ場所で宮殿で最も愛した場所であり、死後に彼女の幽霊に出会ったという目撃談が相次いだ(トリアノンの幽霊)。

  王妃の心配事を聞き、その解決策に奔走する喜びをフェルセンは感じていた。 国王ルイ16世は二人関係を知っていた。 皮肉にも、フェルセンが一年ぶりに離宮を訪れた九ヶ月後の1785年3月27日にルイ・シャルルノルマンディー公爵、王太子、ルイ17世、前節参照)が生まれている。 シャルルはフェルセンの子供ではないのかという噂が広まった。

 ルイ16世も、シャルルが誕生したときに、不可解な言葉を日記に残してる。 『王妃、ノルマンディ公を出産。すべて我が王子と同様に取り扱う。』 と、 この言葉は・・・・・・? 自分の子供ではないけれど、他の王子と分け隔てなく扱う。 そう受け取れないだろうか。 後のことだが、 実際、ルイ16世がシャルルのことを『わが子』と呼んだのは、たった1度、断頭台に向う直前のことだった。 

 前章で記述したようにルイ・シャルルがわずか10歳で牢獄の中で幼い命を散らせたことを知ったフェルセンは、『あの子はフランスに残してきた最後の、そしてたった一つの心配事だった』と言い残している。 フェルセン伯爵家の全財産を投入して、マリー・アントワネットとその子女を革命の嵐から救出して、マリー・アントワネットの生家であるハプスブルク家領へ脱出させようとする努力、また、コンシェルジュリー監獄に幽閉された王妃を救出しようとする企て。 全ての情熱は、騎士道精神の範疇を確かに超えていた。

  しかし、フェルセンの王妃への愛は、スウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになる。 そして、1788年にはスウェーデンがロシア帝国と起こした第一次ロシア・スウェーデン戦争にフェルセンは従軍する。 

 1789年、フランス革命が全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わって行こうとする。 グスタフ3世はフェルセンを革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに送り込んだ。 国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。

 

 

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ 国王ルイ16世の国外脱出計画 ; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =3/5= ◇◆

 1789年、フランス革命が全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わって行こうとする。 グスタフ3世はフェルセンを革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに送り込んだ。 国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。

 フランス革命の先行きを憂慮していた開明派貴族たち、特に立憲王政派のミラボーは、国王がパリを脱出し、急進的なパリ民衆の影響下にある国民議会を解散して、地方の支持を背景にして国王の直接統治を行うべきであると進言していたが、ルイ16世本人が「王たるものは国民から逃げ出すものではない」として頑として反対し、実現しないでいた。

 これには十月行進以来、国王がその守護者となることを誓ったラファイエットに信頼を寄せていたことも一因で、彼はミラボーの政敵であった。 しかし革命の進展とともにラファイエットの権力は日増しに弱まり、約束が反故にされ、改革によって様々な権限が奪われていくことに国王は不満を強めていった。

 1790年10月20日、大臣非難決議と新大臣任命に関するラファイエットの表裏ある態度に、ルイ16世は激怒し、憲法に規定された自由任免権すら侵されたとして彼を見限って、思い切って反革命に転じることにした。 国王はすぐに王党派であるパミエル・ダグー司教とルイ=シャルル=オーギュスト・ラ・トノリエ・ド・ブルトゥイユ男爵を呼び寄せ、王の代理として諸外国と交渉する全権を密かに与えた。

 12月27日、聖職者に革命の諸法への宣誓を強制する法律に署名を強いられた際には、不本意な国王は「こんな有様でフランス王として残るなら、メッス市の王になったほうがましだ。 だが、もうじきこれも終わる」と述べ、何らかの計画があることを暗に漏らした。

 ルイ16世は、王弟アルトワ伯(シャルル10世)や亡命貴族が行っていた地方での反乱蜂起の扇動などには賛成せず、彼らの愚かさを非難したが、一方で、ブルトゥイユ男爵が必死に諸外国を説得に回り、結成を目指していた神聖王政連盟に対しては密かに期待していた。 しかし具体的に支援を約束したのは王権神授設を信じるスウェーデン王グスタフ3世だけで、イギリスは植民地の譲渡などを条件に中立を約束したが、ローマ教皇の宗教上の支援はあまり効果がなかった。

 特に痛手であったのは、王妃マリー・アントワネットの実兄である神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、ポーランドやオスマン帝国の情勢を鑑みて、計画に懐疑的態度を取ったことであった。 彼は口実をつけて交渉を引き延ばし、これにより無為に8ヶ月間が経過したため、その途中12月にはマラーの「人民の友」紙などのパリの革命派新聞が国王側の不穏な陰謀の気配を嗅ぎつけてしまい、1791年1月30日にはデュボワ・クランセが国王の計画をジャコバン派に暴露してしまった。

 国王が逃亡するという噂は、計画が事実であっただけに、深刻なものであった。 議会は国境の警備を強化して、王族の監視も強化した。 しかしルイ16世は、反カトリック的な法律ができたこともあるが、挑発するかのように、先だって叔母にあたるアデライード王女(修道女)とヴィクトワール王女を出国させ、ローマに行かせた。 離国事件はすぐに問題となり、彼女たちは途中で2度も捕まった。 

 これはちょうど亡命禁止法を議会で審議していた時期の出来事であったが、ミラボーの人権を擁護する主張により、この法案は退けられ、議会は特別命令を出して出国を許した。 しかし一方で議会は「王の逃亡は退位とみなす」と宣言して警告し、王妃が駐仏オーストリア大使フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵 と交わしていた書簡を調査して、その不穏当な内容を問題視して、摂政職から女性を排除する法案を可決させた。

 1791年4月2日、ミラボーが急死した。 ミラボーはもはや国王が唯一信頼していた人物であったので、国王は面従腹背の態度を強め、後任者を誰も信頼しなかったし、王妃の国王に対する発言力が増した。 三頭派やバルナーヴがブルジョワ的政策を進めて、議会と民衆との軋轢が顕著になると、国王は反革命のチャンスであると思ったが、レオポルド2世との交渉は全く進んでいなかった。

 ところが、4月18日に事件が起こった。 この日、国王一家は復活祭のミサを行うためにサン=クルー宮殿へ行幸しようとしたが、民衆はこれを国王が逃亡するものと思いこんで、テュイルリー宮殿の門を人垣で塞いで馬車の行く手を妨害した。 ラファイエットは群衆を解散させることができずに、国王一家を守るべき国民衛兵隊も、行幸が中止と発表されるまで妨害を止めなかった。

 マリー・アントワネットは「これで私たちが自由でないことは認めざるを得ないでしょう」と言い、国王一家は自分たちが実際には囚人であることを確認した。 最初は乗り気でなかったルイ16世も真剣に脱出計画に耳を傾けるようになった。

 

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ ルイ16世の脱出計画; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =4/7= ◇◆

 サン=クルーへの復活祭のミサ行幸が群衆の妨害で中止せざるを得ない状況に陥ったフランス王家。 フランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられていたフェルセンは、各地の王党派と連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動をした。 だが、王党派の貴族内ではフェルセンの王妃への愛がタブー視された政治の底流にあった。 フェルセンの行動はスウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになっていた。

 計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。 彼女は実家であるオーストリアへ亡命することを企てていた。 当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。 マリー・アントワネットは、メルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した曉には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていた。

  しかし 当のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならないとした。 このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」を作成して、成功したら発表する予定であった。 これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。 逃走の資金は銀行家から借金することになった。

 王妃マリー・アントワネットの主導のもとに計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。 まず計画の中心人物が、王妃の愛人と噂されているスウェーデン貴族・フェルセンとなった。 彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数名の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無となる。

 国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯爵は重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。 フェルセンはルイ16世の臣下ですらなかったからである。 しかし、フェルセンは王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、私財を投げ出した。 =2004年当時の日本円に換算して総額120億円以上を出資したという=

 

 フェルセンは別の愛人のエレオノール・シュリヴァンにこの資金の一部を用立ててもらい、さらに2頭立て馬車や旅券を手配したが、これらは彼女の助力の賜だったと言う。 ところが一方で、マリー・アントワネットの無理な主張にも振り回され、快走を約束する二頭立て馬車は王の行幸に用いられる8頭立てのベルリン型の大型四輪馬車の新品とすることになった。 馬車の内装を特注にし、さらに美しい服などを新調したことなどにより、脱出は当初の予定より1ヶ月以上も遅れることになる。

 また、王妃の主張する亡命というアイデア自体も難があった。 実行役となるブイエ侯爵は、反逆罪に問われる可能性が高かったことから、国王の署名入りの命令書を求めるなど抵抗した。 ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、ルートをフランス領内のみを通過するものに変えた。 しかしこれはブイエが最初に提案した旅程よりも危険なものになった。

 最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメディ の要塞に決まった。 ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。 つまり実際には亡命ではなかったのである。 ベルギー国境に集結していたオーストリア軍の協力をあてにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。

 計画は6月19日に決行される予定であった。 が、直前までマリー・アントワネットに振り回された。 何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになったのである。 他方、ブイエは街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え、準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士達には任務の内容は知らせなかった。

指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前からズタズタになっていた。

 

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