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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =02=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 欧州一の皇族・ハプスブルグ家の皇女としての奔放さが・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネットの鬱積した欲求不満の結婚生活の一方、夫君である国王ルイ16世のふしぎな道楽といえば、錠前仕事と狩猟をすることで、専用の鍛冶場で黙々と槌をふるったり、獣を追って森を駆け抜けたりするのが、彼にとって何よりの幸福であった。 派手好きな妻とは趣味が合わないが、彼は妻に対して男性としての引け目を感じているので、まったく頭が上がらない。 生まれつき鈍感で、不器用で、優柔不断で、いかなる場合でも睡眠と食欲を必要としないではいられない彼は、およそ繊細とか、敏感とかいった気質と縁がない。 つまり、妻とは正反対の気質の持主である。 といって、夫婦のあいだに風波が起ったということは一度もなく、この二人は子供こそないが、まことにのんびりした、平和な夫婦であった。

 後節で詳細を記述するが、マリー・アントワネットは神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生している。 ドイツ語名名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。 幼少時からイタリア語やダンスを習い、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラサンなどの演奏を得意とする活発な王女である。 3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かったと言う。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。 寛大な皇帝の庇護の下、幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じて楽しむ皇室でのびのびと育った皇女であった。

 フランス国王ルイ16世と結婚した後に、マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世がひどく心配し、ウィーンからパリにやってきて、国王ルイ16世に勧めたのが外科手術だったと伝えられる。 その結果、力づけられた王は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。

 ロココの王妃がトリアノン小宮殿の別荘で贅沢な祝典に明け暮れしているあいだ、彼女の知らない外部の世界では、次第に新しい時代の動きが準備されつつあった。  緊迫した時代の雷鳴が、パリからヴェルサイユの庭園はとどろきわたるころになっても、彼女はまだ仮面舞踏会をやめようとしない。 時代の空気をよそに、相変わらず享楽生活をあきらめず、国庫の金を湯水のように蕩尽する彼女に対して、避難攻撃の声が高まりはじめたのである。

 オルレアン公の庇護のもとにパレ・ロワイヤルルーヴル宮殿の北隣に位置する。もともとはルイ13世の宰相リシュリューの城館)に集まった改革主義者、ルソー主義者、立憲論者、フリー・メイソンなどといった不平分子たちのあいだに、活発な啓発運動、社会改革を意図する挑発的なパンフレット活動が開始される。 フランス王妃は「赤字夫人」と渾名され、卑しい「オーストリア女」と蔑称され始めた。

 アントワネット王妃自身、自分の背後で悪意のこもった陰謀がたくらまれていることを、はっきり感じ取ってはいるものの、生まれつき物にこだわるということを知らず、ハプスブルク流の誇りを片時も忘れたことのないマリー・アントワネットは、これら一切の誹謗やら中傷やらを、十把一からげに軽蔑するほうが勇気ある態度だと信じている。 王妃の尊厳が、賎民のパンフレットやら諷刺小唄などで傷つけられるはずはないと高をくくっている。 誇り高い微笑を浮かべて、彼女は危険のそばを平然と歩み過ぎるのだった。

 市民の王妃に対する反感をいやが上にも煽り立てる原因の一つとなったのは、有名な「首飾り事件」であった。次節是その詳細を記述べるが、この馬鹿馬鹿しい詐欺事件に、王妃は実際何ひとつ責任がなかったのである。 がしかし、 少なくとも王妃の名のもとに、このような犯罪が行われたという事実、そして世間がこれを信じて疑わなかったという事実は、拭い去ることのできない彼女の歴史的責任といえよう。 トリアノン小宮殿における長年の軽率な愚行が世間に知られていなければ、詐欺師たちといえども、こんな大それた犯罪を仕組む勇気はとてもなかったにちがいないからである。

 この詐欺事件によって、旧制度の醜い内幕が一挙にあばき出されることになった。 市民たちは初めて、貴族と呼ばれる連中の秘密の世界をのぞき見ることになった。 パンフレットがこんなに売れたこともなかった。 「首飾り事件」は革命の序曲である、といった史家もいるのである。

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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断頭台の露と消えた王妃 =03=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

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◇◆ 首飾り事件がアントワネットへの反感を招く・・・・・ ◆◇

 首飾り事件は、典型的なかたり詐欺である。 ラ・モット伯爵夫人はこの首飾りの詐欺を計画した。 宝石商シャルル・ベーマーとそのパートナーであるポール・バッサンジュは、先王ルイ15世の注文を受け、大小540個のダイヤモンドからなる160万リーブル金塊1t程度に相当するが、現代日本円の感覚ではおよそ30億円)の首飾りを作製していた。 これはルイ15世の愛人デュ・バリー夫人のために注文されたものだったが、ルイ15世の急逝により契約が立ち消えになってしまった。

 高額な商品を抱えて困ったベーマーはこれをマリー・アントワネットに売りつけようとしたが、マリーは高額であったことと、敵対していたデュ・バリー夫人のために作られたものであることから購入を躊躇した。  そこでベーマーは王妃と親しいと称するラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。

 1785年1月、伯爵夫人はロアン枢機卿にマリー・アントワネットの要望として首飾りの代理購入を持ちかけた。伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ロアン枢機卿と面会させており、彼は念願の王妃との謁見を叶えてくれた人物として、伯爵夫人を完全に信用していた。 ロアン枢機卿は騙されて首飾りを代理購入しラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。

 その後首飾りはバラバラにされてジャンヌの夫であるラ・モット伯爵(及び計画の加担者達)によりロンドンで売られた。 しばらくして首飾りの代金が支払われないことに業を煮やしたベーマーが、王妃の側近に面会して問い質した事により事件が発覚した。 同年8月、ロアン枢機卿とラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァは逮捕された。ラ・モット伯爵夫人はこの時、ロアン枢機卿と懇意であったが事件とは無関係とされる医師(詐欺師)カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。 なおラ・モット伯爵はロンドンに逃亡して逮捕されなかった。

 事件に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこんだ。 1786年5月に判決が下され、ロアン枢機卿はカリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァとともに無罪となり、王妃と愛人関係にあると噂されたラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった。 彼女は「V」の文字を両肩に焼き印されて投獄された。この裁判によりマリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係にあるという事実無根の噂が広まった。 伯爵夫人はこの虚偽の醜聞をもとに後に本を出版し金銭を得ている。

 この事件の直後、王妃が劇場にすがたをあらわすと、はげしい舌打ちが観衆のあいだから一斉に起り、それ以後彼女は劇場を避けるようになったといわれる。 積りに積った市民の怒りが、たったひとりの人物に向って叩きつけられる。 正面攻撃に晒されるのは、お人好しの国王ではなくて、「彼の鼻先をつかんで引きまわしているオーストリアのふしだら女」なのだ。  王妃はついにたまりかね、「あの人たちはわたしから何を要求しているのでしょう?私があの人たちに何をしたというのでしょう?」と、側近の者に絶望の溜息をもらすまでになった。

 しかし彼女には、歴史の趨勢を理解する能力もないし、理解しようという意思もない。 二千万のフランス人に選ばれた代議士たちを、彼女は「狂人、犯罪者の集団」と呼び、民衆のデマゴーグに対しては、ありったけの憎悪を傾ける。 最初から最後まで、彼女は革命というものを、低劣きわまりない野獣的本能の爆発としか考えないのである。

 政治的にごく視野の狭い彼女は、明日のパンに困っている人間が存在するということさえ、ついぞ念頭にはのぼせなかった。 フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと言う。=ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもあるが、その詳細は後節に記述= そもそも世界の悲惨を知らないでいたればこそ、あのように繊細優美なロココの小宇宙に君臨することもできたのである。

 今やこの小宇宙もシャボン玉のように砕け、嵐が目前に迫っている。 運命の無慈悲な意志は、歴史上最も波瀾に富んだ事件の渦中に、戸惑っている彼女を突き落とす。…

 

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断頭台の露と消えた王妃 =04=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ フランス革命の勃発・・・・・・・ ◆◇

 1789年7月14日、ルイ十六世はいつものように狩猟から帰ると、十時に寝てしまった。 パリから顔色を変えて注進に及んだりリアンクール公が、国王をたたき起して、次のように報告する、「バスチイユが襲撃されました、要塞司令官は殺害されました!」  「では、反乱というわけか」と寝ぼけまなこの王は、驚いて口ごもる。 「いいえ陛下、革命でございます」と使者が答えた。 これは名高いエピソードである。 王宮の中は、正しく浮世離れしていた。 しかし乍ら、ヴェルサイユ宮殿にも革命の嵐が牙を向けて来た。 

 バスチイユ陥落後、同じ年の十月六日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。 このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。 やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェルセンは国王一家と別れ、その後 1792年年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。 そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。 革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヶ月、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。 さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがない状況に陥る。

 1792年2月13日、フェルセンが厳重な国民軍兵士の警戒網を突破して、チュイルリー宮に王妃を訪ねてきた。 彼は、何も言わずにその一夜を王妃の寝室で過ごしたと言う。 彼は革命の嵐が何であるかを知っていたのであろう、おそらく、死と破滅の危険によって昂揚させられた恋の夜は、容易に二人のあいだの慎しみの垣根を取りはらったにちがいない。 二人が本当の、精神的肉体的にも敢然な恋人同士であったことは、この点からみても疑問の余地がないように思われる。 王妃には、ほかに寵臣がいないこともなかった。 しかし公然と印刷された愛人のリストに載っているド・コワニー公にせよギーヌ公にせよ、エステルラジー伯にせよブザンヴァル男爵にせよ、彼らは単なる一時的な遊び仲間にすぎず、平和な時代の側近でしかなかった。 彼らと異なり、フェルセンには一貫した誠実さがあった。 これに対して、王妃もまた死ぬまで変らぬ情熱をもって報いたのである。

 マリー・アントワネットの愛人と目される人物のなかで、いまだに謎につつまれているのが、アントワネットに誠を尽くした、このスウェーデンの貴族フェルセン伯である。 いったい、彼女とこの若い北国生まれの貴公子とのあいだには、尊敬以上のものがあったかどうか。 フェルセン伯の存在は長いこと世間の口にのぼらなかったが、彼が王妃の信頼と愛情を一身にあつめていたことは、彼の妹のソフィや父元帥に宛てた手紙からも窺い知られよう。 王妃の側近と目されていた連中がすべて彼女を残して去った後も、危険を冒して彼女に近づき、血なまぐさい動乱の最中、ヴェルサイユやチュイルリーの一室で親しく彼女と謀議をこらしたり、ヴァレンヌへの逃亡を共にしたりしたのが、このフェルセンという勇敢な男であった。

 不幸とともに、この軽はずみな王妃の内面生活に、ひとつの新しい時期がひらけたのであろう。 喜劇が悲劇に変ったのである。 彼女は、いわば世界史的な自己の役割を認識し、自覚するのである。 フェルセンが全身全霊で教えて行く。 「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」と彼女は手紙に書いている。 今まで人生と戯れていた彼女が、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。 チュイルリー宮で反革命の外交交渉にみずから乗り出した彼女は、もうすでに、遊びやスポーツにうつつを抜かしていたころの彼女ではなかった。 わきへ押しのけられた弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文をつづって手紙を書き、はては怪物オレーノ・ミラボー伯を引見して、君主制維持の陰謀をめぐらすのである。

 フェルセン伯は、フランス革命勃発直後、スエーデン王・グスタフ3世はフェルセンを革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに送り込まれていた。 彼は騎士である。 フランス国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。 彼は各地の王統はと連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動をした。 しかし実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日、国王一家はチュイルリー宮殿を後にした。 

フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行き、パリ郊外まで来たが、ルイ16世がフェルセンの同行を拒否したため別れることとなった。 ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったという。 結局国王一家の逃亡は露見し、亡命は失敗に終わった。 逃亡する国王一家にフェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だった=一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていた=。 ・・・・・このような経緯を経て、人生と戯れていたマリー・アントワネットが、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =05=

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◇◆ 革命と狂乱の嵐の中で・・・・・・・ ◆◇

 1792年8月13日夕刻、ルイ王朝の王室一家は革命派ペチオンの指揮のもとに、陰鬱な要塞タンブルに送りこまれる。 ここにいたるまで、マリー・アントワネットは国民議会で、パリへ連れもどされる途中の沿道で、あるいはテュイルリー宮殿に乱入してきた国民軍兵士の前で、どれだけ多くの罵詈雑言を浴び、どれだけ堪えがたい屈辱を嘗めさせられたことか。 王室一家とは、国王、マリー・アントワネット、ふたりの子供、それに国王の妹エリザベートの五人である。 これまで一緒にいた王妃の親友ランバール夫人も、タンブルへの収監と同時に、彼女から引き離された。

 一ヵ月後に、ランバール夫人は暴民に虐殺され、屍体を裸にされて、パリの町中を引きずりまわされる。 槍の穂先には、血まみれの夫人の首が掲げられる。 気丈な王妃も、親友が虐殺されたというニュースを番兵から聞くにおよんで、叫び声とともに気を失って倒れた。

 逃亡事件失敗の後、ある晩に国王一家が幽閉されているテュイルリー宮殿に変装して忍び込んだフェルセンは、国王と王妃に新たな亡命計画を進言するが、パリに留まることを決意した国王から拒否されてしまう。 革命政府によって裁判にかけられるため、国王一家がタンプル塔に移送されると、フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。 革命が激しくなると、フェルセンはブリュッセルに亡命し、ここでグスタフ3世やオーストラリア駐仏大使と共に王妃救出のために奔走した。

 しかし、国王の裁判がはじまるのは、同じ年の十二月、そしてついにルイ16世がギロチンで処刑されるのは、翌年の1月21日である。 処刑の前日、市の役人がひとりマリー・アントワネットのもとに現われて、本日は例外として家族とともに夫に会うことが許される、と伝えている。 妻、妹、子供たちは、暗い要塞の階段をおりて、国王ひとりが収容されている部屋に赴く。 最後の別れである。

 マリー・アントワネットの救出に奔走するフェルセンは亡命先のブリュッセルで、1792年3月にグスタフ3世が暗殺されたと知る。 母国・スウェーデンは革命から手を引いたことも知る。 その結果はフェルセンの政治的な失脚であった。 そして、翌年に愛するマリー・アントワネットが革命政府によって処刑されたと知った彼は、愛想のない暗い人間となり、マリー・アントワネットを殺した民衆を憎むようになったと言う。

 タンブルの獄舎で王国一家の監視に当たっていたのは、1789年の革命の立役者のなかでも最も根性の下劣な、「狂犬」と異名をとる極左派のエベールであった。  ロベスピエールサン・ジュストに告発されて処刑されるが、すでに夫を失い無力になったマリー・アントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼である。

 7月3日、最愛の子供がマリー・アントワネットの手から引き離され、8月1日、彼女はついに国民公会の決定により、コンシェルジェリに移されることになる。 マリー・アントワネットは落着いて告発文に耳を傾け、一言も答えない。 革命裁判所の起訴が死刑と同義であり、ひとたびコンシェルジェリに収監されれば、そこを出てくるためには断頭台への道を通らねばならないことを、彼女はよく承知している。

 しかしマリー・アントワネットは嘆願もせず、抗弁もせず、猶予を願うこともあえてしない。 彼女にはもう失うものが何もないのである。 まだ三十八歳だというのに、髪はすでに白くなり、その顔には不安は消えて、茫漠とした無関心の表情があらわれている。 

 冒頭で記したコクトーのいうように、すでに彼女は「自分自身を使いつくして」別の女になってしまっていたのである。 王妃マリー・アントワネット、未亡人カペーは、世界中から見捨てられ、いまや孤独の最後の段階に立っている。 あとはただ、王妃にふさわしく、誇り高く立派に死ぬことが残されているのみだ。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =06=

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◇◆ 欧州一の帝国の王女・・・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュは、1755年11月2日、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。 ハプスブルク君主国の王女である。 欧州では並ぶことのない王族の一員である。 イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。 3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。 また、幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じるなど、自由闊達な皇室であった。

 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレシアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。 当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。 そのため、アントーニア=マリア・アントワネット=がフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

 政略結婚の背景は、ブルボン・ハプスブルク両家の確執である。 オーストリアとフランスの対立は、15世紀にさかのぼる。 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。 またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失った彼の娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ公女との再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたこと等から、両国の確執が始まっていた。 

 15世紀末葉から16世紀にかけては、イタリア戦争においてハプスブルク家のカール5世ヴァロア家フランソワ1世が対立している。 16世紀はじめ、カール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ、スペイン・ハプスブルク朝が始まるとフランスとしては東西のハプスブルク勢力から挟撃される状態となって、長いあいだ両家は宿敵の関係にあった。 フランスがブルボン朝に交代してからも、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていたのである。

 従って、17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた。 そのため、フランス外交の基本路線は、ドイツやイタリアの諸国、ポーランド、スウェーデン、オスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制し、あるいは場合によっては武力を行使するというものであった。

 「外交革命」はこうした、1世紀以上にわたって続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。そこには、植民地と貿易をめぐるイギリスとの長期にわたる対立があった。 また、プロイセンの台頭も両国にとっては懸念されるところであった。 「外交革命」後に起こった七年戦争では、ブルボン・ハプスブルクの両家が同盟関係をむすび、イギリス・プロイセンと戦ったのである。

 ここにおいて、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携するという構造は完全に崩壊した。 フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来からの国際秩序はいっそう再編が進むことになった。 そして 1770年、フランス王太子ルイとマリー・アントワネットの政略結婚が成立したのである。

 1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王国王アウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 しかし、1765年にルイ・フェルディナンが死去した。 1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 このときアントーニア=マリア・アントワネット=はまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始する。

 1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福されたのであるが・・・・・・・。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =07=

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◇◆ 結婚とフランス宮廷の生活・・・・・・ ◆◇

  アントワネットは、結婚後 幾日もたたないうちにルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。 もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライード王女が率いるヴィクトワール王女ソフィー王女らに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。 =デュ・バリー夫人との対立=

 当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。 宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。 とはいえ、デュ・バリー夫人は朗らかで愛嬌がある親しみやすい性格で、宮廷の貴族たちからは好かれていたという。

 デュ・バリー夫人はシャンパーニュ地方の貧しい家庭に、アンヌ・ベキュの私生児として生まれた。 弟が生まれて間もなく母は駆け落ちし、叔母に引き取られて育った。 7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたジャンヌは、金融家の継父から大層かわいがられ、まともな教育を受けさせてもらえた。 15歳で修道院での教育を終えると、初めはある家の侍女をしていたが、素行上の問題から解雇される。 その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしていたようだが、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始めた。

 美しいジャンヌは、やがてデュ・バリー子爵に囲われると、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。 家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などがジャンヌの相手となり、その時に社交界でも通用するような話術や立ち振る舞いを会得した。 そして、1789年にルイ15世に紹介された。 その5年前にポンパドゥール夫人を亡くしていたルイ15世は、ジャンヌの虜になって彼女を公妾にすることに決める。 デュ・バリー子爵の弟と結婚してデュ・バリー夫人と名を変えたマリ・ジャンヌは、型どおりの手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾になり、社交界にデビューしていた。

 ルイ15世は迎えた皇太子ベリー公の妃アントワネットと愛妾のデュ・バリー夫人との対立に激怒した。 母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場。 アントワネットが歩み寄る機会を潰してしまった。

 2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。 だが この行為が、アントワネットと義妹のアデライード王女らとの距離を日増しに遠のけて行く。 一方では、マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、子供じみた鍵遊びをよく一緒にしている事より、円満だとみられていた。

 しかし、マリー・アントワネットは鬱積した欲求不満の結婚生活を過ごしていた。 夫君ベリー公(後のルイ16世)のふしぎな道楽といる錠前仕事と狩猟をすることで、専用の鍛冶場で黙々と槌をふるったり、獣を追って森を駆け抜けたりするのが、彼にとって何よりの幸福であった。 派手好きな妻とは趣味が合わないが、彼は妻に対して男性としての引け目を感じているので、まったく頭が上がらない。 生まれつき鈍感で、不器用で、優柔不断で、いかなる場合でも睡眠と食欲を必要としないではいられない彼は、およそ繊細とか、敏感とかいった気質と縁がない。

 つまり、妻とは正反対の気質の持主である。 といって、夫婦のあいだに風波が起ったということは一度もなく、この二人は子供こそないが、まことにのんびりした、平和な夫婦であった。 実のところは、夫・ルイ16世は一種の性的不能者で、結婚以来七年ものあいだ、アントワネットを処女のままに放置しておいたのである。 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった。 前節でアントワネットが賭博にも狂的に熱中し、王妃でなければ警察沙汰にだと言われるまでお気に入りの従僕と賭博場に通っていたと述べたが、賭博に関しては子が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

 アントワネットが夜のパリを徘徊し彼女が次々と快楽を追う気まぐれな生活のうちに、怖ろしい退屈を忘れなければならなかったのも、ひとつには、むなしく刺激を受けるだけで、一度たりとも満足させられたことのない、幾年にもわたる夜のベッドの屈辱の結果であった。 最初は単に子供っぽい陽気な遊び癖であったものが、次第に物狂おしい、病的な、世界中のひとびとがスキャンダルと感じるような享楽癖と化してしまい、もうだれの忠言も、この熱病を抑えることは不可能となってしまうのである。 革命が勃発し、革命裁判の被告席に立たされたアントワネットに、息子のルイ17世が非公開尋問で「母親に性的行為を強要された」と無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言したと論告される要因を生んでいく。

 1774年5月10日、ルイ16世がブルボン朝第5代のフランス国王に即位する。 マリー・アントワネットは王妃に就いた。 この王位就任二年後の4月にマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世(人民皇帝)がひどく心配し、ウィーンからパリにやって来た。 義弟のルイ16世に勧めたのが外科手術だった。 その結果、力づけられたルイ16世は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。 そして、その後 長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)の4人の子供(2男2女)を授る。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =08=

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○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ ブルボン朝王妃になる・・・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネットは、内向的な夫君・ベリー公とは正反対の気質であった。 ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、母親であるマリア・テレシアや長兄ヨーゼフ二世の善政を模した行為をなしている。 ルイ16世がブルボン王朝第五代のフランス国王に推戴されて、戴冠する二週間前の1774年4月27日に、国王ルイ15世が天然痘で倒れた。 病状が悪化して助からぬと悟った彼は、神への懺悔のために愛人デュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かさせた。 そして、5月7日、ルイ15世は告解を行い罪の赦し受け、五月9日に64歳で崩御した。 19歳になる孫のベリー公がルイ16世として即位するのであるが、彼は「私は何一つ教わっていないのに」と嘆いたと言う。

 蛇足ながら、フランス宮廷内でのアントワネットの立場を微妙にならしめたルイ15世の愛娼デュ・バリー夫人のその後について触れておこう。 ルイ15世の看病に努めていたデュ・バリー夫人だったが、5月9日にはポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が出され、危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられた。 追放同然に宮廷を追われたのである。 彼女は不遇な一時期を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーvシェンヌに起居し、優雅に過ごすようになった。 その後はド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になった。

 デュ・バリー夫人は1789年に勃発したフランス革命により、愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥を虐殺された後、1791年1月にイギリスへ逃れ、当地で亡命貴族たちの援助した。 しかし 1793年3月に隠し持っていた財貨をイギリスに持ち出そうと帰国した際に革命派に捕らわれると、12月7日にギロチン台へ送られた。 この時の死刑執行人のサンソン(シャルル・アンリ・サンソン)と知己であった彼女は、泣いて彼に命乞いをした。 しかし、これに耐えきれなかったサンソンは息子に刑の執行を委ね、結局デュ・バリー夫人は処刑された。 なぜ彼女が危険を冒して帰国したのか真相は定かでないが、革命政府によって差し押さえられた自分の城=ルーヴシエンヌ城/ルイ15世の公妾になった際、下贈されていた=にしまっておいた宝石を取り返すのが目的だったという説がある。=前節イラスト参照=

 マリー・アントワネットの夫君・ベリー公が父ルイ15世の崩御の翌日(1774年5月10日)にフランス国王となり、翌年に、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行なった。 アントワネットはフランス王妃となった。 因みに、ランス大聖堂は496年、フランク王国の初代国王であったクロヴィスが、ランスの司教だったレミギウス(聖レミ)から洗礼を受けてローマ・カトリックに改宗して以来、歴代フランス国王の戴冠の秘蹟を授ける聖別式が行われるようになった。 816年にルイ1世が初めて戴冠式を行ってから、1825年のシャルル10世に至るまで、25人の王が現大聖堂で聖別を受けている。

 しかし、翌年 1775年5月、パリで食糧危機に対する暴動が起き、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。 この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。 アントワネットは、背後の部屋で民衆の熱気を感じていた。 彼女の体内には昼夜を言わずに 四六時中 欲求不満が蠢いていた。 ルイ14世、ルイ15世の積極財政の結果が、年若い国王夫妻を 即位直後から 慢性的な財政難に引き込んでいたのである。 ブルボン王朝はこの問題に悩まされていた。 しかし、国王夫妻にはこの問題にはあまりにも無知であった。 政局はそれにも関わらず、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極めていく。

 1777年4月、アントワネットの長兄が母マリア・テレジア=ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる=の意を体してウィーンから来たのである。 アントワネットは、日々の生活ぶりを 日々の不満を 母親に手紙で知らせていた。 長兄ヨーゼフ二世は義弟・ルイ16世に結婚の義務を説いたのである。 そして、ルイ16世は先天的性不能(包茎)の治療を受けた。 治療の回復後、力づけられたルイ16世は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。

  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。 そして、その後 長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)の4人の子供(2男2女)を授る。 子供が授かってからは自分の子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。 母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だった離宮(小トリアノン宮殿)を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていた。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =09=

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◇◆ フランス王妃として・・・・・・ ◆◇

  1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止したり、緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが実施する諸変革は彼らとて 無駄だと知りながらも その実行は今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。

 こうしたベルサイユ宮中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。 一方では、地味な人物である夫の国王・ルイ16世を見下している王妃の言動が随所にあったという。 ただしこれはアントワネットだけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 まして、欧州一円にその影響力をもつハクスブルグ家の王女であったアントワネットは、 大貴族達の虚言や誹りを無視しできる権勢を備えていた。 他方、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。

 彼等は宮廷を去った国王の姉・アデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。 ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。 民衆は悪政の根幹にブルボン朝の退廃を感じ取っていたのかもしれない。

 ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、ルイ16世の即位前の1774年1月に、仮装舞踏会でフランス王太子妃=マリー・アントワネット=に出会った。 マリー・アントワネットにとっては数多い寵臣の中の1人ではあったが、同い年ということもあって次第に親密になっていった。 フェルセンのベルサイユへの接近はスウェーデンの国益に準じたグスタフ3世の意図があった。 開明的なグスタフ3世がフランスの状況を調べるべく、若き武官をその情報収集にベルサイユに送り込んでいた。

 1774年5月に先王・ルイ15世が没すると、以前から囁かれているマリー・アントワネットとの悪い噂は終息することなく、王妃となった彼女との関係が、不穏な方向に発展するのを恐れたフェルセンは、スウェーデンに帰国していた。 グスタフ3世の訓名でアメリカ独立戦争(1776年- 83年)に参加した後の1778年に再びフランスに戻ってきた。 フランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられての赴任であった。 その後グスタフ3世と共に欧州諸国を廻り、1785年からパリに在住することとなった。

 フェルセンは数ある結婚話を頑なに断り、王妃マリー・アントワネットただ1人に愛を注いだようである。 王妃の不幸が増せば増すほど、献身的に王妃の力となり、支え続けた。 しかしフェルセンの王妃への愛は、スウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになる。

 このような状況下の1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。 マリー・アントワネットに関する騒動は絶えない・・・・・・。

 

 

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断頭台の露と消えた王妃 =10=

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◇◆ 革命の導火線・首飾り事件・・・・・ ◆◇

 1785年、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。 ことの起こりは1772年、老王ルイ15世の愛妾であったデュバリー夫人が世界一高価なダイヤモンドをと老王にねだったことに端を発する。 デュバリー夫人の言いなりであった老王ルイ15世は、出入りの宝石商ベーメルにヨーロッパじゅうを探して、もっとも見事なダイヤを持ってくるように命じた。 荒稼ぎできると踏んだベーメルは、大いに張り切った。 そして彼は大粒ばかり600個ものダイヤを買い集め、それに糸を通してネックレスに仕立てて、老王に売りつけることを思い付いた。  こうして200万リーブル(現在のレートで20億円以上)という、値段の高さでも、趣味の悪さでも、目をむくような恐るべき装飾品が出来上がった。

 ベーメルは早速、鼻高々でベルサイユからの呼び出しを待ったが、運悪く、ちょうど老王は天然痘で急に亡くなってしまった。 ベーメルは大いに焦った。 破産の危機が目の前に迫っていたのだ。 新王となったルイ16世も、王妃マリー・アントワネットも、この”スカーフのような”外観の悪いネックレスをひどく嫌って、買い入れを拒否したのであった。 哀れなベーメルはそれから何年もの間、宮殿に何度も足を運んでは、このネックレスを必死に売り込んだ。 王妃に子供が生まれるたびに、あるいは洗礼式のたびに、王妃が気まぐれで買ってはくれまいかと、はかない望みに希望をかけた。 しかし結局、王妃は一度も気まぐれをおこすことはなかったのであった。

 さてここで二人の人物が登場する。 まずはマリー・アントワネットの少女時代、オーストリア宮廷にフランス大使として駐在していたド・ロアン枢機卿。 この男は世俗臭く、不道徳な人物で、彼の情事はヨーロッパじゅうに知らぬものとてないほど有名であった。 首飾り事件の発生前、彼は宮廷司祭長の地位にあった。 悪評にたがわず、教会の権力者として賄賂に私腹を肥やし、それをほとんど愛人のために費やしていた。 ストラスプールの名家出身の聖職者でありながら、大変な放蕩ぶりでも知られていたためアントワネット王妃は以前からこの男をひどく嫌っていていた。 しかし、ド・ロアン枢機卿もそのことを自覚するも、諦めることなくいつか王妃に取り入って宰相に出世する事を懸命に望んでいた。

 もう一人は、自称伯爵夫人のジャンヌ・ド・ラ・モット(イラスト参照)。 彼女は旧姓をジャンヌ・ド・サンレミといい、古いフランス王家のバロア家の直系子孫であるといわれていた=ブルボン家ももとをたどれば、南フランスの小貴族出身に過ぎないのでこのくらいの血筋の者はかなりいた=。 彼女の夫のド・ラ・モット伯は一文無しの陸軍将校で、伯爵の称号はひとえに女房の血筋のおかげであった。  このジャンヌ、人を説いて何でも信じ込ませてしまうという特技の持主であり、羽振りの良いド・ロアン枢機卿を騙して、大金をせしめる算段を立てた。 彼女は自分が王妃に影響力があり、したがってド・ロアン枢機卿に対する王家の人々の不興を解く力があると彼に信じ込ませるように努めた。 彼女のもの柔らかな説得は、数ヶ月も続いた。 共犯者をつかって王妃の筆跡を似せた手紙を何通も偽造し、マリー・アントワネットが枢機卿に対して、幾分心を和らげたように見せかける。 

 そうした十分な下準備の後、彼女はいよいよ大仕事に取り掛かることにした。 マリー・アントワネットに幾分似た少女を見つけ出し、枢機卿と偽王妃を、ベルサイユ宮殿内の暗い木立ちで深夜に引き会わせる手はずを整えた。 暗がりでド・ロアンが見たのは、王妃と背丈と体つきが同じのシルエットだけであった。 彼が跪いて敬礼すると、彼女(偽王妃)は一輪のバラをその手に押し付け、身をひるがえして闇の中に消えた。 枢機卿は狂喜した。 王妃は彼を許したばかりか、明らかに彼への愛情さえしめしたのだ。 年が変わった1785年1月、伯爵夫人ジャンヌ・ド・ラ・モットはド・ロアン枢機卿にマリー・アントワネットの要望として首飾りの代理購入を持ちかけた。

 伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ロアン枢機卿と面会させており、彼は念願の王妃との謁見を叶えてくれた人物として、伯爵夫人を完全に信用していた。 また、王妃から手渡された一輪のバラの記憶が蘇える。 だから、彼女(王妃)のためにネックレスを買って欲しいという偽手紙を受け取った時も、彼は喜んで承諾したのだ。当然このことは秘密の内に行わねばならず、買い上げの仲介人は、ただひとりの王妃とのコネクションであり、王妃の親友(と思っていた)ド・ラ・モット伯爵夫人以外には考えられなかった。 躊躇することなく、ド・ロアン枢機卿は首飾りを代理購入しラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =11=

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◇◆ 首飾り事件の顛末・・・・・ ◆◇

 ラ・モット伯爵夫人が王妃アントワネットと親しく、諸事話し合っていると信じているド・ロアン枢機卿は王妃に取り入る絶好の機会だと200万リーブルと値が付くダイヤの“首飾り”を宝石商シャルル・ベーマーのパートナーであるポール・バッサンジュに話をつけた。 彼は首飾りを代理購入者として手に入れ、直ちにその首飾りをラ・モット伯爵夫人に手渡した。 計画が違わず、予定の展開で首飾りを入手したジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人は最終段階に至って、ダイヤの“首飾り”を夫に委ねた。 ジャンヌの夫はそれをロンドンに運び、1粒ずつバラバラにして宝石商に売りさばいた。 ”伯爵”は賢明にもロンドンに残ったが、ジャンヌはパリを離れがたかったのかここに住み続け、夫が送ってよこした金で、優雅に自分の情夫たちを囲って暮らしていた。 しかし、その”優雅”な日々も長くは続かなかった。

 さすがのド・ロアン枢機卿も6ヶ月もたつと我慢しきれなくなって、とうとう勇気を振り絞って王妃に「なぜ例のネックレスをおつけにならないのですか?」とたずねたのである。 また、半年も首飾りの代金が支払われないことに業を煮やしたシャルル・ベーマーが、王妃の側近に面会して問い質した。 これにマリー・アントワネットは大激怒し、一気に事件は明るみとなったのである。 同年8月、ロアン枢機卿とラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァは逮捕された。  ラ・モット伯爵夫人はこの時、ロアン枢機卿と懇意であったが事件とは無関係とされる医師(詐欺師)カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。 なおラ・モット伯爵はロンドンに逃亡しており逮捕されなかった。

 事件に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこんだ。 1786年5月に判決が下され、ロアン枢機卿はカリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァとともに無罪となり、王妃と愛人(レスビアン)関係にあると噂されたラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった。 彼女は「ボルーズ(Voleurse)」・泥棒を意味する言葉の頭文字Vを額に焼き印されて投獄された。 これにて一件落着となるはずであったが、今度はこれを聞きつけた民衆が激怒した。 マリー・アントワネットはすでに民衆の人望を全く失っており、彼らは王妃と枢機卿は愛人関係であり、王妃はフランスが飢えているのに高価な贈り物を買わせたと信じたのである。 この噂さは大衆に容易に広まり、暴動が発生した。 無実の投獄とみなされたジャンヌはどさくさの内に脱獄し、イギリスに逃れた。 そして、彼女は安全な外国で、虚偽の醜聞をもとに自分の無実を主張する手記を新聞に発表し金銭を得た。

 フランスでは、この事件は事実に反して王妃の陰謀によるものとして噂になり、マリー・アントワネットを嫌う世論が日増しに強まった。 また国王ルイ16世は判決直後、無罪となったロアン枢機卿を宮廷司祭長から罷免、オーヴェルニュのシェーズ・ディユ大修道院に左遷し国民の反感を買った。 但し、ロアン枢機卿はもともと評判の悪い堕落した聖職者だったが、彼の左遷を批判した多くの人々はそれを知らなかった。 こういった経緯から、首飾り事件をフランス革命の導火線の1つとなる。

 さて、このスキャンダルな事件は、その真偽とは別に、王室に対する世論を急激に悪化させることに貢献し、フランス革命の一つの導火線となった。 世論とはとかく無責任なものなのである。 後の1793年、革命裁判にかけられたマリー・アントワネットは、この事件に関するあらゆることを尋問された。 ダイヤを搾取したのであろうという訴えに、彼女はジャンヌとは会ったこともないと必死に抗弁したが、罵声と怒号の前にそのか細い声はかき消された。 結局なにひとつ立証できなかったが、元王妃に対する判決はすでに決まっていた。

 彼女の罪状は、王室のメンバーであるということだけで十分であったのだ。 彼女は即日、ギロチンの露と消えていくのだが、一方、ジャンヌはその2前、ロンドンで死亡していた。 債権者から逃れようとして、エッジウェア・ロードのはずれの宿の二階の窓から転落(突き落とされた?)したのだ。 また、このネックレスはというと、結局だれ一人の首も飾ることも無く、人知れず散逸したのであった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =12=

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◇◆ フランス革命の勃発・・・・・ ◆◇

 ルイ15世の時代には、気候もよく、農作物が豊富に獲れて、人々は豊かな生活を送っていた。 しかし、ルイ16世の時代になると、天候は悪く、農作物も不作で、唯一豊作だったブドウのお陰でワインの価格は値崩れを起こし、人々の暮らしはとても苦しいものになっていました。 欧州全体が不安定な時代に入っていた。 にも関わらず、自由奔放に贅沢三昧のマリー・アントワネット。 ただでさえ反発されていたのに、首飾り事件が起き、ロアン枢機卿への処分のあり方に、ルイ16世までもが民衆はもとより、貴族からも支持を失ってしまった。 フランス王政が揺らぎ始め、終わりの足音が迫る。

 1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。 革命の直接的な原因は財政破綻。 この破綻を民衆は、『赤字夫人』である、マリー・アントワネットの浪費であると信じて疑わない。 実際は赤字額に比べると、アントワネットが使った金額は、当然 国が引っくり返るほどのものではないのだが、民衆は王妃のせいで国が傾いたと信じていた。 それほど王妃マリー・アントワネットの評判は悪くなっていた。 1789年5月。 聖職者、貴族、平民の三身分の代表者からなる三部会議が174年ぶりにルイ16世によって国民の、財政改革の協力を求めるために開催されました。 フランス革命の導火線になるということも知らずに。 第三身分の議員達は、自分達が国民の代表と主張し、王政ではなく『国民議会』を宣言した。 第二身分の貴族らがそれに賛同し、ルイ16世は聖職者と貴族に、やむなく第三身分に合流するように命じた。

 国は王家の私的財産という感覚で育ってきたマリー・アントワネットにしてみれば、政治に国民が口出しし、王家の行動に制限をつけるなどもってのほかだと考えていた。 王妃は2人の王弟と巻き返しにかかり、ルイ16世にヴェルサイユとパリ近辺に軍隊を集結させ、改革に理解を示していた財務総監ネッケルを罷免した。

 ネッケルが罷免になり、マリー・アントワネットは改革派の勢いがなくなったと考えたが、国民の受け取り方は違っていた。 ネッケルは国民に人気があり、その罷免に続いて、国王の軍隊がパリを制圧することを恐れていた。 ネッケルの罷免に怒りをあらわにしたパリの人々は反乱を起こした。 1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発したのである。 反乱軍は周囲を包囲されても、決して落ちることはないと言われていたバスティーユ要塞を襲撃した。 

 その夜、ルイ16世はいつものように狩猟から帰ると、十時に寝てしまった。 パリから顔色を変えて注進に及んだリアンクール公が、国王をたたき起して、ルイ16世は『暴動か?』と側近に尋ねると、『いいえ閣下。革命でございます。』と答えたと言われている。 バスティーユ牢獄の司令官、要塞の警備兵、パリ市長が襲われて命を落としており、民衆の怒りはどんどん激しさを増していく。 ルイ16世は親しい貴族たちをフランスから脱出させ、王室に忠誠心を示すフランドル連隊を呼び寄せる。 これが更なる民衆からの反感を買うことになった。

 革命運動の中心地、パレ・ロワイヤルの庭園で、ヴェルサイユ宮殿に押しかけようという女性たちの声が高まっていた。 ついに10月4日、パンを求めて民衆がヴェルサイユ宮殿目指して行進を始めた。 翌日、プチ・トリアノンを散策していたマリー・アントワネットの元に、パリから民衆が武器を持ってこちらに向っていることを知らされ、彼女は慌てて宮殿に戻る。 これを最期に、マリー・アントワネットが憩いの場所にしていたプチ・トリアノンに戻ることはなかった。

 政治的にごく視野の狭い彼女は、明日のパンに困っている人間が存在するということさえ、ついぞ念頭に登らせたことはなかった。 ”パンがなければ、ケーキを頂けばいいじゃない”と考える王妃・『赤字夫人』は、そもそも世界の悲惨を知らないでいたればこそ、あのように繊細優美なロココの小宇宙に君臨することもできたのである。 今やこの小宇宙もシャボン玉のように砕け、嵐が目前に迫っている。 運命の無慈悲な意志は、歴史上最も波瀾に富んだ事件の渦中に、戸惑っている彼女を突き落とす。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =13=

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◇◆ ファルセンの支援でパリ脱失・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネットの愛人と目される人物のなかで、いまだに謎につつまれているのが、スウェーデンの貴族フェルセン伯である。 いったい、彼女とこの若い北国生まれの貴公子とのあいだには、互いに尊敬以上のものがあったかどうか。 フェルセン伯の存在が一時途絶え、久しく宮廷や世間の口にのぼらなかったが、彼が王妃の信頼と愛情を一身にあつめていたことは、彼の妹のソフィや父元帥に宛てた手紙からも窺い知られよう。 パリ市内が騒乱の巷と化し、王妃の側近と目されていた連中がすべて彼女を残して去った後も、危険を冒して彼女に近づき、血なまぐさい動乱の最中、ヴェルサイユチュイルリーの一室で親しく彼女と謀議をこらしたり、後述のヴァレンスへの逃亡を共にしたりしたのが、このフェルセンという勇敢な男である。

 王妃には、ほかに寵臣がいないこともなかった。 しかし公然と印刷された愛人のリストに載っているド・コワニー公にせよギーヌ公にせよ、エステルラジー伯にせよブザンヴァル男爵にせよ、彼らは単なる一時的な遊び仲間にすぎず、平和な時代の側近でしかなかった。 ことが起こればわが身の保身に彼らは沈黙した。 彼らと異なり、フェルセンには一貫した誠実さがあった。 これに対して、王妃もまた死ぬまで変らぬ情熱をもって報いていく。

 フェルセンは、ノールウェーの英守・グスタフ3世によって、革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに再び送り込まれていた。 過日、1774年1月の仮面部総会で出会って以来、フェルセンはアントワネット王妃に特別な感情を抱いていた。 女王に仕える騎士そのもの立ち振る舞いであろうか。 国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。 彼は各地の王統派と連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動を起こしたのである。

  1791年2月13日、フェルセン伯が厳重な国民軍兵士の警戒網を突破して、最後にチュルリー宮に王妃を訪ねてきたとき、彼はその一夜を王妃の寝室で過ごしたという。 おそらく、死と破滅の危険によって昂揚させられた恋の夜は、容易に二人のあいだの慎しみの垣根を取りはらったにちがいない。 二人が本当の、精神的肉体的にも敢然な恋人同士であったことは、この点からみても疑問の余地がないように思われる。 不幸とともに、この軽はずみな王妃の内面生活に、ひとつの新しい時期がひらけたのはこの逢瀬からである。 喜劇が悲劇に変ったのである。 彼女はいわば世界史的な自己の役割を認識し、自覚したようであった。 フェルセンとの一夜が彼女をして変貌させたようである。

 「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」と彼女は手紙に書いている。 今まで人生と戯れていた彼女が、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。 チュルリー宮で反革命の外交交渉にみずから乗り出した彼女は、もうすでに、遊びやスポーツにうつつを抜かしていたころの彼女ではなかった。 わきへ押しのけられた弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文をつづって手紙を書き、はては怪物オノーレ・ミラボー伯(前節イラスト参照)を引見して、君主制維持の陰謀をめぐらすのである。

 ポリニャック公爵夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。 国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世(神聖ローマ皇帝/前節イラスト参照)に助けを求めようと計画する。

 計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。 彼女は実家であるオーストリアへ亡命することを企てていた。 当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。 マリー・アントワネットは、メルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した曉には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていたようである。 逃走の資金は銀行家から借金することになった。

 

 しかし、王妃マリー・アントワネットの主導のもとに計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。 まず計画の中心人物が、王妃の愛人とも噂されたあのフェルセンとなった。 彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数名の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無であった。 国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯爵は重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。 フェルセンはルイ16世の臣下ですらなかったからである。 しかしフェルセンは王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、今世紀初頭当時の日本円に換算して総額120億円以上を出資したというほど、献身的であった。

 脱出の実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日に実行に移された。 国王一家はテュイルリー宮殿を後にした。 国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な、 そして足の遅い、 ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。 このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。 

 

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◇◆ 亡命・逃走劇は幕開けから旋転せず・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネット王妃の実家であるオーストリアへの亡命計画は6月19日に決行される予定であったが、直前までマリー・アントワネットに振り回された。 何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになったのである。 他方、ブイエ侯爵=国境地帯の軍を管理、前節イラスト参照=は街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え、準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士達には任務の内容は知らせなかった。 指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前からズタズタになっていた。

 1791年6月20日の深夜、脱出計画は実行に移された。 国王一家はロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 テュイルリー宮殿を抜けだしたのは予定を二時間も遅くなっていた。 近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。 王子と王女は仮面舞踏会にいくと言い含められていたので驚いたようである。 一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れてすでにパリを出ていた。 

 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行く。 クリシー街のサリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。 さらに2人の従者が車後に乗った。 フェルセンは自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。 すでに午前3時半を過ぎていた。 

 翌21日の午前6時に侍女たちが国王一家の不在に気付いて通報したので、彼らには4時間の猶予もなかった。 急を知ったラファイエットは、国民議会と市役所に大砲を3発放たせて警報を発し、パリに厳戒態勢をしいた。 捜索隊がすぐに組織された。 怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込んで、ルイ16世の胸像を叩き壊し、早くも退位を要求するなどいきり立っていた。 大砲の音は逃走中の馬車の中の国王の耳にも聞こえたので、彼は何通か遺書を書いたが、しばらくすると追っ手はついて来ていないことがわかり、緊張が解けた安堵から気が抜けていった。 

 パリ郊外のボンディまで来て、ルイ16世は馭者を務めるフェルセンは随行するなと命じた。 国王は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったのであった。 しかし、遺書すら書き終えた国王として外国人に先導されることも、王妃と親しすぎる人物を連れて行くこともできなかったのである。 フェルセンは王妃に別れを告げて去った。 フェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だった。 一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていた。 コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人がなり、その子供には王太子ルイ=シャルル王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹エリザベート、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。

 その頃、ショワズールは、40名の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。 何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。 国王の馬車は、銀食器やワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。 国王一行がシャロンに到着したのは午後4時だった。 扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。 すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。 ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。 次のサント・ムヌウ)の町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。

 しかしサント=ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300名が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。 よってここでも国王は護衛とは合流できなかった。 しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。 ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン=バプティスト・ドルーエが見ていた。 彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。 そこにシャロンから王室一家が通過したという噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは地区役所に走って、書記からアッシニア紙幣を受け取って印刷された肖像を見てみると、まさにさっきの一行の中にいたのがルイ16世であった。 彼らは馬に乗って馬車を急いで追いかけ、間道を抜けて先回りした。

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◇◆ ヴァレンヌ事件の発覚・亡命計画の齟齬・・・・ ◆◇

 クレルモン・アルゴンヌの町至った国王一行は、ようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町ではニュースになって騒ぎになっていた。 町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。 しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。 再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、先回りしていた宿駅長のドルーエらはが大勢の群衆と共に待ち構えていた。

 ヴァレンヌの町では、国境地帯の軍を預かっているブイエ侯爵の息子ら2人の連絡将校が待っているはずだったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。 橋の向こうでは、馬車の替え馬が準備されていた。 ここで馬を替えればモンメディまでは僅かな距離であった。 ドルーエは警鐘を鳴らし、何としても亡命を阻止すべく、すでに橋にバリケードを作って封鎖していた。 騒ぎに目を覚ましたブイエの息子は発覚したと思って逃げ出した。 ドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ」と脅されていた町長は、旅券をチェックして「よろしい」と許可を与えたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めた。 

 馬車を群衆に包囲され身動きがとれなかったので、しばらくすればブイエかショワズールの部隊が助けに来るのではないかと期待した国王は、この招待を受けることにした。 24時間の逃避行で彼らも疲れていた。 「ソース」という名前の食料品店の2階に部屋が設けられ、簡易ベッドと粗末な食事が出された。

 夜半になって、ショワズールが猟騎兵を連れて息を切らせて到着し、彼らは群衆をかき分けて食料品店の2階に駆け上がってきた。 すぐに血路を開いて脱出しようというが、外には数万の群衆が集まっており、中には武装した国民衛兵隊もいた。 大半は只の野次馬で、これらすべてが国王に敵愾心があったとは思えないが、かといって無事に通り過ぎられそうでもなかった。 女子供を連れて強行突破は難しいと逡巡している間に朝がきた。

 1791年6月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。 すべてが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエが救援するのを待とうと試みた。 国王は疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しいと言った。 ロメーフはラファイエットの副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。 しかしもう一人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ」と群衆を煽った。 このとき初めて国王夫妻は、自分達が囚われの身になったことを実感させられた。

 髪は乱れ、真っ青な顔をしていたマリー・アントワネットだが、子供2人を連れ、冷静で威厳を保って、胸の前で手を組み合わせながら、頭を下げている。 夫であるルイ16世と、かつてないほど心を一つにし、家族と自分自身の命を守るために不屈の精神で挑んだのです。 母として、王妃おして凛とした態度のマリー・アントワネットの姿に人々は感動し、政治的な王妃への怒りは霧散する。 

 周囲を埋め尽くす群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、しょうがなく国王一家は車中の人となった。 マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。 その僅か半時後、ブイエ侯爵は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、国王がすでに屈服したと知らされた。 彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。

 

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◇◆ ヴァレンヌ事件の影響と革命戦争勃発・・・・ ◆◇

 この国王の亡命逃行失敗のヴァレンヌ事件はフランス国民に多大な衝撃を与えた。 国王が外国の軍隊の先頭に立って攻めてくる気であったという事実は、立憲君主制の前提を根底から揺るがす大問題だった。 ルイ16世は革命の敵、反革命側なのであり、それどころか国家の敵ですらあり、フランス人の王としての国民の信頼感は著しく傷つけた。 それまでは国王擁護の立場をとっていた国民が比較的多数を占めていたが、以後、多くは左派になびいて革命はますます急進化した。 

 窮した王朝派のラメットやバルナーヴは、国王は何ものかによって誘拐されたのだとする誘拐説をでっち上げた。 立憲君主制を成立させるには、ブイエを首謀者とするウソの陰謀が必要で、ルイ16世は被害者であったという捏造を強弁した。 このウソはバルナーヴの雄弁によってある程度は成功し、フランス革命は立憲君主制と立法議会の成立というところまで漕ぎついた。

 しかし、この公然の嘘には当然、左派は激しく反発した。 革命はもはや1789年の理想の範疇ではおさまらなかった。 ヴェルサイユ宮殿の球戯場(シャン・ド・マルス)の誓願は、ラファイエットの国民衛兵隊の発砲により流血沙汰となり、共和主義宣伝の機会を与えた。 ジャコバン派は分裂し、フイヤン派が脱退する事態となった。 フイヤン派は何とか君主制と革命とを両立させようとその後も苦心するが、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが外国軍による解放という考えを捨てなかったこともあって、結局は、共和制(フランス第一共和政)の樹立の方向に革命が進むのを止められなかった。

 一方、脱出を手引きしたフェルセンの主君スウェーデン王グスタフ3世(前節イラスト参照)は、ドイツのアーヘンにてフェルセンからの報告を待ちわびていたが、結局、脱出成功の報を聞くことはなかった。 逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちに亡命フランス貴族と計り、「反革命十字軍」を組織する計画を立てた。 10月1日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結したが、最終的にはグスタフ3世が1792年3月に暗殺されるなどで実現することはなかった。 グスタフ3世の行動はかなり極端ではあったが、後の対仏大同盟の先鞭となり、ナポレオンと対峙することに成る。

 他方、すでに亡命に成功していたアルトウ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)がヴァレンヌ事件でのルイ16世の失敗を知った直後、ハプスブルク家のレオポルト2世に支援をいらいした。 彼は激しく動揺し、憤って、妹マリー・アントワネットと甥たち、すなわちフランス王室の身を案じて心を痛めた。 

 そこで彼は1791年7月5日に回状発して、ヨーロッパの君主国にブルボン家への援助を呼びかけたが、これにはイギリスはもちろん、ブルボン家の分家であったスペイン、および別の妹マリア・カロリーナの嫁ぎ先でもあったナポリ、ブルボン家の旧同盟国サルデーニャも協力を断った。ロシアのエカチェリーナ2世は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こして動けなかった。 僅かに呼びかけに応じたのが、スウェーデン王グスタフ3世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世で、7月25日にオーストリアとプロイセンは軍事同盟を結んだ。

 そして、1791年8月27日にアルトウ伯が、神聖ローマ皇帝レオポルト2世プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム2世を仲介し「ピルニッツ宣言」を行う。 この「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす」という内容の宣言は、革命派には脅迫と受け取られて、実のところ国王一家の立場をより悪くしただけではあったが、フランス革命戦争への号砲となったと言える。 というのも、革命派は脅迫を受けて引き下がるどころか、逆にいきり立って戦いを望んだからである。 彼らはついには国王の断罪を求めるようになっていくため、ヴァレンヌ事件はブルボン王政の終焉を告げるきっかけともなった。

 バスチュール陥落後、同じ年の10月6日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。 このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。 やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェレセンは国王一家と別れ、その後 彼は1792年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。 そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヶ月、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。 さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがなかった。

 事実、1792年8月、フランス革命戦争が勃発する。 パリ市内は混乱し、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される=8月10日事件=。 同年年8月13日夕刻、王室一家はペチヨンの指揮のもとに、陰鬱な要塞タンブルに送りこまれる。 ここにいたるまで、マリー・アントワネットは国民議会で、パリへ連れもどされる途中の沿道で、あるいはチュイルリー宮に乱入してきた国民軍兵士の前で、どれだけ多くの罵詈雑言を浴び、どれだけ堪えがたい屈辱を嘗めさせられたことか。

 

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◇◆ 亡命貴族の支援策が革命戦争に駆り立てる・・・・・ ◆◇

 1791年6月のヴァレンヌ事件は、フランス革命の流れに相反する二つの潮流を生み出した。 第一は第二に対する反動で、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。 9月14日のルイ16世の1791年憲法への宣誓と復権、 そして 10月1日の立法議会の招集をへて立憲王政の成立へとたどり着いた後は、1789年の理想主義者ならこれで革命は終わったのだと信じることはできただろうし、事実、立憲議員の何人かは故郷に帰った。

 しかし全くそうではなかった。 立憲主義者の偽りの勝利と、利権を独占するブルジョワジーの分裂(フイヤン派ジャコバン派からの分離)をよそに、第二の波、つまり デモクラシーが台頭を始めていたのである。 バスティーユで革命に目覚めた革命的民主主義者たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にしたサン・キュロットの革命参加を促して、パリで徐々に政治勢力を形成した。 彼らは人民結社(コルドリエ・クラブ)や自治市会に結集して、さらにより急進的な第二世代の指導者を生み出していった。 この第二の流れは7月17日のシャン・ド・マルスの虐殺やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を約1年間ためていった。

 また第一の流れの副産物として、ウィーンとベルリンの宮廷は亡命貴族(エミグレ)に唆されて、ピルニッツ宣言=前節参照=を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったものの、ブリッソーら立法議会で新しく多数派になるジロンド派を刺激し、過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸君主に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)のごとき発想を思い起こさせた。 革命戦争の勃発は情勢を悪化させた。 戦争と経済危機の影響は市民の生活を直撃した。 

 パリの手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民(サン・キュロット)たちは生活改善を求めて再び結集した。 この流れはすでに左翼的イデオロギーを伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。 運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的アピールは、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民のなかにもこれに同調する者が現れ、彼らのリーダーとなった。 このような人々がそれぞれの地区の民兵を組織し、革命の暴力として顕在化した。 急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、共和制樹立の要求は日に日に高まっていった。

 そうした中で、次節で述べる、1792年8月20日のサン・キュロットの示威行動事件が起きる。 武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んで来る事件は、拒否権を乱発する国王への圧力としてジロンド派が黙認したという側面はあるが、武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。 王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回るスピードで展開を始めていたのである。

 「反乱者が公然と王制の転覆を計画」するという逼迫した情勢への危機感は、7月10日、フイヤン派を総辞職に至らせた。 立憲君主制を守る最後の試みは、軍司令官に復帰したラファイエットに託された。 彼はフロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵を通じて、ジャコバン派を解散させるために「軍隊をひきいてパリへ進軍する用意がある」のでオーストリアに軍事行動の停止を求めたことがあり、さらにコンピエーニュへの脱出を国王に勧めた。 

 ここで彼は軍隊と待つ予定であったが、国王の再度の脱出は7月12日から15日に延期されて、結局は中止になった。 ルイ16世はヴァレンヌ事件の失敗を思い出して、信頼する外国人傭兵、ガイド・スイス部隊の保護下から出る気がしなかったのである。 また マリー・アントワネットは諸君主国の同盟軍が声明を出して威圧するように求め、同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク侯爵が7月25日に王妃の要請に答えて宣言を発した。 その宣言は、パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫であった。 しかし、ブラウンシュヴァイク宣言は市民をより一層怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になった。 これはもはや武装蜂起を奨励するようなもので、完全に逆効果となった。

 フランス革命では特徴的なことだが、蜂起は存在しない脅威に対する自己防衛の行為であった。 暴動事件は、誰かが終始一貫して計画を立てたわけではなく、7月末の最後の週からパリで異常な高まりを見せた示威行動が、8月10日の爆発へのクライマックスを迎え導火線と成っていた。 議会の立憲君主派と、宮廷の王党派に対して、民衆は立ち上がらなければ踏みつぶされるだけだと思ったわけである。 ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、8月になると王制打倒こそが唯一の解決策であるという見解はパリ全体に共有されるものとなった。

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◇◆ 王室崩壊の≪8月10日事件≫序曲・・・・・・ ◆◇

  混乱するフランス、議会の立憲君主派と、宮廷の王党派に対して、民衆は立ち上がらなければ踏みつぶされるだけだと思った。 ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、8月になると王制打倒こそが唯一の解決策であるという見解はパリ全体に共有されるものとなった。 まず行動を起こしたのはパリの中核であった。  各セクション(諸地区)は常設の区会を設け、それぞれ連係するために「中央委員会」を組織した。 7月11日、これに続いたのはロベスピエールで、彼はジャコバン集会で演説して、連盟兵に参加を呼びかけた。 連盟兵たちは7月14日の祭のために全国から集まってきていたものだが、ダントンの提案で 祝祭の後もでパリに留まることが決まった。 国家の危機を救う任務が与えられ、むしろ奮起した。

 7月25日、ロベスピエールはより大胆な主張を展開し、立法議会の即時解散を要求して、これに代わって憲法改正をすべき新しい議会「国民公会議」の招集をすべきだと言った。 彼は王政のみならず議会をも葬る必要性を説き、ブルジョワ階級にのみ立脚する議会は人民を代表していないとの論拠を示した。 これは真実であったから、ジロンド派は有効な反論ができなかった。 彼らはロベスピエールが群衆を自重させることを願ったが、実のところそれは誰にも不可能で、もはや矢は放たれていた。

 翌≪26日≫夜、モントルイユ地区を行進した連盟兵によって「武器を取れ!」の呼びかけが行われた。 29日、マルセイユから連盟兵が到着すると、早速、彼らのもとには自発的に代表が派遣され、「王と呼ばれる男」と悪党どもを「王宮から追い出す」ことで問題は解決すると説明して、支持を得た。 翌7月30日、いくつかの区会は、受動的市民が国民衛兵隊に参加するのを認め、槍で武装するように指示したので、運動は一層促進された。 

  そして、8月6日にはシャン・ド・マルスで市民と連盟兵の大集会が行われ、ここでは改めてルイ16世の廃位が要求された。 パリの諸地区の先頭に立っていたサン=タントワーヌ城外区の区会は、9日までに国王の失権または王権の停止を議会が決議しなければ、パリの諸地区は武器を持って立ち上がるとの警告を発した。 攻撃の噂はそれ以前にも絶えなかったが、これが実際の最後通牒となった。       8月9日の夜、警鐘が鳴らされた。 48地区の委員が集まって市庁舎に蜂起コミューンが組織された。 これは自治市会の総会に代わる革命的組織であり、無制限の権限が与えられたパリの独裁の最初だった。 彼らは市庁舎を乗っ取ることにした。 合法的な市役所の活動を停止し、市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴは宮殿で国王と会談していたが、議会に呼び出され、自宅に監禁された。 国民衛兵隊総司令官マンダ は由緒ある貴族で、熱心な王党派だった。 彼は協力を拒んだので、市庁舎に召還されて尋問を受けた後で、監獄に送られる代わりに朝にグレーヴ広場で銃殺された。 国民衛兵隊は任を解かれ、セーヌ川に架かるポンヌフ橋の封鎖は撤去された。 暫定的なパリ国民衛兵隊総司令官にサンテールが選ばれた。

  宮殿の警備にはルイ16世に個人的忠誠を誓った950名のスイス人傭兵が残っていただけであった。 かつて立憲近衛隊が受け持っていたが、これは5月29日に解散を命じられた。 しかし議会の決定に不服だった指揮官のコッセ=ブリサック公爵らを含む元メンバーは解散後も留まって守備についた。 これに田舎から出てきた王党派支持者の若者が合流し、200〜300名の通称「聖ルイ騎士団」と呼ばれた大隊となった。 それにパリからはフィユ・サン=トマ地区とプチペール地区、ビュテ・デ・ムーラン地区から選抜された国民衛兵隊2,000名が馳せ参じ、国王のために集まっていた。

 8月10日朝、連盟兵とさらにはそれに付き従う民衆の総勢2万はくだらない大集団は、テュイルリー宮殿へ向かった。 宮殿はパリのど真ん中にある。 銃は1万挺ほどしかなく、残りは槍などで武装していた。 血気にはやった連中がいまにも攻撃を始めようと、王門の扉や冊を叩いていた。 これらの中に革命的女性のごとき過激分子も含まれていた。 ブルボン王朝終焉の幕が開かれる・・・・・・・・

 

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◇◆ 蜂起コミューンと蜂起(8月10日事件)・・・・・ ◆◇

 1791年8月10日朝、連盟兵とさらにはそれに付き従う民衆の総勢2万はくだらない大集団は、テュイルリー宮殿へ向かった。 宮殿はパリのど真ん中にある。 銃は1万挺ほどしかなく、残りは槍などで武装していた。 血気にはやった連中がいまにも攻撃を始めようと、王門の扉や冊を叩いていた。 これらの中に革命的女性のごとき過激分子も含まれていた。 ルイ16世はどうすべきか決心がつかなかった。 年老いたマイイ元帥は「アンリ4世=ブルボン朝初代のフランス国王 =の子孫のために勝ち抜くか、さもなくば死を誓う」と跪いて言った。

 万事休すと思ったパリ県の監察官ピエール=ルイ・レドレールもともとは高等法院判事で立憲議員だった。 この時は立憲君主派で、後にはテルミドール派となる政治家は、立法議会に国王が逃げ込む以外に方法はないと説得を始めた。 マリー・アントワネットは反対した。 彼女は王と王妃を引き離す陰謀があることを知っていた。 立憲君主派にとって最大の障害は、迫り来る群衆ではなく、王妃マリー・アントワネットであった。

 しかし、ルイ16世は家族全員で一緒に避難することを望んだ。 王妃は側近のランバク侯爵夫人(前節イラスト参照)とトゥルゼール公爵夫人も連れて行くように主張した。 残されることになった他の貴婦人たちは絶望して震え上がった。 しかし王妃は暴徒の群れに負けるはずがないと思っていたようで「戻ってくる」と言い残して去っていった。 議会とは庭園で隔てられているだけで、そう遠くではない。 

 国王一家が宮殿を去ると少なからず動揺が走った。 市民同士で殺し合いたくないと思った守備側の国民衛兵隊は次々と脱走して蜂起側の方に寝返ったり、群衆と歓談して敵意のないことを示そうとした。 このとき彼らは全ての大砲をも引き渡した。 流血は回避されるかと思われた。 しかし王党派の貴族の一部は死ぬまで戦う覚悟であり、この期に議会をも制圧しようという魂胆があった。 彼らは王門を門番に開かせ、群衆をカルーゼル広場に敢えて招き入れた。 広場は建造物に囲まれ、十字砲火で包囲殲滅するのには好都合だったからだ。

 午前8時、2,000〜3,000の群衆がカルーゼル広場からさらに中庭まで無秩序に入って来た。 スイス人傭兵らはあくまでも命令に忠実たらんとし、宮殿の外階段に不動の隊列を敷いて待ち構え、群衆の嘲笑や罵声にもピクリともしなかった。 どのような切っ掛けかは諸説あるが、号令とともにスイス人傭兵は一斉射撃を数度行い、怯んだ群衆を一気に突撃で崩した。 建物の二階や屋上からも銃撃が加えられた。 最初に入ってきた連中は全く戦い方を知らなかったので、包囲されてパニックを起こして潰走した。

 この間に蜂起側の第二波が接近していた。 今度は、王門からではなく、ルーヴル宮殿や庭園にあるセーヌ川側の複数の入口、小門から侵入した。 彼らの先頭に立ったマルセイユ連盟兵は従軍経験のある古参兵ばかりだった。 サン=タントワーヌの熱烈な共和主義者達がその後に続いて、大砲を牽いていた。 スイス人傭兵は突撃後の散開状態で、カルーゼル広場で突然砲撃を受けたため、中庭に退却した。 マルセイユ連盟兵らは突撃を開始し、さらに後続のサン・キュロット群衆が広場を埋め尽くした。 中庭ではスイス人傭兵は横隊を組んで再び激しく防戦した。 連盟兵にも大きな犠牲がでたが、あらゆる方向から侵入する群衆にスイス人傭兵は抗しきれなくなり、そこに4ポンド砲での近距離射撃と擲弾を受けた。 たまらず宮殿内に退き、そこからは大混乱になった。

 スイス人傭兵は、国王に士官を派遣してどこまで徹底抗戦すべきか伺いを立てた。 ルイ16世は宮殿が制圧され、すべての望みが無くなった後で、午前10時、発砲の停止を命令した。 しかしこれでは哀れなスイス人たちを虐殺から救うことはできなかった。 600名が殺され、うち60名は降伏した後の殺害であった。 残りのほとんども捕虜となり監獄に放り込まれた後に殺害されることになる。 一方で、聖ルイ騎士団の貴族子弟たちはルーヴルの別の回廊からほとんど全員が脱出した。

 宮殿では勝ち誇った群衆が手当たり次第に家具や絵画などを壊していたが、蛮行を見かねた舞台監督サンジエは、機転を利かせて、すでに有名になっていた「ラ・マルセイエーズ」を弾いて、怒り狂った人々の心を宴会ムードに変えた。 彼らは一晩中、歌い踊り明かした。 残された貴婦人たちは散々罵られて脅かされ、怖い目にあったが、暴力的被害は受けることなく解放された。 彼女たちに最も辛く当たったのは十月行進の時と同じく、同性の革命的女性であった。

 

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◇◆ 8月10日事件の終局と九月虐殺・・・・・ ◆◇

 立法議会は戦況が不確実の間は態度を明らかにしないで、蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止を宣言し、ロベスピエールの案に従って国民公会の召集を決議した。 第二革命の性格のある“8月10日”事件によって政界の情勢も一変した。 ブルボン王政はついに終わりを告げたが、同時に自由主義ブルジョワジーの政治も終焉した。 王党派はもはやパリでは存在を許されず、フイヤン派は完全に失脚した。

 事件を聞いたラファイエットは、軍隊をパリに向けて進軍させようと試みた。 しかし兵士達から見限られ、身の危険を感じてアレクサンドル・ラメットら同志と共にベルギーに逃亡し、オーストリア軍の捕虜となった。 「ラ・マルセイエーズ」の産みの親の一人である、ストラスプール市長フィリップ=フレデリク・ド・ディートリヒ男爵 も同様の君主制擁護の蜂起を行ったが、失敗して亡命した。

 ジロンド派は穏健共和主義者の集まりであったが、蜂起によって彼らの希望する政体であった共和制が樹立されることになったにもかかわらず、大衆の支持を失った。  逆にジャコバン派の中から、台頭する左派勢力、後に国民公会でモンターニュ派と呼ばれる勢力が支持を集めるようになった。 新しい議会は普通選挙に基づき、民主的な共和国が誕生することになった。

 他方、事件の余韻はしばらくパリに残り、都市は興奮状態を維持した。 襲撃者たちの多くはそのまま動員登録が行われて前線に出征していったが、残された人々は熱狂的な革命熱をもてあました。  その後の戦況の悪化と外敵がパリの城門まで迫っているという誤った情報を受けて再び暴走し、“九月虐殺”を引き起こすことになる。

 1792年8月11日、立法会議がパリ市のコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、8月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。 こうしてパリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。  8月26日にロウウィ市がプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。 義勇兵の募集が行なわれたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇軍の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れていた。

 「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。 内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ」。 こうして8月30日、パリ市内で家宅捜索が行なわれ、約3千人の容疑者が逮捕された。  しかし、特別重罪裁判所は機能していない。

  きっかけは革命戦争において、オーストチア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃をもたらした際に行なわれた、ダントンの演説である。 彼は「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。 やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。 それは祖国の敵への攻撃なのだ。 敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。 そうすればフランスは救われるだろう!」と呼びかけた。 これがテロリズムへの公然たる誘導となった。

  9月2日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ市のコミューンの監視委員会は全ての囚人を人民の名において裁判することを命じた。 コミューンは防衛を固め、警鐘が乱打され、市門は閉じられた。 義勇軍の編成が始まる。 数日前から、「殺し屋」が集められていた。 三色の記章をつけた赤い帽子をかぶり、緋色の上着を着た彼らは忠実に任務を果たした。 「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。 『反革命の陰謀』だ。 やられる前に、やれ。」

 こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。 牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された 。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺。 一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。

 当時アベイとカルム、その他の牢獄には反革命的な聖職者が収容されていた。 宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。 興奮した民衆の一群がまずアベイの牢獄に押しかけて収容されていた23人の聖職者を殺害し、ついでカルムの牢獄におもむき、150人の聖職者の大部分を殺害した。

 虐殺は数日間続いた。 マリー・アントワネット王妃と運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、無残に殺された。 群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。 ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃に見せつけるという示威行為をとった。

 この結果パリ市内の牢獄は空になった。 数日間吹き荒れた暴力で犠牲になったものは、推計1100人から1400人。 のちになって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明。 犠牲者のうち本来殺害の対象となる反革命主義の政治犯は全体の4分の1にすぎなかった。 また、似たような虐殺が、前後して各地の都市でも起こった。 その犠牲者の総計は14000とも16000ともいわれている。

 しかしながら、8月10日事件で、ダンプル塔に強制的に幽閉されたマリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家は、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

 

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◇◆ 幽閉生活 そして、国王が国民公会で・・・・・ ◆◇

 1792年の8月10日事件が発生する二か月前、ヴァレンヌでの逃亡事件失敗の後、フェルセンは、ある晩に国王一家が幽閉されているテュイルリー宮殿に変装して忍び込み、国王と王妃に新たな亡命計画を進言していた。 しかし、パリに留まることを決意した国王から拒否されてしまう。 時間がなかった。 革命政府によって裁判にかけられるため、国王一家がタンプル塔に移送されると言う。 フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。

 革命が激しくなると、フェルセンはブリュッセルに亡命し、ここでグスタフ3世やオーストリア駐仏大使と共に王妃救出のために奔走した。 しかし、ブルボン王朝が瓦解する1792年3月にグスタフ3世が暗殺されると、スウェーデンは革命から手を引き、フェルセンは政治的に失脚していたのである。 

 要塞タンブル塔に幽閉された王室一家、国王ルイ、マリー・アントワネット、ふたりの子供、それに国王の妹エリザベートの五人。 これまで一緒にいた王妃の親友ランバール夫人も、タンブルへの収監と同時に、彼女から引き離された。 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

 だが、一ヵ月後=九月虐殺=に、ランバール夫人は暴民に虐殺され、屍体を裸にされて、パリの町中を引きずりまわされる。 槍の穂先には、血まみれの夫人の首が掲げられる。 気丈な王妃も、親友が虐殺されたというニュースを番兵から聞くにおよんで、叫び声とともに気を失って倒れる。 “九月虐殺”は憎悪の連鎖を呼び起こすことになり、民衆は王妃を、王妃は民衆を激しく憎むようになった。

  蛇足ながら、後年の1796年、スウェーデンでグスタフ4世が親政を開始すると、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンも復権して外交顧問に任じられる。 フェルセンは1798年にフランス革命戦争の講和条約としてのラシュタット会議にスウェーデン代表として参加。 ここでナポレオン・ボナパルトに会っている。 この席でフェルセンは、ナポレオンにマリー・アントワネットとの関係を聞かれたという逸話がある。 

 その後、グスタフ4世の元で1799年に元帥にまで昇進し、スウェーデン国政に携って行くこととなった。 しかしフェルセンは、民衆に対して不信の念は益々、頑迷な不信を抱くようになり、強圧的な振る舞いが多くなっていく。 それは愛するアントワネットを死に追いやった民衆の狂気、いや時代が呻きを発して変貌して行く様への憎悪であったろう。

 亡命が発覚したヴァレンヌ事件が起こるまでは、スキャンダルにまみれたマリー・アントワネットとは違い、ルイ16世は国民の境遇に心を悩ませる、心優しい国王として、絶大な人気を得ていた。 英名ではないが国民のよき支配者であり、王妃であるマリー・アントワネットの噂はどうであれ、国王としての威信が地に落ちると言うことはなかった。 全てはヴァレンヌ事件によって、国王 いや ブルボン王朝自体の進むべき方向が変ってしまった。 タンプル塔に幽閉されていた国王一家であったが、遂に処遇を巡って裁判に欠けられることになった。

 タンプル塔に幽閉された国王一家は、もはや悪質な政治犯として見られ、釈放の余地はなかった。 ルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。 その間(1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護するフイヤン派=王党派=、処刑を求めるジャコバン派、裁判に慎重なジロンド派は対立し、長々と議論が続けられていた。

 膠着状態の中、11月3日、25歳の青年サン=ジュストが、人民が元々有していた王権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきであると演説し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた。

 1793年1月15日〜1月19日、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。 投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった。 第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した。 ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)で、ジロンド派の予想に反して否決された。

 そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。 集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた。 次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑286名、執行猶予付き死刑46名であった。 387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった。 死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定したと言える。

 第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12)で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。 

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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