世界に800頭ほどしかいないマウンテンゴリラ、ルワンダ共和国には約500頭が生息
1967年にダイアン・フォッシーが設立した「カリソケ研究所」はゴリラ研究で世界的中心のひとつ
映画「愛は霧のかなたに」や、自著『霧のなかのゴリラ』で世界中で認知される
設立から約半世紀がたつ今なお、D.フォッシーの情熱が受け継がれる
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】
(文=川端裕人/写真=川端裕人 & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ カリソケ研究所(11) / マウンテンゴリラ ダイアン・フォッシーの後継者たち ◆◇
◆ 第5回 ゴリラをめぐる、ぼくの幸せな瞬間 =1/2= ◆
ぼくは結局、3日間連続で違う群れの「観光ゴリラ」を訪ねた。
本当は研究ゴリラを訪ねたかったのだが、3週間の検疫期間(入国して、なにかの病気を発症しないこと)を経ないと許可が下りない。今の生活の中でそれを実現するのは無理なので、観光ゴリラ以外の選択肢はなかった。
さて、観光ゴリラとして公開されているのは8つの群れで、1日に8人までの参加が認められている。毎日、最大で64人の観光客が山に入る。観察時間は1時間と決まっている。
3日間でぼくと同じ組になった人たちは、イギリスやオランダ、アメリカからの裕福な中高年のグループ、新婚旅行中のカップル、そして、雑誌の取材で来ている人たちなどだった。日本人もツアーとして毎年100人前後は訪れているらしい。ガイドの中には流暢に「こんにちは」「ありがとう」と話す人もいた。
ゴリラトレッキングは本当に人気があり、わざわざ来たものの参加枠が埋まっており参加できない人は多い。それどころか、オーバーブッキングで参加出来ず、泣き崩れる人すらいるという。そんなときくらい柔軟にやればと思うのだが、ルワンダの観光当局は、頑なに1群れ8人までというポリシーを守っている。
背景にあるのは、ダイアン・フォッシーから始まるゴリラ研究と保護の伝統だと聞いた。
「ダイアンのやり方は強引だという批判があったのは知っています。実際、彼女は悲劇的な最期を迎えてしまった。とても大きな喪失でした」と語ってくれたのは、首都キガリにあるRDB(ルワンダ開発評議会)の観光部門担当者。彼も「ダイアン」というファーストネームで親しみを込めて彼女を呼んだ。
「でも今も伝統は生きているんですよ。彼女が見守った群れを私達はずっと見ていますし、観光という形で、密猟よりももっと地域の人たちに利益をもたらす方法を提案してきました。ダイアンが生きていたら、きっと認めてくれるだろうと思うんです」
ちなみにRDBは、ルワンダの「開発」を取り仕切る組織であり、ゴリラ観光もこの新興国にとっては「開発」の対象だ。それが実にストイックであることに驚きを覚えた。きっとそれくらいでないと、ダイアン(と、ぼくも呼ぼう)は納得しなかったかもしれないが。
なお、ダイアンが生きていた当時と今ではかなり状況が違ってきている。
ダイアンは、地元の密猟者を積極的に批判し、罠を壊してまわった。まだ動物園からのニーズもあり、密猟ではない公式の捕獲すらもあった時代だった。その際、捕獲対象になったのは、新しい環境に慣れやすく、かわいらしいコドモや赤ちゃんのゴリラだ。そのためには、群れの大人ゴリラを全て殺さねばならないという非道ぶりも、ダイアンの怒りに拍車をかけた。
結果、地元対ダイアンというような対立の構図があったことは否めない。密猟の動機は貧困であり、密猟者だけを責めても仕方がないわけだが、ダイアンは対話・宥和(ゆうわ)よりも対決を好んだ。批判する人は当時もいた。と同時に、話し合いで解決しようにも、その間にマウンテンゴリラが絶滅しかねない状況でもあった。
一方、現在は、宥和路線が定着している。密猟よりも多くの利益を観光がたたき出すことが分かると、多くの地元民はゴリラを大切にする意識にめざめた。今ではゴリラ観光に直接かかわるガイドやトラッカーといった仕事だけでも200人以上の雇用が創出され、ホテルや旅行業者などの関連産業を含めたら、一大産業となっている。
にもかかわらず、今でも懸念要素として、地元との葛藤が残っているそうだ。
「国立公園のまわりは火山性の土壌で作物がよく育つ豊かな土地なんです。公園の境界から先は農地に囲まれています。最近はかなりゴリラが増えてきたので、農地まで出てきてしまうこともあります。それを元に戻すのも私達の仕事です。地元の人たちに利益を還元して、ゴリラとの共存を図るというのは、いまだに大きなテーマなんです」
実際、ゴリラを見るために山に入り歩く道のりの最初の30分以上は農地だ。国立公園の境界は石垣で区切られていて、そこから先、いきなり森林や草原など様々な生息環境が広がっている。石堤を境にした景観の違いは、実に対照的で印象深い。この対照が、「分断」ではなく、「共存」を意味するものであるよう願う。
・・・・・・明日に続く・・・
■□参考資料: アフリカの森でゴリラと暮らして考えた! (2/5) □
〜類人猿の視点から人類家族の起源に挑む〜霊長類学者・山極壽一 さん
僕が中高生のときはベトナム戦争や高校、大学紛争の時代だから、本を読んだり映画を観たり大学の研究会に出入りしたりしながら、「人間って何だろう?」と考えていました。それでなんとなく煮詰まって、一度リセットしようと思って京都大学(以下、京大)に入ったんです。
大学ではスキー部に入って、距離競技(クロスカントリー)をやりました。それから雪山でトレーニングをするようになったんだけど、ある日、雪の上で双眼鏡をのぞき込んでいる人に出会った。その人が、たまたま僕が所属していた理学部の先輩でね。彼は、雪山でニホンザルの観察をしていたんです。
僕は理学部だったけど、まだ2回生で専門的なことは何も知らなかったから、「理学部ってそんなこともできるんだ!」って思ってさ。それからサルに興味を持ったんです。
当時は、いろいろなことに興味があって、宇宙とか物理、自然科学も好きだったし、文学や映画、演劇の世界にも惹かれていました。でも先輩から話を聞いて、自然科学という枠からはみ出るような「自然人類学」という学問が理学部で行われていることを知った。そのときに、ニホンザルの観察を通して人間社会を外から見るというのは新しい発想だな、と思って非常に惹かれました。何より雪の上でサルを追うっておもしろそうじゃないですか。
だから、学部生のときは雪山のニホンザルを対象に卒業研究をやり、百何十頭いたサルの顔と名前を憶えて、彼らの社会を調査しました。サルの顔が夢にまで出てくるくらい(笑)。
そしてもともと持っていた、動物と話せる世界や冒険家への憧れを思い出して、これはおもしろいと、大学院で本格的に研究を始めたんです。
最初の研究対象はサルだったんですね。それがなぜゴリラに?
山極 博士課程に入ったとき、当時の僕の指導教員だった人類学者の伊谷純一郎先生に「君は体が大きいし、ゴリラをやるのにいいんじゃない?」と言われたんです(笑)。
まあ、これは先生の冗談なんだけど、僕らの研究室が行きつけの飲み屋があって、ゼミやシンポジウムでほかの大学で働いている先輩方が京大に戻ってきたときに、みんなで集まって飲みながら、リクルートが行われるんですよ。「今度、自分が隊長になってどこどこに行くから、君、一緒に来なよ」と。
そのときに、「山極はゴリラ」という流れになってね。でも、最初に話した通り、当時ゴリラを研究している日本人は誰もいなかったから、ひとりでやることになりました。
最初のフィールドワークでは、1978年にザイール(現在のコンゴ民主共和国)にあったカフジ=ビエガ国立公園でしたが、そのときもチンパンジーと似たボノボという類人猿の調査隊にくっついていって、途中からひとり分かれて調査地に行きました。
そこでヒガシローランドゴリラの調査をしたんですが、まだゴリラが十分に人間に慣れていなかったから、1980年にルワンダのカリソケ研究センターに移動して、ダイアン・フォッシーのもとでマウンテンゴリラの調査を始めた。だから、僕のフィールドワークの師匠は、ダイアン・フォッシーですね。
◆ Dian Fossey: No One Loved Gorillas More ◆
動画のURL: https://youtu.be/QO-MDI_Y92g
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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