世界に800頭ほどしかいないマウンテンゴリラ、ルワンダ共和国には約500頭が生息
1967年にダイアン・フォッシーが設立した「カリソケ研究所」はゴリラ研究で世界的中心のひとつ
映画「愛は霧のかなたに」や、自著『霧のなかのゴリラ』で世界中で認知される
設立から約半世紀がたつ今なお、D.フォッシーの情熱が受け継がれる
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】
(文=川端裕人/写真=川端裕人 & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ カリソケ研究所(01) / マウンテンゴリラ ダイアン・フォッシーの後継者たち ◆◇
◆ 第1回 マウンテンゴリラの赤ちゃんがかわいすぎる件 =1/3= ◆
ちょっとこれ反則なんじゃないですか?
と、いきなり思う。
いや、本当にカワイイのだ。ゴリラの赤ちゃんって。
この数年、野生の類人猿を見る旅をしている。
比較的フィールドが近いボルネオ島のオランウータンから始まって、西アフリカのチンパンジーも去年訪ねた。同じ類人猿の一員として(人間を類人猿に含めるのは、日本語としては矛盾しているが、彼ら彼女らを見ていると、ああ、ぼくたちは一緒だなあ、という感覚が強くなる)、赤ちゃんがそこにいるだけで胸が甘酸っぱくなる。
しかし……ゴリラの赤ちゃんは、類人猿の中でもかなり反則である。
頭でっかちな体型の具合といい(全類人猿共通だが、ゴリラはかなりその傾向が強いと思う)、くりくりした目といい(これはオランウータンの方が上かもしれない)、天然パーマの頭髪といい(他の類人猿では見たことない)、見事にツボをついたルックスなのだ。一緒にゴリラの赤ちゃんを見た人たちは、スウィート! スウィート! と連発していた。
さて、ぼくが訪ねたのは、中央アフリカの小国、ルワンダ共和国。四国の1.5倍ほどの国土に1000万人以上の人々が住まう。国土の北部のコンゴ民主共和国とウガンダ共和国の国境地帯にあるヴォルカン国立公園には、およそ500頭のマウンテンゴリラが生息している。正確には3国にまたがるヴィルンガ火山群全体での個体数なのだが、ゴリラの群れに国境はないから、厳密に「ルワンダに何頭」とはなかなか言えない。
マウンテンゴリラは、このほかに、ウガンダの別の森林に300頭あまりが生息するだけで、世界中に800頭ほどしかいない。数が少ないだけでなく、生息地が限られていること、それらが人間の生活圏と近いことなどから、絶滅を危惧されている。危機の度合いとしては、大型哺乳類の中でトップクラスと言える。
それなのに、マウンテンゴリラに会うのは「わりと簡単」なのだ。生息地に出向いて、ガイドツアーに参加すれば、ほぼ100%出会える。ゴリラは数頭から数10頭の群れで生活しているが、その中には「人付けされた群れ」(人間の存在に慣れ、近づいても逃げたりしない)がいくつもあって、そのうちの8群が「観光ゴリラ」として、観光客の訪問を受け入れている。もちろん、ルワンダの観光当局が決めている。
というわけで、ぼくはルワンダの首都キガリに飛行機で到着すると、そのまま2時間ほどのドライブで現地に入り、翌朝にはマウンテンゴリラの群れと会っていた。スサ・グループと呼ばれる35頭からなる大きな群れで、双子の赤ちゃんがいるのと、3500メートル近いかなりの高度のところを遊動することで知られている。
そして、最初にぼくを出迎えてくれたのが、その双子ちゃんたちだったのだ。
・・・・・・明日に続く・・・
■□ 参考資料: ダイアン・フォッシー/Dian Fossey, 概論 (1/3) □■
ダイアン・フォッシー(Dian Fossey, 1932年1月16日 - 1985年12月26日)は、アメリカの霊長類学者、動物学者、動物行動学者、生物学者。 チンパンジーを研究したジェーン・グドールやオランウータンを研究したビルーテ・ガルディカスと並んで著名な霊長類学者の3人のうちに数えられる。
ルワンダの森林(火山国立公園)にて古生物学者のルイス・リーキーと共に18年間にも及ぶマウンテンゴリラの生態系の調査を行ったが、1985年12月、何者かによって殺害された。 事件は未解決となっている。 フォッシーが1983年に出版した著書、『霧のなかのゴリラ―マウンテンゴリラとの13年』には、マウンテンゴリラ研究と彼女自身の人生が語られている。 本書は1988年に、シガニー・ウィーバー主演で映画化された。
出生 :
ダイアン・フォッシーは1932年カリフォルニア州サンフランシスコに生まれた。 父親は保険販売員のジョージ・フォッシーであり、母親は雑誌のモデルをしていたキャスリーンである。 両親はフォッシーが3歳のころ離婚し、5歳のころ母親は金持ちの建築士リチャード・プライスと再婚した。 義父はダイアンを自分の子としては扱わず、おなじ食卓につくこともなかった。 義父に愛されないフォッシーは動物に関心を向け、最初に金魚を飼った後も、生涯を通じて動物に愛情を注いだ。 6歳で乗馬をはじめ、馬術を習得した。
教育 :
フォッシーはカリフォルニア州サンフランシスコにあるローウェル高校を卒業後、義父の勧めでマリンカレッジでビジネスを学んでいたが、動物に対する情熱を抑えることができず、義父の意図に反して獣医になるためにカリフォルニア大学デービス校に入学し獣医学を専攻した。 義父の意思に背いたためにフォッシーは経済的な援助を失った。 在学中はディスカウントストアで事務員をしたり、工場では機械運転者として働き生活を支えた。
山極壽一京大学長の哲学一端を小生が別紙ブログ【“地球永住・山極壽一/ 11” 知的冒険 :
https://thubokou.wordpress.com/2020/04/28/ 】に記載。ご訪問下されば幸甚
しかし化学と物理学が苦手で落第してしまい進級ができなかったので、作業療法を学ぶためサンノゼ州立大学に転校し、1954年に学士号を取得した。 カリフォルニア州の数々の病院で働きながら、馬術士としての腕も磨いた。 馬術の縁でケンタッキー州に移り、ルイヴィルにあるコサイア障害児病院で勤務した。 内気で人付き合いの苦手なフォッシーであったが、子供たちとは上手く付き合うことが出来た。
農場を経営する同僚マリー・ホワイト・ヘンリーの家族の家に同居し、日常的に家畜の世話をする生活を送り、それまでの人生に欠けていた家族の温かみに触れた。 1963年に休暇でアフリカに旅行した。 1966年にはルイス・リーキーからマウンテンゴリラ研究の資金を約束されて仕事を辞めた。
アフリカへの興味 :
フォッシーは、医者のマイケル・J・ヘンリーの妻でコサイア障害児病院の同僚のマリー・ホワイト・ヘンリーと友達になり、二人からアフリカへの旅行に誘われたが、経済的な理由で辞退した。 だが年収とほぼ同額の8千ドルの借金をして1963年アフリカへ7週間の旅行に出た。 ケニアのナイロビで、Treetops Hotelを所有する俳優のウィリアム・ホールデンからガイドのジョン・アレキサンダーを紹介され、ケニア、タンザニア、コンゴ、そしてローデシアを旅した。
タンザニアのオルドヴァイでヒト科の動物の化石の発掘地帯を調査していたルイス・リーキーと妻で建築学者のマリー・リーキーに出会った。 ルイスはフォッシーに、ジョージ・シャラーによって開拓された長期間にわたる大型類人猿の調査の重要性、そしてジェーン・グドールの業績について話した。 リーキー夫妻と別れた後、フォッシーはウガンダ滞在中に初めて野生のマウンテンゴリラと出会った。 帰国後、フォッシーはマウンテンゴリラに関する論文を雑誌に掲載した。 ・・・・・・明日に続く
◆ Mountain Gorillas' Survival: Dian Fossey’s Legacy Lives On ◆
動画のURL: https://youtu.be/CWnk6PTsZNo
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
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