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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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めくるめく知のフロンティア・学究達 =123= / 堀信 行(10/11)

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『ナショナル ジオグラフィック』は直訳すれば「米国地理学雑誌」か

それなのに、ちっとも地理学誌らしくない記事を掲載 でも、そもそも地理学ってなんだろう

そんな疑問をたずさえて、世界で活躍する地理学研究者であると同時に

“ナショジオ”全巻の蔵書を誇り “ナショジオ”にまつわる展示会まで開催した堀信行

【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】

(文=川端裕人/写真=的野弘路、堀信行 & イラスト・史料編纂=涯 如水)

◇◆ 堀 信行(08) : 第四回 すべては地理学だった =2/3= ◆◇

   同じ場所に違う文化を持つ人が住んだら、きっと違う景観・自然を創り出す。そういった認識がある一方で、まわりまわって、土地との関係において、かなり似た概念を育んでいくというのは実に面白い。

 この時の調査は、地理学というよりも、むしろ民族学系の研究として(もちろん堀さんとしては「地理学」であるが)、「ヌバ山地に谺(こだま)するカミと人との交流」(『季刊民族学』)というタイトルで発表された。地球上のサンゴ礁地形の総合的説明や、アフリカのみならず地球上にあまたあるラテライト土壌の成因などを解き明かした時期から、ずいぶん遠くに来た感がある。

 とはいえ、「人間から自然を見る」という堀さんの最近の視点は、サンゴ礁研究にもフィードバックされ、サンゴ礁の島々の人々の視点で自然を語る論考も同時にものしている。堀さんが考える「地理学」の円環が閉じた、ともいえるだろう。

 以上のような、個人的な研究史に耳を傾けつつ、ぼくの頭の中によぎったのは、堀さんが図書館で行っている企画展「ナショジオの世界 120年の軌跡」のことだ。 ナショジオがなぜ、米国地理学雑誌なのか。 そもそも、地理学とは何なのか。

 二つの疑問を抱いて、堀さんの話を聞き始めたわけだが、ここにきて堀さんの研究史とナショジオが二つの意味でリンクして感じられるようになった。

「それって、つまり──」ぼくは堀さんに問いかけた。
「先生が研究をしていく中でどんどんナショジオ化したっていうふうにぼくには見えます。それと、ナショジオの方も、あれはあれで地理学なんだ、ってことになりません?」

 堀さんは、笑いつつうなずいた。

 堀さんのヌバでの研究は、そのままナショジオに掲載されてもおかしくない。実際、『ナショナルジオグラフィック』本誌でも、ヌバが記事になったことがある。これを読むと、「日本から見た地理」である堀さんと視点がはっきり違うのが面白い。

 とにかく、ナショジオが、地理、地形、地図といった、ジオグラフィという言葉から直接想起させるものをはるかに超えて、地面の上のこと(いや、空や宇宙のことも)に網羅的に関心を持つのも、堀さんの研究史を聞いた後ではすとんと腑に落ちるのだった。

 堀さんは言う。

「ナショジオは、地球上の諸現象の、地表で起きる諸現象のトータルな世界を全部扱おうという意欲にあふれてますよ。個々の写真家やライターが地理学のためにやってるとは、とても思えないですが、結果として、そうなっている。その中身がそのまんま私の認識している地理学と言いたいわけですね」

 結局、ナショジオの、ジオグラフィという看板は、偽りあるようで、偽りなかった、という結論になりそうだ。 そして、もう一点、堀さんは、ぼくには重要と思える視点を付け加えた。

「その場所で、だれかが生き続けてること自体が、魅力的なわけですね。場所を場所たらしめてるわけです。わたしたちはそれをフィールドワークしに行くわけです。生きてる個々の人はもう、おらがため、おらが人生のために、おらが場所で生き続ける。それが地と人間の関係の学としての地理学の世界の厚みを増していくことだと思うんです」

・・・・・・明日に続く・・・

■□参考資料: “地理学”の歴史俯瞰 (2/3) □■

この時代(古代ローマ時代)の地理学は、ストラボンプトレマイオスに代表される。古代ローマ時代は古代ギリシアと比べ、より正確にかつ科学的に地理学を研究する姿勢が見られるようになる。ストラボンは『地理誌』を示し、民族の移動と社会制度に関する記述を残し、プトレマイオスは『地理学』で、当時の数学と天文学の成果を最大限に生かして、各地の地理的な位置を正確に把握した。彼らの残した業績は、その後中世まで影響を及ぼすことになった。

中世ヨーロッパは学問の面で暗黒の時代であったと現代ではみなされがちで、古代ギリシア人たちの地球球体説が忘れ去られて地球平面説に基づいたTO図が描かれもしたが、実際には西欧中世においても引き続き地球球体説が知識人たちにとっては常識であった。中世で見るべき業績を残したのは、多くの科学と同じようにキリスト教、ヨーロッパ文明下ではなく、イスラーム文明下においてである。

イスラーム圏では、イブン=バットゥータのような大旅行家が現れ、東部アフリカからロシア南部、さらには中国まで世界観が拡大した。彼らイスラームの学者の残した客観的な世界の記述は、その後キリスト教文化圏にももたらされたが、これらの時代の地理学的な業績は歴史や社会制度といった地誌の記述の拡大であり、自然科学に依拠した一般地理の拡大はなかった。この一般地理の拡大は、その後のルネサンスまで待たねばならなかった。

ルネサンスの前にヴェネチアの大旅行家、マルコ・ポーロにも触れなくてはならない。マルコ・ポーロはアジアの各地を歴訪し、王朝に長らく仕えて「世界の記述」を残したといわれる。この著作は、ヨーロッパ人にそれまであまり知られていなかったアジアに対する見方を一変させ、彼らの描く地図にも進歩が認められるようになった。ただ学問への理論的な寄与は少なく、地理学的には、マルコ・ポーロは、ヨーロッパ人の世界観の拡大という業績しか残せていない。

地理上の発見がなされた大航海時代に、ヨーロッパ人は大幅な地理的な知識は得たものの、それを学問上で後押しするだけの科学技術は後の17・18世紀まで待たねばならなかった。17世紀以降、自然科学はかつてないほど著しく発展していった。当時のコスモグラフィー的な著作は、単なる地誌の記述に終わっており、さら地表の現象における神の摂理について記述するなど、科学的なスタンスからはかけ離れていったことも相まって徐々に姿を消した。

科学が発展してきた17世紀以降、地表の気象や地形などの多様な自然現象は決して個々の独立した現象ではなく体系的に解明・理解され得るものであり、地理学はこうした科学的な解明を行う学問を目指すべきだという考え方がなされるようになった。

その代表格は、オランダ人のワレニウスである。彼の著作『一般地理学』は、こうした理念の下、地理学の下に海洋学、気候学などを位置づけることを想定していた。こうして古代より停滞していた一般地理学の理論構築が再び模索されるようになった。しかしワレニウスの没後、彼の考えを受け継ぐものが現れず、地理学は再び停滞した。  ・・・・・・明日に続く

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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