『ナショナル ジオグラフィック』は直訳すれば「米国地理学雑誌」か
それなのに、ちっとも地理学誌らしくない記事を掲載 でも、そもそも地理学ってなんだろう
そんな疑問をたずさえて、世界で活躍する地理学研究者であると同時に
“ナショジオ”全巻の蔵書を誇り “ナショジオ”にまつわる展示会まで開催した堀信行
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】
(文=川端裕人/写真=的野弘路、堀信行 & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ 堀 信行(07) : 第四回 すべては地理学だった =1/3= ◆◇
サンゴ礁形成の大きな理論、アフリカのラテライトの形成について、堀さんの研究は進んできた。
さらに、それらを通じて、手つかずの自然の象徴とすら思われるアフリカでも、「自然」が人間の関与なしには語れないことも分かった。
こういったことを踏まえて、堀さんが今にして想起するのは、ちょうど東京都立大学の助手になった1968年、日本に返還された直後の小笠原での体験だという。
「小笠原が復帰したときに、都の学術調査隊の最初の調査隊員のひとりとして訪ねたんですね。すると芝生の地面が広がる米軍の基地がまだそのまま残っていたわけですよ。それを見たときに、人間がつくる風景と、これぞ自然という小笠原の自然との対比が非常に際立っていました。さらに日本人が作った畑の痕跡もありまして、人間が手を加えるということが、非常に鮮やかに対照的に目に映ったんですね。同じ場所を与えられても、どういう文化を持った人間がどう住むかによって、風景は違ってくるとしみじみと思いました」
それはその通りだと、ぼくも思う。
例えば、もしアフリカに日本人の集団を住まわせたら? 同じサバンナの草原を与えられても、陸稲の穂が揺れるような景観を創り出すのかも知れないし、熱帯雨林を里山にしてしまうかもしれない、と想像してしまう。
人と自然、「地理学的」に言うなら、人と地面・地形は、密接に関係している。
カメルーンでの仕事を終えて、そろそろ「人間のこと」を研究したい、と思っていたところ、民族学の同世代の研究者(元京都大学教授の福井勝義氏・故人)から、一緒にスーダンの研究をしないかと誘われた。
「それまでは自然を研究しながら人間を見ようとしてきたわけですが、自分でスイッチを切り換えて、今後は人間から自然を見つめる研究をしようと、決めたんですよ。それを本気でやろうと」
最初は、スーダンの西端の山麓の小さな村を調査したが、隣国のチャドの内戦の影響で危険地帯となり調査が遂行できなくなった。調査地を変えざるを得なくなり、ベルリン・オリンピックの映画で有名なレニ・リーフェンシュタールの写真集『ヌバ─遠い星の人びと』(新潮文庫)を読んで憧れていたヌバ山地北西部の村を選んだ。村の霊的な指導者、「クジュール」とよばれるシャーマンに3日間の「オル・マルチェ」という収穫祭を見ることを願い出たところ、幸運なことに「おまえはそこにいるがいないこととする」と許可が下った。そして、実際に収穫祭に参加して、目の当たりにしたことに驚愕する。
「信じられないけど、これはひょっとしてヤマタノオロチが出てくる『古事記』の中の風景に通じるような光景だったんです。もっといえば、諏訪大社で行われる御柱祭の意味と重なるようなことをするんです。結局、地面と人間がかかわり合うときの、等結果性というものを感じたんですね。違う民族、違う文脈にいるはずなのに、地面と人間との関係の中に似たような概念をはぐくむというか。だから初めて見る彼らの収穫祭なのに、身震いするんですね。あ、これが自分のアフリカ研究で一番知りたかった、そして、「アフリカの魂」というべき核心部分に触れるものだと直感しました」
・・・・・・明日に続く・・・
■□参考資料: “地理学”の歴史俯瞰 (1/3) □■
文献で確認できる最初の地理学者は、ホメロスである。ホメロスは優れた詩人として有名であるが、ホメロスの詩は、遠い地域の様子や海の様子などを優れた文学的な感覚でもって表現している。しかし、これは現代から見た解釈であって、ホメロス自身はあくまで詩を作ったのであり、地理学者としての自覚はなかったと考えられる。最初に地理学者としての自覚を持ったのはヘカタイオスであると考えられている。
彼は世界観の研究に大きな関心を示し、恐らくギリシア時代最初の地理書だろうと言われる『ペリエゲーシス』を著し、世界地図を描き、地球は円盤であると考えた。現代では彼は、地理学の父と呼ばれている。その弟子である歴史家・ヘロドトスも地理学上の実績を残した。遠くの異なった国の様子を記述し、エジプトからバビロニアまでの広い範囲の様子が記述されている。当時のギリシアでは、ヘロドドスの記述したのは歴史書だと見なされたであろうが、現代的視点からすれば、よその土地についての重要な記述書でもあり、地理学的な成果でもある。
このような地理学の流れは、現在では地誌学と呼ばれているものである。しかし地理学を考えた場合、もう一つの源流を考えなくてはならない。それは、地形や海洋あるいは地球そのものを見る自然科学(地球科学)としての地理学である。この源流も同じ古代ギリシアにある。現在では、一般地理学と呼ばれているものの源流である。古代ギリシアで地理学が興った時から、既にこの二つの流れ(地誌学と一般地理学)が並行して存在していたということには注視する必要がある。
というのも、この二つの流れが長い間は互いに影響されず発展されてきたが、この二つの流れを一つに融合しようとした時、つまりその地域の様子(地誌学)と気候や地形などの自然環境(一般地理学)に互いに因果関係があるというのが発見された時、この時こそが現在我々が接している近代科学としての地理学が誕生した時に他ならないからである。その偉業に達した人物こそがフンボルトとリッターという二人の地理学者なのであるが、これは19世紀初頭まで待たなくてはならない(後述)。
地球科学としての地理学の源流は、ターレスなどに代表されるイオニアの自然哲学者たちのもとにある。既にこの頃から地球の大きさや、宇宙における地球の位置などが問題になっていた。彼らは既に、地球が球体であると考えていた。これは無論、地理学ではなく現代で言う天文学や地球物理学の源流でもあるが、当時は学問が未分化であったため、彼らの業績は後の地理学にも受け継がれていった。
万学の祖である哲学者・アリストテレスや、当時としては驚くほど正確な値で地球の大きさを測定したエラトステネスなどの頃(紀元前4世紀〜紀元前2世紀)には、人々の関心の対象が海洋や気候、河川の起源や洪水の問題などにも広がっていった。この関心の拡大は、アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征によるものが大きい。アレキサンドロス3世の東方遠征により彼らの世界観は遠くインドにまで広がった。
しかし、これらの関心は、実際の観察と実験を行う技術がまだ存在せず、未知の部分を想像で補っていることが多かったため、正確さに問題があった。これを受けて以後の地理学者たちは、見知らぬ土地を推測することは避け、確実に知られている地域に関してだけ、正確な記述を試みる傾向にあった。この傾向は、次の古代ローマ時代でより顕著になった。 ・・・・・・明日に続く
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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