Quantcast
Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
Viewing all 2019 articles
Browse latest View live

王妃メアリーとエリザベス1世 =09=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ ダーンリー卿の暗殺 ◆◇

 1567年2月10日の深夜。 メアリーが宮殿へ帰った直後、ダーンリーの寝起きしていた館が何者かによって爆破されたのだった。 翌日の午前2時ごろ、カーク・オ・フィールズの村の住人は、すさまじい爆発音で眠りをやぶられた。 音は、館のほうからだった。 外に出てみると、土ぼこりに混じって、硝煙のにおいがしていた。 夜が明けたとき、村びとが館のほうに行ってみると、そこで目にしたものは、がれきの山と化した館だった。 そしてそこから少し離れたところに、寝巻き姿の男が倒れていた。 ダーンリー卿だった。

 彼はすでに死亡していたが、遺体はきれいだった。 しかし、首のまわりには縄目の跡があった。 ダーンリー卿は爆死したのではなく、絞殺されていたのである。 村びとのなかには、爆発音がするだいぶ前に助けを呼ぶ人の声のようなものを聞いたと言う者もいた。 ダーンリー卿を殺害した者たちは、この夜、館に爆薬を仕掛けてかれを暗殺しようとしていた。 そのとき、ダーンリー卿が物音に気づいて逃げだしたので、暗殺者たちは彼を捕らえて絞殺し、それから館を爆破して逃げたのである。

 ダーンリー卿の死が暗殺だったことは、だれの目にも明らかだった。 証拠はなかったが、「首謀者はボスウェル伯ジェイムズ・ヘバーンではないか」と噂された。 そして「女王メアリーもこの謀殺にかかわっていたのではないか」とささやかれた。 それというのも、メアリーが夫ダーンリー卿から自由になりたいと思っていたことは、だれもが知っていた。 そして野心家のボスウェル伯は、メアリーとダーンリー卿との仲にきしみが生じてきたときから、メアリーのもとに足しげくかよい、彼女にとり入っていたからである。

 因みに、この事件にメアリーが首謀者として関わっていたかどうか、諸説あってはっきりしない。 メアリーが暗殺に加担した「証拠」といわれるものも存在したが、でっち上げの偽物だった可能性も高い。 メアリーは無実であったと思う。 マリ伯を含めた大貴族たちにとって、すでに王子が生まれ、摂政として実権が握れるチャンスが巡って来た以上、メアリー夫妻は用済な上に邪魔者だった。 二人とも、抹殺しようと考えても不自然ではない。

 その陰謀の中心はおそらくマリ伯ジェームズ・ステュアートとボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンであったが、直前になって、ボスゥエルはメアリーを利用するつもりで生かしておく気になったのだろう。  密かに知らせを受けたメアリーは、自分だけでも助かりたい一心で逃げ出した。 そして哀れにも、夫・ダーンリー1人がテロの犠牲になったのだ。

 実はダーンリー卿は爆発では死ななかった。 前述のようにガウン一枚で飛び出した彼は、作戦の失敗を知った暗殺者の手で、改めて絞殺されたのである。 知らせを受けたエリザベス1世(処女王)は、あれほど怒っていたにもかかわらず、メアリーにあてて、「すぐに自分が疑われないよう犯人を検挙して、身の潔白を証明しなさい」という忠告の手紙を送っている。 そこで形だけ詮議が行われ、ボスゥエル伯が怪しいとなったわけだが、何しろほとんどの大貴族が加担している暗殺事件である。 事態はうやむやのまま流されてしまった。

 その後のボスウェル伯の行動を見れば、かれがダーンリー卿謀殺の首謀者で、なにを考えていたかは明らかだった。 ボスウェル伯は、ダーンリー卿が殺害されて2カ月もたたないうちに、メアリーに結婚を申し込んだのだった。 かれはメアリーとの結婚で、スコットランドを手に入れようとしたのである。 しかしメアリーは、ボスウェル伯の求婚にすぐには応じなかった。 彼女は、ダーンリー卿との結婚で懲りていた。 男を見た目だけで判断し、結論を急ぎすぎたあまりに失敗していたからである。

 ダーンリー卿は、ただの軽い男だった。 それにたいしてボスウェル伯は、その正反対だった。 かれは落ち着いていた。 しかし野心的で、強引なところもあった。 腹の底ではなにを考えているのか分からないような怖さもあった。 そこがまた、メアリーにとっては魅力と感じるところでもあった。 だがメアリーは、少し時間をかけて、慎重に結論をだそうと思っていた。 そしてかれへの返答を、遅らせていた。 ところがボスウェル伯は、4月、彼女をフォース湾に突き出た岬にあるダンバー城へ強引に連れてゆき、そこで彼女に結婚に同意するように迫ったのである。 メアリーは、もはや逃れようがなかった。

 しかも悪いことに、ボスゥエルは命を助けてやったことを恩に着せ、メアリーを誘惑し、レイプしてしまった。 メアリーは泣く泣く身を任せたが、しばらくしてこの男に本気で惚れてしまったのである。 ジェームスの誕生から、まだ一年もたっていなかった。 なのに、ボスゥエルはメアリーと関係してから、暴走し始めた。 同じ年の5月15日、彼は陰謀を目論んだ仲間を裏切ってメアリーとの結婚を宣言する。 この行為に、始めは同情的だった諸国も目を白黒させ、次に激しくメアリーを非難した。 裏切られた大貴族達は、ダーンリー暗殺の責任を全てボスゥエル一人に押し付けて、「王殺しの反逆者」として討伐のため挙兵した。

 メアリーも対抗するために軍を収拾したが、呆れ返った人々はメアリーから離れていった。 状況は圧倒的に不利だった。 ボスゥエルはいち早く単身北へ落ち延びた。 メアリーは本拠地のボスウィック城に立て籠ったが包囲され、男装をして脱出し、ボスゥエルの後を追った。 そして、二人が再会した時、破滅が訪れる。

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 


王妃メアリーとエリザベス1世 =10=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ ボスウェル伯との再々婚そして廃位 ◆◇

 ボスウェル伯はやはり強引だった。 1567年4月23日にボスウェル伯によるメアリー誘拐事件が起こる。 彼はすでに結婚していたが、メアリーとの結婚を決意したときから離婚の手続きを進めていた。 そして、その離婚が5月3日に認められると、5月15日にメアリーと再婚をしたのである。 メアリーにとっては、3度目の結婚だった。 メアリーはカトリックだったが、ボスウェル伯がプロテスタントだったので、結婚式はプロテスタントのしきたりでおこなわれた。 しかし、このメアリーとボスウェル伯との結婚は、スキャンダラスだった。 だれの目にも、ダーンリー卿暗殺事件の首謀者がボスウェル伯だったことはあきらかで、その陰謀にはメアリーも加わっていたのではないか、と噂されたなかでの結婚だったからである。

 ふたりの結婚には、カトリックもプロテスタントも反対した。 ボスウェル伯の王国乗っ取りは明白で、貴族たちは、ボスウェル伯がこれ以上、強大な権力を手にすることに警戒したからである。 スコットランドの貴族たちは、フランスの支配下にあった時代も、私利私欲で権力闘争をくりかえしてきた。 それは、伝統的にスコットランドでは、ひとりの人間に権力が集中することを嫌ってきたからである。 それがいま、ボスウェル伯ひとりが権力をにぎろうとしていた。 そこで貴族たちは、同盟をむすんで反乱を起こした。 6月15日の事である。

 この反乱は強力だった。 なぜならば、ボスウェル伯に味方する者がいなかったからである。 6月15日、ボスウェル軍は、エディンバラの東約13キロメートルのところであった「カーバリー・ヒルの戦い」で、貴族同盟軍にあっさりと負けてしまった。 そしてメアリーは、降伏して捕らえられたのだった。 一方ボスウェル伯は、戦場から逃走する。 メアリーは、いったんホリールードハウスの宮殿に連れていかれたが、7月、サー・ウィリアム・ダグラスのロッホリーヴン城に軟禁されてしまった。 この城はリーヴン湖のなかの離れ小島にあり、脱出は不可能といわれていたところだった。

 ボスウェル伯は逃走後、ダンバー城に向かい、そこで以前からマリ伯の行動に不審を抱いていた貴族と合流し、小規模な軍隊ができあがった。 しかし、枢密院では彼ら全員を反逆者とみなし、これによってボスウェル伯に味方した貴族も姿を消してしまった。 その後、かつての味方で義兄弟のハントリー伯を訪ねたが協力を断られ、養父でもある大叔父のマリー司教の援助で、6隻の商船と漁船を率いて、領地であるオークニー島とシェトランド諸島に向かった後、2隻の船でマリ伯の捜索の手から逃れ、ノールウェーへ漂着した。 その後はデンマークのコペンハーゲンに移され、そこで身柄を拘束された。

 デンマーク王フレゼリク2世は、ボスウェルの身柄と引き換えに、スウェーデンとの戦争の際にスコットランドが2000人の兵を提供することを条件として、マリ伯に取引を持ちかけた。 マリ伯は、兵力の提供は承諾したが、ボスウェルをデンマークで処刑するよう求めた。 フレゼリク2世は迷った末、姉婿や叔父の3人に相談した。 結果、事件を徹底的に調査し、ボスウェルの国王暗殺に関する有罪・無罪のあらゆる証拠を検討した上でデンマークの裁判所に任せるべきという結論に至った。 その結果、ボスウェル伯は引き続きデンマークで拘束されることになった。

 7月26日、ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーの元へ数名の貴族がやってきた。 彼らは、息子ジェームズ王子のために退位すること、ジェームズの教育を数名の貴族に任せること、マリ伯を摂政に任命すること、という3つの条件が記された文書に署名を要求した。 彼らの一人、リッチオ殺害の実行犯の一人だったルースベンは、署名しないと命の保証はしないと脅迫する。 メアリーの署名はこのような脅迫を伴った強制であった。 署名させられたメアリーは退位した。 1歳になったばかりの息子ジェイムズへの譲位を余儀なくされた。 

 しかし、不本意に女王の座を追われたメアリーは、その後も女王であると主張し、「スコットランド女王」の称号を使いつづけた。 ジェイムズ6世(在位1567-1625)として即位した息子の摂政には、ジェームズ5世の庶子でメアリーの異母兄になるマリ伯ジェイムズ・ステュアート(前節イラスト参照、メアリーの政敵)が成った。 今度は、貴族同盟が幼児を国王に戴いて、スコットランドの実権をにぎったのである。 

 徹底的なマリ伯の勝利だった。 メアリーを完全な敗北に追い込んだとマリ伯はほくそ笑んだ。 一時はメアリーを抹殺しようとして、ボスゥエルの裏切りによって挫折したマリ伯であったが、ふたを開けてみると、自分の手を汚す必要はなかった。 メアリーは勝手に破滅してくれた。 しかも自分も加担したダーンリー暗殺の罪を、ボスゥエル一人に押し付けて。 そしてメアリーは湖の孤島ロッホリーヴン城に幽閉されて一月後の7月25日、ついに王位を幼いジェームス王子に譲るとの書類と、マリ伯の摂政任命の書類にサインしたのである。 ボスゥエルの人生もまた終わっていた。 彼は追われてデンマークまで逃げ、そこで幽閉されて、狂死したという。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =11=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ イングランドへ亡命 ◆◇

  メアリーは最後のチャンスに賭けた。 メアリーは、脱出は不可能といわれていたロッホリーヴン城に幽閉されていたが、10カ月後の1568年5月2日、そこからの脱出に成功する。 数カ月かけて脱出作戦を練った後、ついに、ロッホリーヴン城を脱出し、ニドリー城まで落ち延びたのだ。 城主サー・ウィリアム・ダグラスの息子ジョージが、25歳の女ざかりのメアリーの美しさに惑わされ、彼女の脱出に手を貸したからだとされている。

 変装したメアリーは、侍女たちとともに小舟に乗り、りーヴン湖を渡った。 そこから南へとむかい、フォース湾を船で横切ると、クィーンズフェリーに上陸した。そして、そこからさらに南へとむかい、カークリストンの近くの、セトン卿のニドゥリー城に入った。 メアリーはそこで支持者をあつめ、女王への復位をめざして、反メアリーの貴族たちへの反撃を開始した。 メアリーは6千人の兵を集めて軍を起こす。 一方、摂政のマリ伯のとっては、メアリーの脱出は痛手だった。 ボスウェル伯に反発して1年前の反乱に加わった貴族たちのなかには、メアリーを支持する者がいたからである。

 5月13日、メアリー軍は、グラスゴーの近くのラングサイドでマリ軍に決戦を挑んだ。 「ラングサイドの戦い」である。 メアリーはこの戦いに王冠の奪還を賭け、6千の兵を集めていた。 しかし、寄せ集めの軍隊であることは否めなかった。 さらに、メアリー軍の総司令官だった5代アンガス伯アーチボルド・キャンベルは、戦いの決定的な瞬間に弱気になり、勝機を逃していた。 その結果、メアリー軍は敗れてしまったのである。 戦場からかろうじて脱出したメアリーは、ヘリズ卿に助けられ、ダムフリースまでの60マイル(約96キロメートル)を逃げのびていった。 そこからは、追手を避けながら、さらにコラ城、ターレグレス城へと逃避行をつづけていった。

 メアリーは、もはやスコットランドにはいられなかった。 そこで彼女は、ひとまずイングランドに亡命することにした。 父の従妹になるエリザベス1世の力を借りて反メアリー勢力を一掃し、ふたたびスコットランドの女王の座につこうと考えたのである。 髪を短く切ったメアリーは、服も変えて、イングランドに近いスコットランド南端のダンドレナン修道院へとむかった。 このときの悲惨な逃避行について、メアリーは次のように書き残している。

「地面の上にそのまま寝て、酸っぱいミルクを飲み、パンもなく、オートミールだけをすすった。 フクロウのように昼間は隠れ、夜、移動することが三晩もあった」

 5月16日、メアリーは20人の従者をつれてソルウェイ湾を渡り、イングランド領に入った。 それから、イングランド領内をワーキングトン、クッカーマウスへと移動し、逃避行をはじめてから5日目の5月18日に、カーライル城にたどりついた。 カーライル城は、メアリーをスコットランドの女王として丁重に迎え入れた。 イングランドとスコットランドは対立していたが、メアリーはエリザベス女王の従兄の娘でもあり、賓客だった。 メアリーは、ここでようやくゆっくりと休むことができた。

 しかし亡命を果たしたものの、このときからメアリーは、実質的にイングランドの捕虜となってしまったのである。

  10年前の1558年にエリザベスが女王に即位すると、その翌年に、イングランドはカトリックからふたたびプロテスタントの国になっていた。 しかし、国内には旧教であるカトリックを信仰するものが多く残っていた。 そればかりか、過激なカトリック勢力は、エリザベス1世を暗殺してカトリックを復活させようとしていた。 そんな状況のなかでは、プロテスタントのエリザベスがカトリックのメアリーを助けて反メアリーのスコットランド貴族を討つわけにはいかなかった。 彼等もプロテスタントだったからである。 

 それどころか、メアリーのイングランドへの亡命は、逆に国内のカトリック勢力を活気づかせることになってしまった。 エリザベスにとってカトリックのメアリーは、従兄の娘とはいえ、厄介者以外に何ものでもなかった。 メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許されていた。 しかしメアリーは、これらのイングランドの状況を、まったく理解していなかった。 彼女は、「血がつながっているのだから、エリザベスはきっと助けてくれるにちがいない」としか考えていなかったのである。 

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =12=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 16世紀後半のイングランド、血まみれのメアリー ◆◇

 16世紀のイングランドは、プロテスタントとカトリックが激しく対立していた時代だった。 ここで、スコットランドの女王メアリーがイングランドに亡命してきたころの、イングランドの時代背景について触れておくことにする。

 ヘンリー8世の離婚問題に端を発したローマ教皇との対立は、イングランドにカトリックとの決別という結果をもたらしていた。以降、イングランドは、国王を首長とするプロテスタント=国教会=の国となったのである。 1547年にヘンリー8世が他界すると、かれの3度目の王妃ジェイン・シーモアとのあいだに生れた一人息子のエドワード9歳が、エドワード6世として即位した。かれはプロテスタントとして育てられていた。また、少年王の側近にはプロテスタントが多く、イングランドは急速にプロテスタントの色を濃くしていった。それと同時に、カトリックは迫害されるようになった。

 しかし、カトリック勢力も根強く残り、いつしか復活するときを待っていた。 病弱だったエドワード6世は、1553年7月6日、15歳で他界してしまった。当然、世継ぎはいなかった。 プロテスタント勢力は、その体制を維持しようとしたが、エドワード6世のあとを継いだのは、ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オヴ・アラゴンとのあいだに生れた、カトリックのメアリーだった。しかも彼女は、スペイン人の母親の影響を強くうけ、狂信的なカトリックに凝り固まっていた。 メアリーが即位するまでのあいだには、「ジェイン・グレイの九日間女王」という事件もあったが、この事件はイングランドの王位を争う陰湿な陰謀の現れであった。



 メアリーは、7月19日にメアリー1世として即位すると、父ヘンリー8世の宗教改革を否定し、ローマ・カトリックを復活させた。 そしてイングランドは、ふたたびカトリックの国となったのである。 さらにメアリー1世は、翌1554年の新年早々に、カトリックの大国であるスペインの皇太子フェリッペと結婚すると言いだした。 彼女は、カトリックの完全な復活と継続をめざしたのである。 メアリーに世継ぎの王子が生まれれば、その子は将来スペインとイングランド両国の国王となる。 ところがそれは、当時の力関係からいえば、イングランドがスペインの属国になることを意味していた。

メアリー1世のスペイン人との結婚発表に、愛国的な国民は、彼女がイングランドをスペインに売ったと反発した。 そして、サー・トマス・ワイアットの反乱を招くことになった。 ワイアットは、1月にケント州で4千の兵をあつめると、女王の結婚発表の撤回をもとめて、ロンドンにむかって進撃した。 しかしこの反乱は、多くの国民の共感をあつめたが、反乱軍に積極的に加わって女王に刃向かおうとする者は、それ以上はふえなかった。 その結果、反乱は2月中旬に鎮圧され、失敗に終わるのだった。 ワイアットら首謀者は全員、逮捕され、4月に首をはねられた。 そしてかれらの首は、さらしものになった。

カトリックに凝り固まっていたメアリー1世は、ワイアットの反乱でより頑なになっていた。 そして7月、彼女は周囲の反対を押し切って、フェリッペとの結婚式を強行したのである。 メアリー1世の即位は、カトリックによるプロテスタントへの弾圧、宗教裁判の再開でもあった。 プロテスタントの時代に肩身の狭い思いをした彼女は、異端処罰法を復活させると、プロテスタントへの復讐を開始した。 そして、プロテスタントの聖職者や彼等に協力した神学者、信者をつぎつぎに捕らえては、宗教裁判にかけて処刑していった。

 1555年4月、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の神学者が、プロテスタントの宗教改革に手を貸したとして火刑にされた。 同年9月には、プロテスタントの宗教指導者だったカンタベリー大司教トマス・クランマー、ロンドン司教ニコラス・リドリー、ウースター司教ヒュー・ラティマーの3人が拘束され、オックスフォードで裁判にかけられた。 リドリーはプロテスタントのすぐれた神学者でもあり、ラティマーはもっとも高名な説教師だった。 しかし、ふたりとも10月16日に火あぶりの刑に処せられてしまった。 そのときのようすは、次のようなものだった。

“ ふたりは太い柱をはさんで背中あわせに鎖で縛られ、そのまわりに薪が積み上げられた。リドリーの兄弟が特別に許され、ふたりの首のまわりに、火薬の入った布袋を巻きつけた 。苦痛ができるだけ長引かないようにするためだった。 ラティマーは死に直面して、「われわれは今日、神の恩寵によって、イングランドにけっして消えることのないロウソクの火を灯すことになるだろう」という言葉を残した。薪に火がつけられると、ラティマーはすぐに火に包まれ、火薬が爆発して一瞬にして最期をむかえた。 しかし、リドリーの最期は悲惨だった。火のまわりが悪かったために、かれは、火薬が爆発するまでの長いあいだ足を焼かれつづけたのである。”

“ 一方、最高位の聖職者だったトマス・クランマーは、ふたりの処刑に立ち会わされ、改宗をせまられた。 彼がそれを拒否すると、それまでは拘束されているとはいえ友人と会うことも許され、比較的自由な生活だったが、その後は、光もささない地下牢に閉じ込められるようになった。 そして、心身ともに疲れはてて朦朧としたなかで、彼は、一度はカトリックへの改宗の同意書に署名をしてしまったのである。 しかし改宗したとはいえ、かれが処刑を免れるわけではなかった。”

“ クランマーから勝利を勝ちとったカトリックは、1556年3月、処刑の前に公開の場で、彼にもう一度、改宗したことを告白させようとした。 しかしその前日に正気をとり戻したクランマーは、改宗したことを後悔し、それを取り消したのである。そしてかれの真意に反して署名した右手を呪い、火あぶりの刑に処せられたときには、炎のなかに右手をかざし、そのまま最後まで動かさなかったという。 ”

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =13=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 16世紀後半のイングランド、処女王・エリザベス1世 ◆◇

 エドワード6世のプロテスタント時代には、異端とされたカトリックが火刑になることはほとんどなかった。 それがメアリー1世の時代になると、プロテスタントの多くの司祭や信者が火刑にされるようになった。 その数は、メアリー1世が統治した1553年から1558年までの5年間で、3百人にたっしたという。 彼女が「ブラディー・メアリー/血まみれのメアリー」といわれる由縁である。 プロテスタントにたいする激しい弾圧がつづくようになると、カトリックは、イングランド人の目には非愛国的で残酷な外国の信仰と映るようになった。

 スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスは、この時代の3人のカトリックのメアリー、すなわちイングランドのメアリー1世、スコットランドのメアリー・オヴ・ギーズ、そしてその娘メアリーによる統治を、「女による奇怪な統治」と非難したという。
 カトリックの復活に燃え、意気込んでフェリッペと結婚したメアリー1世だったが、その結婚生活はうまくいかなかった。 なにしろ結婚したときの花嫁は37歳で、花婿よりも10歳も年上だった。 そのうえ、メアリーはプロテスタントにたいする憎しみを、狂ったようにたぎらせていたからである。 夫フェリッペの目には、メアリーはただの狂った老女にしか映らなかった。 そして、もともと政略結婚だったとはいえ、フェリッペはメアリーにまったく魅力を感じていなかった。

 フェリッペは、結婚後1年あまりはイングランドにいたが、その後スペインへもどり、1556年にフェリッペ2世として即位した。 かれは1年半後にふたたびイングランドへやってきたが、3カ月あまり滞在しただけで、すぐにスペインへ帰ってしまった。

 メアリー1世のプロテスタントにたいする憎しみは、異母妹のエリザベスにたいする憎しみでもあった。 エリザベスは、ヘンリー8世と2度目の王妃アン・ブリンとのあいだに生まれた子だった。 離婚を認めないカトリックにしてみれば、エリザベスは私生児だった。しかもプロテスタントだった。

 メアリー1世に子ができれば、イングランドのカトリックは安泰だった。 しかし子ができなければ、王位はプロテスタントのエリザベスに移る。 プロテスタント勢力が期待するのはそこだったが、メアリーはそれだけはなんとしても阻止したかった。

メアリー1世の結婚に反対して反乱を起こしたワイアットは、エリザベスの母親アン・ブリンのいとこだった。 そして、反乱のときにかれがエリザベスに出したという手紙が押収されていた。 そのため、エリザベスは反逆者とみなされ、「逆賊門」を通ってロンドン塔に投獄された。 この門は、反逆者が投獄されるときに通る門で、そこからロンドン塔に入った者は、生きては二度と出られない、といわれていた。

メアリーとカトリック勢力は、エリザベスが反乱に加担していたとして、彼女を反逆罪で葬り去りたかった。 しかし、エリザベスはワイアットとのかかわりを否定した。 また、彼女が関与していたことを示す決定的な証拠も、ついに出てこなかった。 結局、エリザベスを有罪とする確かな証拠がなく、彼女は2カ月後に釈放され、ウッドストックの離宮に軟禁されたのだった。 ところが、エリザベスはワイアットの反乱にまったく無関係ではなかった。 彼女は、ワイアットからきた手紙にはすべて口頭で返答し、証拠が残らないようにしていた、というのである。

 メアリー1世は、世継ぎが誕生することを切望し、夫にも何度か「懐妊した」と言っていたという。 しかし、ついに彼女に子供が生まれることはなかった。 40歳もすぎると、もはや世継ぎの誕生は絶望的になった。 そして、病におかされたメアリーは、しだいに衰弱していった。 結局、1558年11月16日、メアリーは失意のうちに枢密顧問官たちの要請を受け入れ、エリザベスへの王位継承を認めた。 そして翌17日、42歳で他界したのである。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =14=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 亡命者・スコットランド女王メアリー ◆◇

 1558年11月20日、ハットフィールド・ハウスにいたエリザベスは姉・ネアリー1世死を知る。 メアリー1世死去の証拠として彼女の婚約指輪を携えたロンドンからの使者がハットフィールドに到着したのだ。 こうして誕生したのが、エリザベス1世=処女王=だった。 カトリックを装いながらプロテスタントとして育った彼女は、イングランドを、敬愛する父ヘンリー8世のプロテスタントにもどした。 しかしエリザベスのとった宗教政策は、慎重かつ現実的で、妥協的なものだった。 彼女は、宗教に深入りすることを避け、政治的な安定をめざしたのである。

 それというのも、彼女の王権はかならずしも安泰ではなかったからである。 有力貴族のなかには、カトリックであることを公言してはばからない者もいた。 そしてカトリックにしてみれば、エリザベスは庶子であり、正統な女王としては認められなかった。 カトリックから見た正統な女王は、ヘンリー8世の姉でスコットランド王ジェイムズ4世の王妃となったマーガレット・テューダーの孫になる、カトリックのスコットランド女王メアリー・ステュアートだった。 そこでカトリック勢力は、ローマ教皇やスペインと手をむすび、反乱やエリザベス1世の暗殺を策謀したのである。

  スコットランド女王メアリー・ステュアートがイングランドに亡命してきたときのイングランドとエリザベス1世を取り巻く状況は、このようなものだった。 ところが、フランスの宮廷で世間知らずで育ったメアリーは、こうした状況も、また自分の置かれている状況もまったくわかっていなかった。 「血のつながった父の従妹なら、かならず助けてくれる」としか思っていなかった。 そして、メアリーはエリザベスに援軍をたのみ、スコットランドの反対勢力を一掃するつもりでいたのである。

 これにたいしてエリザベスは、子供のときから宗教抗争と権力闘争の渦のなかに身を置き、現実の世界というものを身をもって学んできた。 そのエリザベスのメアリーへの対応は、冷静で冷たかった。 なぜならば、メアリーはカトリックだったからである。 従兄の娘とはいえ、プロテスタントのエリザベスが、スコットランドの反メアリーの貴族たちを討つ手助けをするわけにはいかなかった。 彼等も、エリザベスと同じプロテスタントだったからである。

 メアリーがイングランドに亡命してきたころ、エリザベス1世を悩ませていたもう一つのことがあった。 後継者問題である。 エリザベスは独身をとおしたので、当然のこと、世継ぎはいなかった。 カトリックからみれば、メアリー1世のあとの正統なイングランド王は、エリザベスではなくメアリー・ステュアートだった。 そして子供のいないエリザベス1世の王位継承者は、血統から見ても当然、メアリーだった。 いずれにしても、次のイングランド王は彼女だった。

  メアリー・ステュアートが亡命してきたことで、イングランド国内のカトリック勢力は活気づいた。 しかしプロテスタント側から見れば、メアリー・ステュアートが王位につけば、ふたたびカトリックの復活だった。 そして、血生臭い宗教裁判の再開だった。

 エリザベスにしてみれば、メアリーと国内のカトリック勢力が手をむすぶと、自分の地位が危うくなる。 カトリック勢力が期待したのはそこだったし、エリザベスが警戒したものそこだった。 結局、エリザベスにとって、亡命してきたメアリーは、危険な存在であり、疫病神以外の何ものでもなかった。 だからといって、彼女をどうすればいいのか。 エリザベスは、メアリーの処遇に頭を痛めるだけで、どうにも動きがとれなかったのである。

 【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =15=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 処女王・エリザベス1世 ◆◇

 1558年11月に、ハットフィールド・ハウスでエリザベスは姉の死を知らされた。 姉とは・・・・イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた母違いの姉である。 見せかけだけの姉妹であった。 イングランドに君臨する女王であった。 前節で記述したように、イングランド国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目していた。 時に、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生した。 しかし、ワイアットの反乱は短時間の内にメアリー1世の強権で鎮圧された。

 しかしながら、反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、ロンドン塔に収監された。 当時、ロンドン塔に投獄されて生還した者は皆無で、死を宣告されたに等しい。 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えた。 召喚の理由は反乱幇助であった。 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てたことはありそうにないが、反乱者側の一部が彼女に近づいたことは知られていた。 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナール はエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官 はエリザベスを裁判にかけるべく動いたのである。 

他方、宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。 そして、1554年5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストックのブレナム宮殿 へ移され、その後 およそ1年間、幽閉状態に置かれた。 移送される彼女に対して群衆が声援を送ったと記録されている。 因みに、この年の7月10日、メアリーはスペインのフェリペ2世と結婚していた。 メアリー38歳、フェリペ27歳である。 この結婚を機に、メアリーは異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行う。 その結果、彼女は「血まみれのメアリー/ Bloody Mary」 と呼ばれるようになったのだが・・・・・。

 また、1555年4月17日、エリザベスはメアリーの出産に立ち会うために宮廷に召喚された。 当時 彼女はヘンリー8世の子供たちの宮殿として使用されていたハットフィールド・ハウスに住んでいた。 もしも、メアリー1世と彼女の生まれる子が死ねば、エリザベスは女王となる。 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。

  結局、メアリーが妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、メアリーの夫のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、この頃から彼はエリザベスと積極的に交わるようになった。 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリーよりもエリザベスが好ましいと考えていたのである。

 そして、1558年11月20日に姉・メアリー1世の死が伝えられた。 忠誠を誓うべくハットフィールドへやって来た枢密院やその他の貴族たちに対してエリザベスは所信を宣言した。 この演説は彼女がしばしば用いることになる“二つの肉体”のメタファーの最初の記録と言われるが、国王への就任宣言であった。 

≪ 我が諸侯よ、姉の死を悼み、我が身に課せられた責務に驚愕させられるのが自然の理です。 しかしながら、私は神の被造物であることを思い致し、神の定められた任命に従いましょう。 また、私は心の底から神の恩恵の助けを得ていることを望みつつ、私に委ねられた神の素晴らしい御意志の代理人たる地位をお受けします。 自然に考えれば私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます、それ故に私は貴方たち全てに私を助けるよう望みます。 そして、私の統治と貴方がたの奉仕が全能の神によき報告をなし、私たちの子孫に幾らかの慰めを残すことになるでしょう。 私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです。 ≫

 戴冠式の前日に市内を練り歩く勝利の行進) で、彼女は市民たちから心を込めて歓迎され、式辞や野外劇で迎えられた。 エリザベスの開放的で思いやりのある応対は「驚くほど心を奪われた」観衆たちから慕われた。 翌1559年1月15日、エリザベスはウェストミンスター寺院で戴冠し、カトリックのカーライル司教によって聖別された。 それから彼女は耳を聾するようなオルガンやトランペット、太鼓そして鐘の騒音の中で群衆の前にその姿を現した。 処女王・エリザベス1世の誕生である。

 因みに、エリザベス1世の治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。 数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その生涯を終える。 その理由は明らかではない。 ただ、母を亡くしたエリザベスを引き取ったトマス・シーモアが想春期を迎えようとするエリザベスに性的関係を厭わせ事件=後に彼は女王になった彼女に求婚している=の精神的な後遺症、もしくは自身が不妊体質であると知っていたのかも知れないが・・・・・・・。 

王妃メアリーとエリザベス1世 =15=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 処女王・エリザベス1世 ◆◇

 1558年11月に、ハットフィールド・ハウスでエリザベスは姉の死を知らされた。 姉とは・・・・イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた母違いの姉である。 見せかけだけの姉妹であった。 イングランドに君臨する女王であった。 前節で記述したように、イングランド国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目していた。 時に、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生した。 しかし、ワイアットの反乱は短時間の内にメアリー1世の強権で鎮圧された。

 しかしながら、反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、ロンドン塔に収監された。 当時、ロンドン塔に投獄されて生還した者は皆無で、死を宣告されたに等しい。 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えた。 召喚の理由は反乱幇助であった。 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てたことはありそうにないが、反乱者側の一部が彼女に近づいたことは知られていた。 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナール はエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官 はエリザベスを裁判にかけるべく動いたのである。 

他方、宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。 そして、1554年5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストックのブレナム宮殿 へ移され、その後 およそ1年間、幽閉状態に置かれた。 移送される彼女に対して群衆が声援を送ったと記録されている。 因みに、この年の7月10日、メアリーはスペインのフェリペ2世と結婚していた。 メアリー38歳、フェリペ27歳である。 この結婚を機に、メアリーは異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行う。 その結果、彼女は「血まみれのメアリー/ Bloody Mary」 と呼ばれるようになったのだが・・・・・。

 また、1555年4月17日、エリザベスはメアリーの出産に立ち会うために宮廷に召喚された。 当時 彼女はヘンリー8世の子供たちの宮殿として使用されていたハットフィールド・ハウスに住んでいた。 もしも、メアリー1世と彼女の生まれる子が死ねば、エリザベスは女王となる。 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。

  結局、メアリーが妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、メアリーの夫のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、この頃から彼はエリザベスと積極的に交わるようになった。 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリーよりもエリザベスが好ましいと考えていたのである。

 そして、1558年11月20日に姉・メアリー1世の死が伝えられた。 忠誠を誓うべくハットフィールドへやって来た枢密院やその他の貴族たちに対してエリザベスは所信を宣言した。 この演説は彼女がしばしば用いることになる“二つの肉体”のメタファーの最初の記録と言われるが、国王への就任宣言であった。 

≪ 我が諸侯よ、姉の死を悼み、我が身に課せられた責務に驚愕させられるのが自然の理です。 しかしながら、私は神の被造物であることを思い致し、神の定められた任命に従いましょう。 また、私は心の底から神の恩恵の助けを得ていることを望みつつ、私に委ねられた神の素晴らしい御意志の代理人たる地位をお受けします。 自然に考えれば私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます、それ故に私は貴方たち全てに私を助けるよう望みます。 そして、私の統治と貴方がたの奉仕が全能の神によき報告をなし、私たちの子孫に幾らかの慰めを残すことになるでしょう。 私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです。 ≫

 戴冠式の前日に市内を練り歩く勝利の行進) で、彼女は市民たちから心を込めて歓迎され、式辞や野外劇で迎えられた。 エリザベスの開放的で思いやりのある応対は「驚くほど心を奪われた」観衆たちから慕われた。 翌1559年1月15日、エリザベスはウェストミンスター寺院で戴冠し、カトリックのカーライル司教によって聖別された。 それから彼女は耳を聾するようなオルガンやトランペット、太鼓そして鐘の騒音の中で群衆の前にその姿を現した。 処女王・エリザベス1世の誕生である。

 因みに、エリザベス1世の治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。 数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その生涯を終える。 その理由は明らかではない。 ただ、母を亡くしたエリザベスを引き取ったトマス・シーモアが想春期を迎えようとするエリザベスに性的関係を厭わせ事件=後に彼は女王になった彼女に求婚している=の精神的な後遺症、もしくは自身が不妊体質であると知っていたのかも知れないが・・・・・・・。 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 


王妃メアリーとエリザベス1世 =16=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ エリザベス1世の治世 ◆◇

 エリザベス1世が即位した後、結婚に踏み込まず処女王と呼ばれることに甘んじたのは、少女期から運命に翻弄されたて形成されたエリザベスの慎重な性格に追うところが多いのではないか。 統治のための男性の助けを必要とせず、いや 退けた感がある。 また、姉のメアリーに起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあったが、未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも斬首されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。

 一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあったのだが。 彼女は50歳になるまで、幾人かの求婚者に対して考慮し、最後の求婚者は22歳年下のアンジュー公フランソワである。

 また、彼女の宗教政策は現実主義であった。 大きな理由の一つとして彼女自身の嫡出性の問題があった。プロテスタントおよびカトリックの法に基づけば彼女は厳密には庶子であったが、イングランド国教会派(英国王を最高位の指導者とするがカトリック的な宗教的信条を保持する人々)によって遡及して庶子であると宣言される危険性はローマ派に比べれば深刻な問題ではなかった。 彼女にとって恐らく最も危惧することは、イングランド国教会派の支持を失い嫡出性を否定されることであった。 この理由で、エリザベスがたとえ名目上だけでもプロテスタント主義を受け入れることについて、真剣な疑いは持たれなかった。

 エリザベスの最初の対スコットランド政策は駐留フランス軍への対抗であった。 彼女はフランスがイングランドへ侵攻し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に据えようと企てることを恐れていた。 エリザベスはスコットランド・プロテスタントの反乱を援助するようバーリー卿らから説得され、女王自身は消極的だったが、1559年末に出兵を認めた。 イングランド軍はリース城を落とせず苦戦したが、1560年に和議が成立し、フランスの脅威を北方から除くことに西航している。 しかし、スコットランド王・メアリーは条約の批准を拒否している。 そして、1560年末にフランス王フランソワ2世が死去し、メアリーは帰国することになった。 翌1561年に彼女がスコットランドへ帰国した時、国内にはプロテスタントの教会が設立され、エリザベスに支援されたプロテスタント貴族によって国政が運営されていたのである。 

 1563年、エリザベスは彼女自身の愛人ロバート・ダドリーを、本人の意思を確かめることなく、メアリーの夫に提案した。 この縁談はメアリー、ダドリーともに熱心にはならず、1565年にメアリーは自身と同じくマーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持つ従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚した。 この結婚はメアリーの没落をもたらす一連の失策の端緒となったことは前節で触れている。

メアリーとダーンリー卿はすぐに不仲になる。 そして、ダーンリー卿がメアリーの愛人と疑ったイタリア人秘書ダヴィッド・リッツィオが惨殺されると、彼はその関与を疑われ、スコットランド国内において急速に不人気になった。 しかし、 1566年6月19日、メアリーは王子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ6世/イングランド王ジェームズ1世)を出産。 翌年の2月10日、ダーンリー卿が病気療養していた屋敷が爆破されて彼の絞殺死体が発見され、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが強く疑われた。 それからほどない5月15日に、メアリーはボスウェル伯と結婚し、彼女自身が夫殺しに関わっていたとの疑惑を呼び起こしたのであった。

これらの出来事はメアリーの急速な失脚とリーヴン湖城への幽閉という事態を招く。 スコットランド貴族は彼女に退位とジェームズ王子への譲位を強いた。 そして、ジェームズはプロテスタントとして育てるためにスターリング城へ移された。 1568年、メアリーは脱出不可能と言われているリーヴン湖城 から逃亡したが、戦いに敗れ、国境を越えてイングランドへ亡命した。 当初、エリザベスはメアリーを復位させようと考えたが、結局、彼女と枢密院は安全策を選ぶ。 イングランド軍とともにメアリーをスコットランドへ帰国させる、もしくはフランスやイングランド内のカトリック敵対勢力の手に渡す危険を冒すより、エリザベス1世とイングランド枢密院は彼女をイングランドに抑留することにし、亡命したメアリー・ステュアート女王はこの地で19年間幽閉されることになる。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =17=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 俘虜の旅路・メアリー ◆◇

 1568年5月、エリザベスに援軍を期待してスコットランドを脱出してきたメアリーだったが、そのままイングランドに留め置かれることになった。 カーライル城は、メアリーの、イングランドでの最初の監獄となった。 しかしそこはスコットランドに近く、メアリー支持者が彼女を奪還しにくる恐れがあった。 だが、そのようなことがもしあれば、イングランドとスコットランドの関係はますます複雑になる。 そこで2カ月ほどすると、メアリーはひとまず、ヨークシャーのボルトン城に移送された。

 メアリーはそこに半年間あまり幽閉されたあと、彼女の監視役となった6代シュルーズべりー伯ジョージ・トールバットの領地へと送られていった。 そして、タツベリー、チャッツワース、シェフィールド城、シェフィールド・マナー、バックストン、ウィングフィールド・マナー、ワークソプ・マナー、コヴェントリー、チャートリーと、伯爵領内の城や館を転々とさせられたのである。 もっとも長く幽閉されていたところはシェフィールド城で、彼女はそこで14年間ないし15年間の囚われの身の生活を送ったという。

 イングランドに亡命してみれば、メアリーを待っていたのは、囚われの身の生活だった。 しかしそれでも初めのころは、彼女はまだエリザベスに期待するものがあった。 血がつながっているふたりが会えば、かならず親しくなれる、と信じていたのである。 ところがエリザベスは、メアリーと会うことを拒否しつづけた。 なぜならば、メアリーには夫殺しの疑いも取りざたされていたからである。

 エリザベスは、恋人を作っても、イングランドと結婚したと宣言して独身をとおしてきた。 その彼女は、メアリーの夫殺しの疑いに、嫌悪感をもっていたのである。 エリザベスは、「真相が明らかにされないうちは、メアリーには会いたくない」とも言ったという。 それともう一つ、彼女がメアリーに会いたくない理由があった。 人づてに聞く9歳年下のメアリーは、背が高く、燃えるような美しい赤毛をしているという。 そして、フランスの宮廷で育てられた彼女の身のこなし方は、まわりの者を圧倒するほど洗練されているという話だった。

 それにひきかえてエリザベスは、偉大な国王ヘンリー8世を父にもちながら、私生児と罵られて育ってきた。 何度も権力闘争や宗教抗争に巻き込まれてきた。 身の危険さえ感じることもあった。 彼女が自分を守るために自然と身につけてきた方法は、たとえ味方だと思っても絶対に本心をあかさないこと、まわりのおだてや誘いにのらないことだった。 それは、若い娘のとる態度や愛嬌とは、ほど遠いものだった。

 エリザベスも美しい金髪をしていて、子供のころはそれが自慢だった。 しかし、三十も半ばを過ぎたいまは、痩せぎすで女性としての魅力に自信がもてなかった。 そんな女ごころも、エリザベスにメアリーと会うことをためらわせていたのである。 

 国内のプロテスタント勢力は、カトリック勢力が「メアリーをイングランド女王に」と、いつ担ぎだすかわからないと、エリザベスに彼女を処刑するように迫った。 しかし、メアリーの処遇と運命については、ヨーロッパ中のカトリック勢力が注目していた。廃位されたとはいえ、スコットランド女王にしてイングランド王位の継承者、母方はフランスの大貴族、そしてカトリック。 メアリーのうしろには、ローマ教皇とカトリックの大国であるフランスとスペインが控えていた。

 それでなくともフランスとスペインは、プロテスタントのエリザベスを追い落とし、そのあとにメアリーを据え、あわよくばイングランドを属国化すべく、互いに牽制しながら、虎視眈々と狙っていた。 イングランド国内でも、エリザベス体制を転覆すべく、カトリック勢力の陰謀が渦を巻いていた。 海外からは過激なイエズス会の僧侶が潜入し、反プロテスタント活動を扇動していた。 彼等は、カトリックの地方領主がマナー・ハウスのなかに作った隠し部屋――僧侶の穴――にかくまわれながら、地下活動をつづけていた。

 メアリーはしだいに、亡命したころには思いもつかなかったような、陰謀の渦に巻き込まれていったのである。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =18=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ① ◆◇

 1569年、カトリックの信仰が根強かったイングランド北部で、7代ノーサンバランド伯トマス・パーシーや6代ウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィルが中心となった反乱があった。 この反乱は、エリザベス体制をささえるプロテスタントの新勢力に反発して起こされたもので、「北部の反乱」または「諸伯の反乱」と呼ばれている。
 これにつづいて翌年には、デイカー家の起こした反乱もあった。

 「北部の反乱」は、エリザベス体制をささえ、彼女の忠実な側近で首席枢密顧問官にして国務大臣だったサー・ウィリアム・セシル――のちのバーリー卿――のやり方に反発し、かれとその仲間を追い落とそうとした陰謀に端を発したものだった。 この陰謀を見抜いたのは、なんとエリザベス自身だったというが、これには、プロテスタントでエリザベスの寵愛をうけていたレスター伯ロバート・ダドリーも加担していたという。
 陰謀のにおいを嗅ぎとったエリザベスは、これにかかわっているとにらんだカトリックの大物貴族である4代ノーフォーク公トマス・ハワードを呼び出して問いつめた。 すると彼は、これをあっさりと認め、自領にもどって蟄居してしまった。

 次にエリザベスは、北部の所領にいたノーサンバランド伯とウェストモーランド伯を召喚して問いただそうとした。ところがかれらは、これに武装蜂起で応えたのである。 こうして起こったのが、「北部の反乱」だった。 反乱軍は、スコットランド女王メアリーをイングランド女王にしようと、イングランド北東部のダラムを拠点にして気勢をあげた。 しかし、かれらはメアリーの救出に失敗し、さらに反乱も期待したほどには広がりを見せず、失敗に終わった。 そして、反乱の首謀者らはスコットランドに逃亡したが、かれらに追随した者が6百人も逮捕され、皆、絞首刑にされたのである。

 話はわき道にそれるが、イングランド北東部に勢力をもっていたノーサンバランド伯パーシー家は、この時代は悲運つづきだった。 6代伯ヘンリーの年長の弟トマスは、ヘンリー8世の宗教改革に反対し、1536年の反乱「恩寵の巡礼」に加わり、1537年に処刑されていた。 7代伯トマスは、6代伯の甥だったが、ここに記した「北部の反乱」に失敗し、スコットランドに逃亡したあと、1572年にイングランドに引き渡され、ヨークで処刑されてしまった。 その弟で8代伯となったヘンリーは、スコットランド女王メアリーに通じていたとして、1571年と1583年の2度にわたって逮捕され、85年にロンドン塔で獄死した。 彼の死は、自殺だったとも他殺だったともいわれている。
 そしてその息子9代伯ヘンリーは、1605年のガイ・フォークスの「火薬陰謀事件」にかかわったとして、16年間近くもロンドン塔に監禁されたのだった。 それでいてパーシー家は、現在もつづく名門貴族なのである。


 話をもとにもどすと、4代ノーフォーク公は、イングランドの筆頭公爵でありながら、カトリックであることを公言してはばからず、反乱を起こした北部のカトリック貴族たちとも通じていた。 ハワード家は、姻戚関係でジョン王、エドワード3世、エドワード1世につながるイングランド随一の名門貴族だった。野心的で権力志向がつよく、これまでにも問題を起こしてきた家系である。

 ヘンリー8世の時代には、4代ノーフォーク公の父サリー伯ヘンリー・ハワードが、反逆罪で処刑されていた。その後、祖父の3代ノーフォーク公トマス・ハワードも、反逆罪を問われて処刑を待つ身だった。 しかしその前日にヘンリー8世が他界したことで、刑の執行が停止され、命拾いをしていた。 エリザベス1世の祖母エリザベスは、3代ノーフォーク公トマス・ハワードの妹で、4代ノーフォーク公とエリザベス1世は、又従兄妹の関係にあった。 野心的だった4代ノーフォーク公は、この関係を利用して以前から王室の問題に介入し、エリザベス後の王位にメアリーを据えることや、さらには彼女と結婚することまで目論んでいた。


【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =19=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ② ◆◇

  このころローマ教皇は、スコットランド女王メアリー・スチュアートとボスウェル伯ジェイムズ・ヘバーンとの離婚を認めていた。 裏でそれを働きかけていたのは、メアリーと結婚したがっていたノーフォーク公だったと言われている。 彼とローマの利害は一致していた。 ローマはローマで、メアリーとノーフォーク公を結婚させ、エリザベス1世を排除したあとにメアリーを女王とし、イングランドにカトリックを復活させる――という筋書きを書いていたのである。

 ところが、イングランド第一の名門貴族のおごりもあったのか、4代ノーフォーク公の大胆な目論見は、エリザベス1世の忠実な側近サー・ウィリアム・セシルの知るところとなり、彼女の耳にも入ってしまった。 ノーフォーク公は女王に呼び出されて詰問され、「そのような行為は反逆罪に問われる」と厳重な警告をうけた。 すると彼は、「そのようなことは考えたこともない」とその場を言い繕い、さらにそのあと、エリザベスに「メアリーとの結婚はあきらめた」などと偽りの手紙を書き送っていた。 しかしその裏では、着々と陰謀の準備を進めていた。

 その大胆不敵な行動は、ふたたびセシルの知るところとなり、1569年、ついにかれは反逆罪の疑いで逮捕されるのだった。 しかしこのときは、証拠不十分で、処罰されるまでにはいたらなかった。 一度は逮捕されたノーフォーク公だったが、かれはそれで簡単にあきらめるような男ではなかった。 彼は、メアリーと結婚し、彼女をイングランド女王に据えたあとには、いずれは自分が国王になる気でいた、とも言われている。 すぐにメアリーは反乱の焦点となった。 “北部諸侯の反乱”の首謀者たちは彼女の解放とノーフォーク公トマス・ハワードとの婚姻を策動した。 反乱は鎮圧され、エリザベスはノーフォーク公を断頭台へ送った。

 この経緯を窺えば、当時の政局で蠢く貴族たちの姿が浮かび上がる。 1568年5月にカトリックのスコットランド前女王メアリー(プロテスタント貴族たちに王位を追われていた)がスコットランドを脱出してイングランドへ亡命し、エリザベスに援助を乞うたが、そのままイングランドで軟禁状態に置かれていた。 また同年12月にはネーデルランドでプロテスタント反乱の鎮圧に当たるアルバ公への軍資金を乗せたスペイン船がイングランドに漂着するも拿捕される事件があった。

 こうした政治情勢から宮廷内ではレスター伯爵を中心に宰相ウィリアム・セシルを排除しようという動きが活発化し、また第7代ノーサンバーランド伯爵や第6代ウェストモアランド伯爵らカトリック北部諸侯の間ではメアリーをイングランド王位に付ける計画が推進されるようになった。 メアリーもその計画に前向きであり、彼女は自分とノーフォーク公の結婚計画を積極的に推進し、北部諸侯=彼らは結婚計画にはあまり乗り気ではなかった=の同意を得た。

 ノーフォーク公爵は自分はカトリックではないと主張していたが、最終的にはメアリーと結婚する決意を固めた。ただしノーフォーク公にとってこの結婚計画は大逆のためではなくイングランドの国益を考えてのことであった。 エリザベスがメアリーをスコットランド女王に復位させた時、イングランド貴族が夫になっている方がスコットランドとイングランドの関係が好転させやすいし、またメアリーをカトリックの陰謀から引き離すことができるからである。 しかしエリザベスがそのように捉える保証はなく、エリザベスが自分への大逆罪と認定した場合はノーフォーク公以下推進者は全員処刑されてしまうので、ノーフォーク公にとってもこの計画は博打だった。

 エリザベス女王にいつ、どのような形で結婚計画を上奏するか思案しているうちに噂が宮廷中に広まり、1569年9月頃には宮廷内の緊張が高まった。 計画から手を引いたレスター伯爵の告白を聞いた女王は「ノーフォーク公爵とメアリーが結婚すれば、私は4か月以内にロンドン塔送りとなるであろう」と激怒した。 女王の召還を受けたノーフォーク公は、やむなく計画の一部始終を女王に上奏したが、女王から凄まじい叱責を受けた。 これにより宮廷に居づらくなったノーフォーク公は1569年9月16日に女王の許可を得ることなく独断で宮廷を退去し、ロンドンの屋敷に引きこもり、病気を理由にして参内を拒否するようになった。

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =20=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ③ ◆◇

 1569年9月23日にノーフォーク公がノーフォークの居城ケニングホールへ移ったことで、エリザベス女王は反乱準備と疑い、防衛向きのウインザー城へ移った。 しかしノーフォーク公に反乱の意思はなく、彼はウェストモアランド伯爵に使者を送って反乱を思いとどまるよう説得にあたっていた。 もともと結婚計画に関心がなかったカトリック北部諸侯はこれを無視し、11月にも「北部諸侯の乱」を起こしたが、急造の烏合の衆だったので政府軍がやってくる前に解散してしまい、蜂起は失敗に終わった。

 一方ノーフォーク公の方は9月30日にウィンザー城へ向かい、女王の慈悲を乞おうとしたが、逮捕されてロンドンの屋敷で謹慎処分となった。 12月には北部諸侯と自分が無関係である旨の誓約書を書いたが、結局1570年1月にロンドン塔に投獄される。 エリザベス女王はノーフォーク公爵を処刑すると鼻息を荒くしたが、宰相のウィリアム・セシルからメアリーとの結婚を計画しただけで処刑にはできないと説得された。 

 エリザベス女王の怒りが収まらぬ状況下の1570年6月、ノーフォーク公爵は今後二度とメアリーに近づかないという誓約書を書き、8月に至ってロンドン塔から釈放され、ロンドンの屋敷で謹慎生活に入った。 しかし この後もノーフォーク公爵はメアリーとの接触を続けた。

 他方、カトリック教会において北部諸侯の乱鎮圧に激怒したローマ教皇は1570年2月にエリザベス女王を「王位僭称者、悪魔の召使」と認定し破門した。 そして、1571年1月には教皇に忠実なフィレンツェのの銀行家ロベルト・ディ・リドルフィがイングランドへやって来てメアリーと接触した。 メアリーはリドルフィを仲介役にスペイン王やローマ教皇の援助を取り付けて、自分が王位に就くことを期待するようになり、ノーフォーク公にもその計画を伝えた。

 リドルフィは3月にもノーフォーク公の下を訪れ、スペイン王やローマ教皇に援助を求める手紙を書くよう迫ったが、ノーフォーク公はこれを拒否している。 だがリドルフィは自分で手紙を書いてスペイン大使館に提出し、「ノーフォーク公は署名をしなかったが、趣旨には賛同している」旨を報告した。 そしてリドルフィはメアリーとノーフォーク公の使者としてスペインへ向かった。 リドルフィの報告を受けたスペイン王フェリペ2世(前節参照)もイングランド侵攻に前向きになった。

 だが、リドルフィとスペインの動きはセシルやウォルシンガムらエリザベス近臣たちに逐一掴まれていた。 彼らは関係者に対して行った拷問や通報などからノーフォーク公の関与を確信する。 そして、1571年9月7日にノーフォーク公は逮捕され、厳しい取り調べを受けた。 その中でノーフォーク公は、自分はリドルフィの活動に関与していないことを主張し続ける。 そのうえでノーフォーク公は次のような上奏文を書いて女王の慈悲を乞うた。

 “私は我が身を振り返り、素晴らしき陛下の臣下としての義務をなんと大きく逸脱したことかと恥じ入っております。陛下の御慈悲を期待したり、望む立場にないと痛感しております。私は御慈悲に値しない人間であります。しかし陛下が慈愛にあふれ哀れみ深い方であられ、御即位以来、御繁栄がいや増す治世において、御慈悲をふんだんに下されてきたのを鑑み、後悔と悲しみに満ちる胸を抱えながらも、意を決して震える手で筆を持ち、つまらぬ我が身を低くし、服従を誓います。こうする以外に私の心が安らぐ道はありません。我が罪、我が不服従をお赦しくださいますよう。聖書にはこう書かれています。扉を叩け、されば開かれん。陛下の足元に膝まづき、我が身、我が子、我が持つ全てを投げ出しひれ伏し、陛下の高貴な御慈悲におすがりいたします。”

 しかし乍ら 1572年1月15日、ノーフォーク公はウェストミンスター宮殿星室庁裁判所にかけられ、「勅許を得ずにメアリーと結婚しようとした」「外国軍を招き入れて反乱を起こそうとした」「リドルフィの陰謀に加担し、大逆者たちにお金をばらまいた」とされて大逆罪で起訴された。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =21=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ④ ◆◇

  話をノーフォーク公が立役者であったリドルフィ陰謀事件の前に戻す。 1570年、カトリック勢力は、公然とエリザベス1世の追い落としの行動にでてきた。 ローマ教皇ピウス5世は、彼女を破門し、「イングランドをカトリックの国に戻した者は、天使たちに導かれて天国に招かれるであろう」と、エリザベス1世の暗殺を煽動した。 そして、ロベルト・リドルフィというイタリア人の銀行家を中心に、エリザベスの暗殺と体制転覆の陰謀がひそかに進められたのである。

  このリドルフィという人物は、じつは、ローマ教皇のスパイだったという。 そしてフランスとスペインが、裏でかれの計画を支援していたとされている。 さらにこの計画には、またしても4代ノーフォーク公がからんでいた。
 5月、この陰謀は、エリザベスの側近のひとりで彼女の秘密警護隊長でもあったサー・フランシス・ウォルシンガムの諜報網に引っかかって発覚した。 「リドルフィ事件」と言われているものである。

  リドルフィらは、暗号で書いた手紙のやりとりで連絡をとりあっていた。 しかし、ノーフォーク公がフランスからの資金を移送しようとして失敗したことがあり、そのときに、手紙や書類などと同時に、暗号解読表も押収されていた。 その結果、一味の陰謀の全貌が明らかになったのである。  

   前節で記したように、この裁判は有罪判決ありきの「見せしめ裁判」の色が強く、公平な裁判ではなかった。 ノーフォーク公は弁護士を付けることが許されず、訴状の写しさえ見せてもらえなかった。 ノーフォーク公の有罪を立証する証人たちがつぎつぎと証言台に立ったが、突っ込んだ尋問が行われることもなかった。 ノーフォーク公は全ての起訴事実について無罪を主張したものの、結局26人の陪審員の全会一致で有罪判決を受けた。 今回は、さすがのノーフォーク公も、手紙が決定的な証拠となり、言い逃れができなかった。そして彼は、1572年6月2日、ついに反逆罪で処刑されたのである。

  エリザベス女王はノーフォーク公爵の死刑執行命令書署名に際して動揺を見せた。 1572年2月9日に死刑執行命令書に署名したが、その日の夜に取り消し、さらに署名・取り消しを三度も繰り返した。 宰相の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルフランシス・ウォルシンガムに送った手紙によれば「陛下のお気持ちは様々に揺れ動いている。 ある時は自分が危ない立場にあるという話をされて、正義は行われねばならないと結論する。しかし、別の時にはノーフォークが自分に近い血縁だの、身分がとりわけ高いだのと話される。」という状態であったという。

  しかし乍ら、この時期には議会が召集されており、ノーフォーク公とメアリーの処刑を求める意見が庶民院の大勢だった。 エリザベス女王は≪この段階では≫メアリーの処刑には応じなかったが、代わりにノーフォーク公の処刑には応じ、ついに彼の死刑執行命令書に署名した。 これによりノーフォーク公は、1572年6月2日にロンドン塔のタワー・ヒル刑場の断頭台において斬首された。 36年の生涯だった。 ノーフォーク公は最期の言葉として女王陛下への忠誠を宣言するとともに「自分は宗教という物がどんな物であるか分かっているのでカトリック教徒であったことはない」「人がこの場所で死を迎えることは好ましいことではないが、女王陛下の御代でそうなるのは自分が最初で最後になれば嬉しい」と語った。

  リドルフィ事件は、イングランドのカトリック勢力の中心にいた最大貴族の処刑という結末で終わった。 この事件以降は、イングランド国内のカトリックにたいする締め付けはいっそう強化されていった。 そして、1581年には、「反カトリック法」が成立し、イングランド人にカトリックへの改宗を勧めた司祭は死罪となり、信者には罰金が科せられるようになった。 この結果、カトリック勢力の表立った動きはしばらく鳴りをひそめたが、陰謀の動きはあとを絶たなかった。 1583年には、スペインのからんだエリザベス1世暗殺の陰謀が発覚し、翌1584年1月に、イングランド駐在スペイン大使が逃亡するという事件が起きている。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =22=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

 

◇◆ メアリーの身辺に危機が迫る ◆◇

 1570年、ローマ教皇ピウス5世は「レグナンス・イン・エクスケルシス」と呼ばれる教皇勅書を発し、「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」は異端であり、全ての彼女の臣下を忠誠の義務から解放すると宣言した。これによって、イングランドのカトリックはメアリー・ステュアートをイングランドの真の統治者と期待する更なる動機を持つようになった。

 メアリーの存在は、エリザベスとプロテスタント勢力とっては、あまりにも危険なものとなってきた。 「メアリーがいるかぎり陰謀は絶えない」と、枢密顧問官たちはエリザベスにメアリーを処刑するように迫った。 しかしエリザベス1世は、それをためらっていた。 その理由は、メアリーは廃位されたとはいえスコットランドの女王であり、外国の首長をイングランドがかってに裁いて処刑できるのか、ということだった。 それを許せば、いずれはそれがエリザベス自身にも跳ね返ってくるかもしれないからである。 

 メアリーを処刑するには、それに値するだけの理由が必要だったのである。 しかし、エリザベスが処刑をためらった最大の理由は、彼女にとってメアリーが数少ない血のつながった存在だったからだ、とも言われている。 エリザベス1世の忠実な部下で、かつ彼女の秘密警護隊長でもあったフランシス・ウォルシンガムは、警戒を怠らなかった。 彼は、カトリック勢力に手を貸していそうな貴族とメアリーの監視を強化していった。 そして、メアリーに少しでも不審な動きが見られたときには、彼女を反逆罪で裁判にかけるようにと、エリザベスを説得していた。しかしそれには、彼女が納得するだけの確かな証拠が必要だった。

 1585年になると、反カトリック法が強化され、カトリックにたいする弾圧がさらに激しくなった。 カトリックの司祭には、それだけの理由で火刑が待っていた。 また、彼等をかくまった者も反逆罪で処刑されるようになった。 そしてカトリックの信者には、多額の罰金が科せられるようになったのである。 エリザベスが統治した45年間に、イングランドに渡ったカトリックの司祭の半数以上が逮捕され、180人以上が処刑されたという。 それでも、彼女の時代に火刑に処せられたカトリックの司祭や信者の数は、年に4人程度で、5年間で3百人以上のプロテスタントを処刑したメアリー1世の時代にくらべれば、はるかにすくなかった。

 1586年7月、メアリーの運命にかかわる最大の陰謀「バビントン事件」が発覚した。 首謀者は、熱心なカトリックの家系で育ったサー・アンソニー・バビントンという、24、5歳の青年だった。 1536年から37年にかけて、ヨークシャーのカトリック勢力がヘンリー8世の宗教改革に反発して「恩寵の巡礼」とよばれる反乱を起こしたことがあったが、バビントンの曽祖父になるダーシー卿トマス・ダーシーはこの反乱に加わっていて、反乱が鎮圧されたとき、反逆罪に問われてロンドンのタワー・ヒルで斬首刑になっていた。

 バビントンの体には、先祖から受け継がれてきたカトリックの熱い血が流れていた。 彼は陽気な性格で、ロンドンでもよく知られていた好青年だったというが、胸のうちには、プロテスタントにたいする深い恨みをもっていたのである。 バビントンの背後には、スペインと通じていたジョン・バーナードというカトリックの司祭がいて、彼が陰謀の筋書きを書いていたとされている。 また、バビントンには6人の仲間がいて、1586年の3月ごろから、たがいの家に集まっては計画を練っていたという。

 その計画とは、まずエリザベス1世を暗殺し、それと同時に国内のカトリック勢力が反乱を起こし、それをスペイン軍がイングランドに侵攻して支援する、その間にメアリーを幽閉先から救出する――というものだった。
 計画を遂行するにあたっては、事前にメアリーの承諾を得ておく必要があるということになった。 そこでバビントンは、7月6日、メアリーに承諾をもとめる手紙を、いつものように暗号で書き、それをギルバート・ギフォードというカトリックの男に託した。

 ところがこのギフォードは、エリザベスのスパイ組織のリーダー・フランシス・ウォルシンガムとも通じていた二重スパイだった。

 彼は、少し前までは、カトリックの司祭になるべく、ローマの神学校にかよって勉強していた。 しかし、あまり熱心な学生ではなかった。 そのうちに、かれは自分の経歴と身分が、エリザベスにたいする陰謀の仲間に潜り込むのに格好の隠れ蓑になることに気がついた。 そうして彼は、信仰よりも、危険なスパイゲームにとりつかれてゆくようになったのである。 それだけ当時は、カトリックとプロテスタントとのあいだで、激しい諜報戦があったということなのだろう。 ギフォードは、自分の考えを試してみたかったのか、ウォルシンガムに連絡をとり、自分を売り込んでいった。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 


王妃メアリーとエリザベス1世 =23=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーの身辺に危機が迫る ◆◇

 当時のサー・フランシス・ウォルシンガムは、イングランドの諜報機関の総元締めで、いまでいえばMI5(国内防諜機関)とMI6(対外諜報機関)をたばねたような機関の長だった。 そして国内はもとより、ヨーロッパ中に諜報網を張りめぐらしていた。 残されている記録によると、かれは32カ所に情報提供者を置いていたという。
 ギルバード・ギフォードから連絡をうけたウォルシンガムは、彼をイングランドに帰国させると、ロンドンのフランス大使館と接触させることにした。

 そのころのメアリー・スチュアートは、イングランド中部のチャートリーの館に幽閉されていて、外部との接触はもちろん、手紙のやりとりも禁止されていた。 ギフォードは、カトリックの神学校にいっていた経歴を利用してフランス大使館に接触すると、そこにたまっていたメアリー宛の手紙を、極秘に彼女に届ける運び屋となった。

 ギフォードのやり方は、メアリーの幽閉されていた館に出入りするビール製造業者のビール樽の栓のなかに、皮でくるんだ手紙を隠す、というものだった。 しかしこれらの手紙の内容は、ウォルシンガムに筒抜けになっていた。 それというのも、ギフォードが、メアリーとフランスの支持者らがやりとりする手紙を、ウォルシンガムを経由して運んでいたからである。 そしてそれらの手紙から、ウォルシンガムは、サー・アンソニー・バビントンらの陰謀があることを知ったのである。

そこでウォルシンガムは、次にギフォードをバビントンと接触させた。 ギフォードは、バビントンにメアリーの手紙を見せて信用させると、彼女がフランスからの手紙でバビントンらの計画を知り、もっと詳しい話を知りたがっていると説明した。 すると気をよくしたバビントンは、さっそくメアリーに、エリザベス暗殺計画をあかす手紙を書き、それをギフォードに手渡したのである。

  バビントンとメアリーは、手紙を暗号で書いてやりとりしていたが、それらの手紙はすべてウォルシンガムのもとで写しがとられ、かれが雇い入れたトマス・フェリペスという暗号解読家のもとで解読されていた。 そしてウォルシンガムは、メアリーがエリザベスの暗殺計画にかかわっているという決定的な証拠をつかむまで、バビントンを泳がせていたのである。

 1586年7月17日、メアリーはバビントンらの計画を承認し、計画にかかわっている者たちを激励する返書を書いた。 そこには、エリザベスの暗殺と自分の救出が確実にできるのか、と確認することまで書いてあったという。
 この手紙も、ウォルシンガムのところに渡っていた。 そしてフェリペスによって、「計画に加わっている者たちの名前を知りたく思います」という文章が、メアリーの筆跡をまねて書き加えられた。 フェリペスには、筆跡偽造の才能もあったという。

ウォルシンガムは、メアリーが関与している決定的な証拠をつかんだだけでなく、バビントンから仲間の名前を引きだし、陰謀にかかわっている者、全員を一網打尽にするつもりだったのである。 メアリーからの手紙を受けとったバビントンは、そんなこととも知らず、彼女に仲間の名前を知らせる手紙を書き、計画を進めていた。
 しかし8月になると、ついにバビントンとその仲間全員に、ウォルシンガムの探索の手がのびていった。 それを察知した彼等は、一度は変装して逃亡したが、8月中旬までに、全員が逮捕されたのだった。

  8月11日、チャートリーに幽閉されていたメアリーが敷地内で乗馬を楽しんでいると、馬に乗った武装兵の一隊がやってくるのが見えた。 メアリーはてっきり、バビントンらの計画が成功し、自分を救出しにきたものだと思った。 しかし、それは彼女の勘違いだった。 やってきたのは、メアリーを逮捕するための兵士たちだったのである。 バビントンとその仲間6人は、9月20日に反逆罪で処刑された。 その方法は、中世からつづいていた「ハンギング(絞首)・ドゥローイング(内臓抜き)・アンド・クォータリング(頭部手足切断)」という、もっとも残酷なものだった。

 エリザベス暗殺の陰謀は、これまでにも何度かあった。 しかし今回は、メアリーが直接それにかかわっていたことを示す、決定的な証拠があった。 はたして、手紙はメアリー自身が書いていたのか。 最後の詰めが必要だった。 問いつめられたメアリーの秘書官は、拷問のすえに、手紙は確かにメアリー自身が書いたものであると白状した。 これには、メアリーも言い逃れることはできなかった。 そして彼女は、俘虜としての最後の地となる、ノーサンプトン州のフォザリンゲイ城へと移送されていったのである。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =23=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 二人の女王の闘い ◆◇

 1586年10月15日、フォザリンゲイ城で、スコットランド女王であったメアリー・スチュアートをイングランド女王にたいする反逆罪で裁く裁判がはじまった。 メアリーは、尋問にたいして命乞いをすることもなく、「わたしに責任はない」と毅然として答えたという。 10月25日、枢密院の裁判所――スター・チェンバー裁判所――に、枢密顧問官たちが緊急に招集された。 会議は、メアリーへの判決を下すためのものだった。

 1560年に、亡命先のフランスで結婚したフランソワ2世が16歳で病死した。 子供ができなかったメアリーは、翌年にスコットランドに帰国した。 メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とてスコットランドの王冠を頂いた。 しかし、当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックを信奉する貴族も相当数残っていた。 マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。 しかしながら、1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。 

 スコットランド領内は乱れた。 メアリー政権を担うマリ伯はイギリスに支援を求めて鎮圧に向かうが戦いに敗れ、 メアリー女王は捉えられた。 メアリーはロッホリーヴン城に軟禁され、廃位を強制される。 王位を剥奪されたロッホリーヴン城を脱失したメアリーの逃亡の生活が始まったのだった。  メアリーが、マリ伯のように再起を図るためにエリザベス1世を頼って来たのなら、まだいい。 かつての宿敵同士であろうとも、利害が一致して共同戦線を張ることなど政治の世界ではありふれている。 

 しかし、窮地に立った血縁のメアリーに対して、「生意気なスコットランド人を懲らしめるのも悪くはない」と エリザベスは思っていたのであろう。 もしメアリーが復位を図るなら、大貴族たちと結束してフランス側につくと、エリザベスを脅し、領内動乱の鎮圧に援軍を要請することもできたはずである。 しかし、君主であるにもかかわらず、女だと言う理由でメアリーに加えられた屈辱。 反乱軍に捕えられたメアリーが、晒し者のようにエジンバラを引き回され、「売女」と罵倒された事実。 女であるが故に耐えねばならなかったメアリーの悲しみを思う時、エリザベスは生理的に激しい怒りを覚えた。 エリザベス自身も即位したての頃、群臣たちの「女だか・・」という嘲笑の視線を忘れていない。

 他方、スコットランドを脱出したメアリーは、ここに来て、忘れていた怨みを~メアリーがフランスから故国へ帰るきっかけとなった先祖代々の英国への怨みを~  思い出したのである。 そしてスペイン.フランス、果ては英国内の大貴族たちにまで、自分との結婚話を餌に、エリザベスを打倒するよう手紙をばらまいていたのだ。 エリザベスの足下で・・・・・・。  以降20年、メアリーは事あるたびに、エリザベス暗殺の計画に首を突っ込んで来た。

  しかしながら、当然全部筒抜けであった。 メアリーが亡命してきた年の翌年1569年に起きた北部諸侯の乱でも、メアリーは一枚噛んでいた。 本来のエリザベスなら、ただちに抹殺していただろうが、首謀者のほとんどが大陸に亡命し、腹いせに貧しい兵士700名を虐殺しただけでメアリー自身はおとがめ無しの処理で終えている。  メアリーが血の繋がりがあるエリザベスを憎むようになったのは、理由がある。 それは長年に渡って拒否してきたエジンバラ条約の承認であった。

 =1、スコットランドの新教徒の信仰の自由を認める
 =2、ジェームス(メアリーとダーンリー卿ヘンリーとの一子)を次期英国王として、エリザベスに養育させる
 =3、エリザベスと、その正式な結婚から産まれた子が生存している間は王位を請求しないこと

メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲んだのだ。 しかし、にもかかわらず、土壇場でエリザベスはメアリーを裏切った。 というか、そうせざるおえない苦境にエリザベスは陥ったのである。 メアリーの復位に対し、スコットランドの親英国派豪族が一斉にフランスへ寝返る危険性が生じたのだ。 スコットランドの親英国派工作は、父ヘンリー8世の時代から着々と積み上げられて来た成果である。 それをメアリー1人のために崩壊させるのは、国益に反していた。 エリザベスは、1人の女としては、メアリーを哀れみつつ、1人の政治家として切り捨てざるをえなかったのである。

 そうした罪悪感もあって、エリザベスはぎりぎりまでメアリーを許して来た。 しかし、国内の政治状況が、もはやメアリーを許さなかった。 我が身に脅威を感じた英国大貴族が、エリザベス暗殺が現実になった時、自らの手でメアリーを殺すことを誓った「一致団結の誓約書」を取り交わした。 スペインの軍事的脅威も現実のものとなりつつあった。 議会は後顧の憂いを絶つために、メアリーの処刑を可決した。 再びエリザベスは、政治家として、苦渋に満ちた(おそらくその人生においてもっとも辛い)決断を下さねばならなかった。

 「メアリーをこの手で、殺さねばならない」

 考えてみれば、自分が裏切った相手が、こちらを恨んでいるという根拠で抹殺するほど卑怯なことはないだろう。 この決断を下すまで、エリザベスは1人寝室で荒れ狂い咆哮したと言う。 しかし決断した。 そこにこそ、エリザベスが不出世の政治家である理由があった。

 メアリーにも希望は残されていた。 ただ「待てば」よかったのだ。 誰の目にも、次期王位継承者はジェームス以外にいなかった。 メアリーは黙って待ちさえすれば、いつか息子が英国に来て、母を解放するはずだった。 だが、メアリーは待てなかった。


【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =25=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーの処刑 ◆◇

 1586年10月15日、フォザリンゲイ城で、スコットランド女王であったメアリー・スチュアートをイングランド女王にたいする反逆罪で裁く裁判がはじまった。 メアリーは、尋問にたいして命乞いをすることもなく、「わたしに責任はない」と毅然として答えたという。 10月25日、枢密院の裁判所――スター・チェンバー裁判所――に、枢密顧問官たちが緊急に招集された。 会議は、メアリーへの判決を下すためのものだった。

 会議の結果は、枢密院の全会一致で、メアリーを反逆罪で死刑にするというものだった。 そのときのメンバーのひとりは、メアリーを「反乱の娘、謀反の母、不信の乳母、邪悪な小間使い」と、あらんかぎりの言葉で非難したという。 あとは、エリザベスが死刑執行の令状にサインするだけだった。 しかし、彼女それに躊躇し、なかなかサインをしなかった。 一方メアリーは、「いつでもカトリックに殉教する覚悟ができている」という手紙をエリザベスに書き送ったという。
 
 1587年1月、バビントン事件から半年がたったころ、またしてもメアリーのかかわったエリザベス暗殺の陰謀が噂された。 巷では、「メアリーが脱獄し、スペイン軍がウェールズに上陸したらしい」というような、まことしやかな流言まで飛びかっていた。 枢密顧問官たちは、もうこれ以上待てなかった。 彼等は、エリザベスにサインをするように迫った。  1587年2月1日、エリザベスはついに処刑命令書にサインする。 ついにエリザベスはメアリーの死刑執行令状にサインをしたのである。 それでも彼女は、「死刑執行はしばらく待つように」と言いそえたという。

  罪人の処刑は、公開が原則だった。 しかしエリザベスは、「従兄の娘を公衆の面前で処刑した」という避難が自分に向けられるのではないかと恐れた。 死刑執行令状にサインをした自責の念もないわけではなかった。

  そこでエリザベスは、メアリーを非公開でひそかに処刑することも考えた。 しかし、メアリーの監視役で厳格なプロテスタントだったサー・エイミアス・ポーレットは、その考えをはねつけた。 それでは、カトリックと反エリザベス勢力への見せしめにはならないし、違法である、と主張したのである。 枢密院が待つのも限界に達していた。 メアリーが生きている以上、次に何がくわだてられるか、分からなかったからである。  死刑執行令状には女王のサインがある。 それで十分である。 ほかに何が必要なのか。 エリザベス女王の令状は、女王が署名したその一週間後 裁判がはじまって以来メアリーが囚われていたフォザリンゲイ城へと送られた。
 
 令状をもった使者が城に着いたのは、2月7日の夕方だった。 19年のおよぶ歳月が、メアリーからかつての美貌を奪っていた。 中年太りで崩れた体を深紅のドレスで包み、白髪を金髪のカツラで隠していた。 しかし、稀に見る往年の気品ある美しさがにじみ出ている。 そして、メアリーの処刑は翌朝8時、場所は城の大広間ときまり、すぐにその準備がはじまった。  大広間の中央には、黒い布でおおわれた処刑台がしつらえられた。 その上には、木の台が置かれた。 首をのせる断頭台だった。 そのそばには、斧も用意された。

2月8日の朝は、真冬にしてはめずらしく日が射していた。 フォザリンゲイ城の大広間には、大勢の見物人がつめかけていた。 その数は、3百人にのぼったという。 8時になったとき、役人に連れられて、黒のサテンのコートを羽織り、白の髪飾りとヴェールをつけたメアリーが現われた。 はじめて見るスコットランドの女王に、見物人たちは息をのんだという。 メアリーは、噂どおりに背がたかく、気品にみちていた。 髪の毛は、燃えるような赤毛で美しかった。

ざわめきのあと、静けさと真冬の冷たい空気が、大広間を支配した。 役人がメアリーの死刑執行令状を読みあげた。 彼女は黙ったままだった。 ピーターバラ大聖堂の首席司祭が、メアリーに彼とともに祈るようにといった。  しかしメアリーは、よくとおる声で、「古代ローマの教えカトリックに身を置いてきたわたしの血は、その教えを守るために流される」といい、プロテスタントの司祭を無視した。 それでも司祭は、彼女を説き伏せようとした。 しかし、それも無駄だった。 メアリーは、ひとり静かに祈りはじめた。

ひとしきり祈ったあと、メアリーはコートを脱ぎはじめた。 侍女たちがそれを手伝った。 下は、真っ赤なペチコートだった。 彼等の前で、メアリーは舞台に立つ女優のように軽やかに足を進めた。 メアリーは、白い布で目隠しをされた。 そこには、金糸の刺繍模様がついていた。  彼女は膝まづくと、断頭台に首をのせ、それから静かに目を閉じた。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

王妃メアリーとエリザベス1世 =26=

$
0
0

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

 メアリーの最後については、いくつかの逸話が残っている。

 斧を手にした処刑人は、緊張していた。 盗賊や極悪人の処刑には慣れていた。 いつもならば、何も感じなかった。  しかし、貴婦人の処刑は初めてだった。 それも、異端とはいえ、女王なのだ・・・・・・という。

  「いつものとおりやればいい、ひと振りで済むことだ」と、かれは自分に言い聞かせ、メアリーに許しを請うた。 それでも、動揺を抑えることはできなかった。 メアリーは、「心から許します。 あなたが私のすべての苦しみを終わらせてくれるでしょう」といい、祈りつづけた。

 処刑人は、ゆっくりと斧を振りあげると、いっきに振り下ろした。 と、そのとき、一瞬、手もとが狂った。 彼は、メアリーの頭部を体から完全に切り離すには、もう一度、斧を振り下ろさなければならなかった。 処刑人は、立会人に処刑が確実におこなわれたことを示すために、髪の毛をつかんでメアリーの頭部をもち上げようとした。 すると、頭部が抜け落ちて、下に転がった。

  彼が掴つかんだものは、かつらだった。 かつらの下から現われたメアリーの頭部は、老い白髪だった。 メアリーは、物ごころがついたころに、人質同然にフランスへ送られた。 フランス王の妃となって優雅な宮廷生活をおくっていたが、それもつかの間、若くして未亡人となった。 

  祖国スコットランドにもどってからは、貴族たちの権力闘争に翻弄されつづけた。 現実が理解できぬまま父の従妹をたよってイングランドに亡命してみれば、じつに19年におよぶ俘囚の身だった。 彼女の44年あまりの生涯のほとんどが、人質と俘囚の身だった。 メアリーの白髪の頭部は、そのすべてを語っていたのである。

 ◇◆ メアリーの最後 ◆◇

  メアリーの首が切り落とされたあとも、唇だけは、しばらくのあいだ、祈るようにかすかに動いていたという。 処刑人が記念にと、メアリーの靴下止めをむしり取ろうとしたときだった。 彼女の腰のあたりで、何かが動いた。 まわりにいた者が悲鳴をあげ、恐怖で凍りついた。 すると、メアリーのスカートの中から、子犬がでてきた。 その子犬は、メアリーのそばから離れようとせず、血の海のなか、彼女の体と頭部のあいだにうずくまったという。

 メアリーの処刑がロンドンに伝えられると、プロテスタントは教会の鐘を鳴らし、かがり火を焚いて歓声をあげた。そのなかで、ひとりエリザベスだけが不機嫌だったという。

  メアリーの遺体は、ピーターバラ大聖堂に埋葬される予定だったが、彼女が最後までカトリックでとおしたことから、教会にそれを拒否されてしまった。 そのためメアリーの遺体は、鉛の棺に密封され、フォザリンゲイ城内に安置されることになった。 教会に埋葬が許されたのは、それから半年後のことだった。

  16年後にエリザベス1世のあとを継いでイングランド国王となった、メアリーの息子ジェイムズ1世は、母の墓をイングランド王室の墓所であるウェストミンスター寺院に移した。 その場所は、エリザベスの埋葬されたところから、それほど離れていなかった。 生前、顔を合わせることのなかったエリザベスとメアリーは、ここで、初めて対面したのである。

  メアリーとエリザベス。 この二人を同一線上に並べて評価を下すのは誤りであろう。 なぜなら、二人はまるで役割が異なっていたからである。 メアリーは国母であり、象徴君主の立場にいたのに対して、エリザベスは純粋な政治家であった。 メアリーは子孫を残し、エリザベスは絶大なる政治的功績を残した。 どちらが欠けていても、その後の大英帝国の発展は無かったであろう。

追考: ジェームズ1世 (イングランド王)

1603年3月に入るとイングランド女王エリザベス1世が重体となり、イングランドの国王秘書長官英語版ロバート・セシルは女王崩御に備え、スコットランド王ジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて王位継承準備を整えた(エリザベスがジェームズへの王位継承を認めていたかどうかは不明)。3月24日にエリザベスは崩御し、ジェームズ6世が7月25日に戴冠し、同君連合でイングランド王ジェームズ1世となった[2]

これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを王冠連合 (Union of the Crowns) と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。

ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきていたため、セシルやフランシス・ベーコンを助言者として重用し続けた[3]

1604年にイングランドの国教会清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った。この中で、ジェームズ1世はカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言した。これにより、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになった。1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こった。なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズ1世の命により国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである。

ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグ1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。

エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解した。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった。

また、ジェームス1世はスコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出していた。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに関税を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。1610年ソールズベリー伯ロバート・セシルが財政再建策として大契約を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。

1622年にはホワイトホール宮殿の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。

1625年3月27日にジェームズ1世はシーアボールズ宮殿で亡くなった。

尚、先代のエリザベス1世は、倹約家であったことに加えて本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供たちがおり、宮廷経費の増大は避けられなかった。

特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部のバースへの大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、1619年に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになった。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う者までいた。

宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。

断頭台の露と消えた王妃 =01=

$
0
0

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎  “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 最も洗練された、享楽的な貴族文化の絶頂期の王妃 ◆◇

 「マリー・アントワネットについて考えるとき、首を斬られるということは、極端な悲劇的な意味をおびる。 幸運な時期における彼女の尊大な軽薄さは、事情がやむをえなくなったとき、不幸を前にした崇高な美しさと変る。 儀礼の化粧をほどこした心ほど、品の悪いものはない。 舞台が変り、喜劇が悲劇になったとき、宮廷の虚飾によって窒息させられた魂ほど、気高いものはない。」と、詩人ジャン・コクトーマリー・アントワネットの肖像を、短い言葉で的確に、描き出した。 

 続けて、「彼女の歯の浮くような名門意識が、フーキエ・タンヴィルの裁判所では、そのまま彼女の役割に天才の輝きを添える。 彼女の白くなった捲毛には、もう尊大な風は見られない。 一人の侮辱された母親が、反抗を試みるだけである。 彼女の言葉は、もう自尊心によってゆがめられることがない。 口笛で弥次られ通しのこの女優は、まことに偉大な悲劇役者となって、見物席の観衆を感動させるのだ。」

 更に、「女王の最良の肖像画は、むろん、ダヴィッドによって描かれた、荷車のなかに座って刑場に赴く彼女のそれである。 彼女はすでに死んでいる。 サン・キュロットたちが断頭台の前につれて行ったのは、彼女ではない別の女である。 羽飾りや、ビロードや、繻子や、提灯などのいっぱい入った箱の下に身をかくし、自分自身を使い果たしてしまった別の女である。」

 たしかにコクトーのいう通り、幸運な時期における誇り高い「悪女」が、心ならずも歴史の大動乱に捲きこまれ、思ってもみなかった数々の試練を受けることによって、悲劇の女主人公に転身してゆく過程は、きわめて感動的である。 平凡な人間が、運命のふるう鞭に叩かれ、歴史の悪意に翻弄されて、その運命にふさわしい大きさにまで成長してゆく過程を、このマリー・アントワネット劇ほど、みごとに示してくれるものはないであろう。

 たしかにコクトーのいう通り、幸運な時期における誇り高い「悪女」が、心ならずも歴史の大動乱に捲きこまれ、思ってもみなかった数々の試練を受けることによって、悲劇の女主人公に転身してゆく過程は、きわめて感動的である。 平凡な人間が、運命のふるう鞭に叩かれ、歴史の悪意に翻弄されて、その運命にふさわしい大きさにまで成長してゆく過程を、このマリー・アントワネット劇ほど、みごとに示してくれるものはないであろう。

 オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として、爛熟したロココ時代のフランス宮廷に輿入れした彼女は、その軽佻浮薄な精神、贅沢好き、繊細、優雅、コケットリーの誇示によって、十八世紀のロココ趣味の典型的な代表者となった。 大きな不安を目前に控えた、この十八世紀末の束のまの一時期こそ、最も洗練された、享楽的な貴族文化の絶頂期といえよう。 そして彼女の態度、容貌、生活そのものが、まさに完璧に時代の理想を反映していたのだ。

 マリー・アントワネットは自分の好みにしたがって、ヴェルサイユ庭園の片隅に、小さな独自の王国を築き上げた。これが名高いプチ・トリアノンの別荘で、フランスの趣味がかつて考案したうちでも最も魅惑的な建物の一つである。美しい女王にふさわしく、極度に線が細く、うっかりすれば崩れそうな繊細巧緻な趣きは、小さいながら、この別荘をロココ芸術の精髄たらしめている。 マリー・アントワネットはここで仮面舞踏会を催したり、芝居を演じさせたり、さては、池や小川や洞窟や、農家や羊小屋さえある牧歌的なその庭で、若い騎士たちとかくれんぼをしたり、ボール投げをしたり、ブランコ遊びをしたりして、ひたすら気ままに遊び暮らすのである。

 ヴェルサイユから馬車を駆って、お気に入りの扈従ともども、夜ごとにパリの劇場や賭博場へ出かけては、空の白むころにやっと戻ってくるようなこともしばしばであった。 衣裳やら、装身具やら、宝石やらに用いる金はおびただしく、ために借金は嵩み、賭博によって補いをつけなければならなかったのだ。 警察は王妃のサロンへは踏みこめない。 それをよいことに、王妃の仲間はいかさま賭博をしているという、不名誉な噂が巷間の話題になった。

 たえず何ものかに急《せ》きたてられるように、次々と遊びを変え、新しい流行に飛びついてゆく彼女の気違いじみた享楽癖は、いったい、どういう性格上の理由によるものだったろうか。 宗教心あつい厳格な母親からの警告を聞いて、マリー・アントワネット自身は次のように率直に答えている。すなわち、「お母さまは何をしろとおっしゃるのでしょう。 わたしは退屈するのが怖いのです。」と。

 この王妃の言葉は、十八世紀末の精神状態を見事にいいあらわしている。 崩壊一歩手前で休らった、革命前の貴族文化にとっては、すべてが充足しているという、退屈以外のいかなる精神も見出せないのである。 内面的な危機から免かれるために、ひとびとは決して終らないダンスを踊りつづけなければならなかったのである。

 それに、マリー・アントワネットの場合には、不自然な結婚生活という、特別な理由が加わっていた。 天下周知の事実であるが、彼女の夫であるルイ十六世は、一種の性的不能者で、結婚以来七年ものあいだ、その妻を処女のままに放置しておいたのである。 このことが、マリー・アントワネットの精神的成長におよぼした影響は、決して軽々に看過すべきではなかろう。

 彼女が次々と快楽を追う気まぐれな生活のうちに、怖ろしい退屈を忘れなければならなかったのも、ひとつには、むなしく刺激を受けるだけで、一度たりとも満足させられたことのない、幾年にもわたる夜のベッドの屈辱の結果であった。 最初は単に子供っぽい陽気な遊び癖であったものが、次第に物狂おしい、病的な、世界中のひとびとがスキャンダルと感じるような享楽癖と化してしまい、もうだれの忠言も、この熱病を抑えることは不可能となってしまうのである。

 

【・・・・続く・・・・前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

 

Viewing all 2019 articles
Browse latest View live