アイヌ語、八重山語、与那国語、沖縄語、国頭語、宮古語、奄美語、八丈語
ユネスコの発表によれば、これらは消滅の危機にある日本の「言語」だ
このユネスコの警鐘と連動する形で共同研究プロジェクトを立ち上げ
日本の消滅危機言語を守るリーダーを務める木部暢子
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】
(文=川端裕人/写真=藤谷清美 & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ 木部暢子(10) / 消滅危機の日本語を守る_知の学究達 ◆◇
例えば、砂漠に住む人たちの言葉を急に日本に持ってきて四季を語れといっても困るだろう。木部さんが鹿児島弁として挙げた、「よかはだもっごわすな」もまさにその類の言葉ではないかと思うのだ。
では、これからの世界で、言語というのはどのようにあるのが良いのか。言語の多様性を守ることは大切で、その上で、共通語というのは必要なのだろうか。
「先日、スウェーデンに行ってきたんですけど、みんな英語が上手で、私たちみたいなスウェーデン語がしゃべれない人がいると、途中で英語に変えるんですね。途中でフランス語に変わった人もいましたね。フランス出身の人で、彼はフランス語、英語、スウェーデン語、あとドイツ語もしゃべれるかもしれません。そんなのはあの辺では当たり前なんですよ。パッと切りかわって、全然違和感ない」
もちろん、ヨーロッパの言語は、ルーツが近いし、日本語のネイティヴが英語を習得するよりずっと簡単に互いの言葉を覚える。いや、欧州に限らず、世界では複数言語環境はわりと当たり前のようにも思う。
シンガポールに行くと、マレー語やタミル語や中国語を母語とする人たちが、英語で語り合っている。アフリカでは、きわめて多様な言語を背景に持ちつつ、英語やフランス語を共通語として使っている社会が多い。植民地支配の歴史を考えると、ちょっと複雑な気分にもなるのだが、何はともあれ、基本となる母語を持ちつつ、複数言語を使うというのは、ヒトとしてそれほど不自然なことではないのかもしれない。
とはいえ、日本語で育った者にとって、英語やフランス語や中国語や韓国語や、その他言語の習得はやはり大変! と思う人は多いだろう。
ところが木部さんは、「そんなことはない」とあっさり言うのだ。
というのも、インタビューの中で、我々は、言語と方言の垣根を、言語学的というよりも、政治的文化的な要素が強いと知ったばかりではないか。
木部さんが語ったスウェーデンの例で出てきたのは、すべて欧州言語だった。欧州内では、国境があるがために「互いに通じるのに独立言語の扱いを受ける」ことが多い。スウェーデン語はデンマーク語と通じるそうだし、スペイン語とポルトガル語もだいたい通じる。
一方、ちゃきちゃきの江戸っ子の話者と、鹿児島弁話者は、きっと互いの「母語」では話が通じないだろう。実は、日本でも、共通語、標準語という概念があって、初めて様々な地域出身者の会話が成立してきた。我々の社会は、もとから多言語状態なのだ。20世紀から21世紀にかけて、その多様性を抑圧する方向でひたすらことが進んできたという事実があるにせよ。
「──方言コスプレって言葉がありますよね。1言語(方言)だけ、あるいは共通語だけじゃもう駄目な時代で、シチュエーションによって切りかえられると、人間関係が非常にスムーズになるとか、それだけで楽しいとか。言語の引き出しが多い人は、豊富なことばの文化を持っているわけですね」
「──東京で育った人でも、メールを打つときに、例えば関西弁を使って「あほちゃうか」とかね、私も関西は住んだことないのでわからないですけれど、東京でいう「ばかじゃない」は、非常にきついのに、あほやなーとかいうと、あんまり深刻にならずにコミュニケーションが進められる」
そういえば、自分自身も、あまり深刻ぶらずに(しかし、じゅうぶん真剣に)意志表明をするときに、「……じゃけん」だとか、急に広島弁の語尾を使ったりすることがある。まったく広島に住んだことがないくせに、それがしっくりと感じられるのが不思議だ。さらに、種子島で、タネ弁をたくさん話せることが自慢である中学生の存在も、同じ方をむいた事例だと思えた。
2009年のユネスコによる危機言語の発表は、言語の多様性を守る、という、比較的斬新な(しかし言語学的には古くからある)問題意識を提示した。この件は、多少、いや、かなり政治的なものを孕みつつも、様々な言語が存在することが、我々が日々生きる社会、生活を、より豊かなものにすると、強調するメッセージであると了解したのだった。
次回は“ 秋山英久&中島智晴の知能情報学 ”に続く・・・・
■□参考資料: 「大阪弁は消滅危機言語」という意外な現実 (3/3) □■
--- 方言が消えると、何が困るのか?---
英語一元化の時代
言語の一元化は、国内だけでなく世界中で起きている。すなわち、英語一元化である。
日本では、2020年度から小学校教育に「外国語」という教科が導入されるが、外国語といいながら、じつは、英語であることは、小学校学習指導要領解説を見ても明らかである。
英語の学習自体は、国際社会で活躍する人材を育成するために必要なことであり、これに反対しているわけではない。
私が危惧しているのは、これにより、方言が衰退したのと同じことが起きるのではないか、つまり、英語を「良し」とするあまり、その対極にある日本語を「悪し」として、ひいては日本語の衰退が起きるのではないかということである。
衰退とまではいかなくても、日本語で専門的な議論が行われなくなってしまう可能性は十分ある。
学術論文から新聞の解説、学校教育で使われる教科書に至るまで、現代の日本語は、あらゆる分野において高度なレベルの議論に対応できる論理性を有している。
これは長い歴史の中で培われてきた、一つの成果なのだが、今後は、高度な議論は英語で、日常生活は日本語でという棲み分けが生じかねない。
平安時代、論理的な文書は漢文(中国語)で書かれていたので、現代では、中国語が英語に替わるだけだといえばそうなのだが、そうなれば、日本語の位置づけが大きく変わる可能性がある(このことは、すでに水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008年)が指摘している)。
ここまで言うと、「言語の多様性は必要かもしれない」と考える人が増えてくるのではないだろうか。これでやっと言語の消滅危機の問題が他人ごとではなく、自分たちの問題になったわけである。
では、言語の消滅をどうやって防いだらいいのだろうか。
ネットの普及がもたらしたこと
近年、ユネスコに指定された八つの地域では、言語の保存意識が少しずつ高まり、言語の復興活動も行われるようになってきた。
一方、それ以外の地域、特に本土各地では、方言を保存しようという気運がなかなか高まらない。むしろ、本土のほうが、方言から共通語への言語の取り替えが早く進んでしまいそうな状況である。
ただ、最近は、新しい動きも起きている。ネットの普及で一気に言語の一元化が進むと思いきや、それに反してネットでは、いろいろな言語や方言が飛び交っている。
その中には、地域の人が作った方言集や、方言で地域を紹介する動画もあれば、日常では方言を使わないような人がそれらしい方言を使うバーチャル方言(田中ゆかり『「方言コスプレ」の時代』岩波書店)もあり、いろいろなものが混在しているが、なにより、方言に対する関心度が高まったのがネットのいちばんの功績である。
これを手がかりに、地域の言語にもう少し目を向けて、自分たちの言語をみつめてみたい。折しも今年、2019年は国連が定める国際先住民言語年である。
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◆ 国際シンポジウム「国際日本研究―対話、交流、ダイナミクス」/木部暢子教授 ◆
動画のURL: https://youtu.be/rTgFV-oCbdA
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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