人と関わるロボットを作ろうと思ったら、見かけはどれだけ重要だとか
何をもって人を人らしいと認識するのかをまず研究しなくちゃいけないんじゃないか
そう考えて、自分自身を型にとり、自分そっくりのアンドロイドを作ってしまった
ATR石黒浩特別研究室 石黒 浩
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】
(文=川端裕人/写真=的野弘路 & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ 石黒 浩 : 第5回 癒しキャラ!? 登場 =2/2= ◆◇
そして、開発されたのがテレノイド、と呼ばれる、非常にシンプルな遠隔操作系のロボットだ。身長80センチの人間の子どもサイズで、必要最低限の見かけと動きと、柔らかな肌触りを重視している。ぼく自身は、抱き上げて、柔らかな人肌的な感蝕を確認したが、実際に遠隔操作されるテレノイドと話すチャンスはなかった。
静止しているところを見ると、不気味! と思う人も多そうだ。しかし、抱き上げるだけで、その質感に和まされるのも事実。石黒さんによれば、「テレノイドで1回話し始めて、喜ばなかった人はいないですよ。特にお年寄りとかはもうすごく楽しいみたいです。あれだけ反応のいいアンドロイドはないですね」とのことだ。
テレノイドは、介護や教育の現場で使われることを想定しているという。 孫と話す高齢者、といったふうな使い方も、ツボにはまりやすそうだ。テレノイドは、依り代として相手の魂を呼び寄せることができる携帯電話、なのかもしれない。
と思ったら、今度は本当に携帯電話を開発中だ。
妖精のような概観からエルフォイドと名付けられたもので、ドコモのFOMAの携帯電話である。
ただの携帯電話と違うのは、人型をしていること、人肌を感じさせる表皮の素材、そして、遠くで離している話者に合わせて口が動くこと、さらには、くねくねと体を動かすこともできること。
ただし、小さな目は、ただの窪みで黒目はない。
「目は動かないんですが、動かないなら黒目はない方がいいんです」と石黒さんは解説してくれた。
通常の携帯電話のように耳と口にあてて話すのではなく、対面で会話するのも大きな違いだ。
開発が終了すれば、市場に投入され、高齢者と孫が、あるいは恋人同士が、お互いの存在を間近に感じられる依り代としての携帯電話を持つことになるのだろうか。
この社会実験の行く末にかかわらず、石黒さんは得た知見から、また別のテーマをより分け、「自分とは」「人間とは」と答えなど簡単に出るはずもない問題に、さらに深く食らいついていくにちがいないのだ。おわり
次回は“世界初、系外惑星候補の撮影に成功!/ 田村元秀 ”に続く・・・・
■□参考資料: 石黒浩/人間とロボットに境界はない!? (3/3) □■
イマジネーションとクリエイティビティ
なんだかSFみたいな話ですが、とても実際的な話でもあるのですね。
石黒 社会が豊かになって、多様な人間を受け入れるようになっていきましたよね。昔は手足がなかったら差別の対象でしたし、白人は黒人をずっと奴隷として扱ってきた。そこに人権はなかった。
けれども、障害者も、黒人も、現在では人として当たり前に生きています。つまり、肉体的な構造や肌の色で人間を人間として判断することに、あまり意味がないということです。そんなことで判断するから差別が起こる。僕たちは、そうしてカテゴリーとしての人間を広げてきた。
すると、動物との境界も曖昧になってきます。アメリカの動物愛護団体は、チンパンジーに人権を与えないといけないみたいな主張をするところもあります。
けれども、人間と動物の大きな違いを考えたときには、「想像力/創造力」の問題があると思います。
イマジネーションとはシミュレーションする力です。それは、特定の問題であればコンピュータはできてしまいます。
例えば、僕の大学の研究室をモデリングして、人が歩いたらどうなるかということを、コンピュータグラフィックスの中で実際にやってみる。「ちゃんと歩けるな」とシミュレーションするのは想像でしょう。
これが人間の脳の中で起こっていることと同じことかはわからないけれど、世界を再現して、そのなかで行動したら何が起こるか予測をすることは可能です。それは、想像の一種ですよ。でも、動物はそれをやらない。あるいはやりにくい。コンピュータは、すべての場面で想像することは難しいけれども、特定の場面においては、人間よりも遥かに精密に想像します。
コンピュータグラフィックスは、すべてが架空の世界じゃないですか。あれを想像の世界だと考えてもいいかもしれないですよね。
◆ [阪大シンポ]「日本いまからここから」 第2部-3 講演 石黒 浩 ◆
・・・https://youtu.be/bN-ekwgkCKY・・・
確かに、そういう架空の世界は人の頭の中と近いのかもしれませんね。
石黒 映画のシナリオをつくるのは人間ですが、どこまでがオリジナルなものか、ということを考えます。最近は特にそういう研究をしているのですが、人間は自分でストーリーをつくれないのではないか。あるいは、つくれる人は非常に限られた人じゃないかと考えています。
例えば、飲み会で話をするときに、自分のオリジナルの話をどれだけできるでしょうか? どこかのドラマで見たとか、小説で読んだとか、誰かに聞いた以外の話。その人のオリジナルの話は、ほとんど聞いたことがないです。
もしかすると、人間はコンピュータグラフィックスのようにしか、イマジネーションを持たないのではないかと思うのです。
例えば、小説家の村上春樹は、小説の世界を自分でどんどん想像して勝手に物語をつくっている。でも小説家も、多くは自分の体験を書いているだけで、体験も何もないところから創造することは難しい。
だから、人間の創造力がコンピュータの想像力とどれほど違うのかということを考えます。
普通の人間がコンピュータの想像力に勝っているかというと、どうも怪しくなってくる。僕は、その微妙な違いが気持ち悪いんですよ。
僕は、人間だという証明をするために、ロボットでは創造できないことを創造するとか、ロボットではつくれないストーリーをつくり出すとか、そういうことをやりたい。いわば人間になるがために、いまの研究をしているようなものです。
・・・・・以下割愛 詳細URL:http://toshin-sekai.com/interview/21/
◆ 石黒浩・大阪大学教授 ◆
・・・https://youtu.be/1lF-j7QDVME・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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