カメルーン南東部のピグミー系狩猟採集民―研究しようと足を踏み入れた
目を奪われ、魅了されたのは、異質な独自の文化を持つ子どもたちの「遊び」だった
大人たちとは異質で豊かで深遠なる楽しい世界に、我知らず深入りしてしまった
愛知県立大学 アフリカ文化人類学 亀井伸孝
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】
(文=川端裕人/写真=藤谷清美、(アフリカ=亀井伸孝) & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ 亀井伸孝 : 第2回 遊びたおそう! =2/3= ◆◇
亀井さんが「弟子」として、「一緒に遊んでもらった」体験をもう少し詳しく聞こう。
例えば、釣り。実はぼくは、釣りを趣味といえないまでも、息子とのコミュニケーションになくてはならないイベントとして重宝している。ここでは、異文化、それも狩猟採集民の子どもたちの遊びとしての釣りとはどんなものかと興味津々だ。そもそも、どんな仕掛けで、釣るのだろう。テグスや浮きや針はどうするのだろう。
「浮きはコルクみたいな植物のズイみたいなのがあるんですね。で、糸と針は、工業製品として売っているものを使ってましたね。金属の針と、それから釣り糸。日本でもよく見るようなやつです。狩猟採集民だからといって、近代的な工業文明と無縁かというとそうではなくて、川や森へ入って自然のものをとってくるという基本的なスタイルはあんまり変えずに、便利なものは交えながら暮らしてますね」
とはいえ、いつもいつも釣れる、というわけでもなさそうだ。
子どもらしく、すぐ飽きてしまって泳ぎ出したり。それじゃ、魚は逃げるだろうと思っていると、案の定、魚は釣れずに、結局、捕まえたのは、餌のミミズだけだったり、ということもあるらしい。
もちろん釣れることもある。その時には、葉っぱにくるんで蒸し焼きにして、参加していた全員で分け合う。亀井さんも、同行していれば、ご相伴にあずかることになる。
時に、大漁!があれば、集落に持ち帰り歓迎されることもありそうだが、亀井さんの観察ではそういうシーンは少なかったそうだ。子どもは放任され、釣れなくても「あはは、だめだったか」といったふうにあしらわれていたとか。ちなみに、釣りに行くのは、主として男の子だ。
一方で、女の子は「かいだし漁」を行う。男の子の釣りにしても、女の子の「かいだし漁」にしても、いずれも大人が生業活動として行っていることの真似なのだが、もしも、何も獲れなくとも、集落の人々がひもじい思いをするわけでもなく、遊びの範疇だ。亀井さんは「はんぱな活動」と呼び、生業活動よりはむしろ遊びなのだと捉えている。
ただ、男の子の釣りよりは、女の子の「かいだし漁」の方が、若干、あてになるという。
では、かいだし漁とは──
「小さな堰を作って川をせき止めて、堰と堰の間の水をかき出して、そこにいる魚やエビやカニを捕まえるんです。10歳を超えたぐらいの女の子が主導してやってましたね。ちっぽけなエビやカニを捕まえて、やはり、その場で焼いて、または集落に持ち帰って、みんなで分けて食べちゃいます。大漁の時は大人にも分けて、晩ご飯のおかずになることもありますが」
こういった遊びは、年齢的に縦長の子ども集団、のようなもので行われるそうだ。
昼間、集落の大人は、狩猟や採集のために出かけてしまうことが多い。その間、子どもたちは自分たちの時間を遊びたおす。そのために自然とできあがる「縦長の子ども集団」とは──
・・・・・・明日に続く・・・・
■□ 参考資料: バカ・ピグミー (2/3) □■
ピグミー研究の歴史
ピグミーが最初に歴史上の記録にあらわれるのは、約4500年前のエジプトの文書であると言われている。記録の中で、エジプトのファラオは、軍の指揮官に「樹木の国からの真性のコビト」「霊地からきた神の踊り子であるコビト」を宮廷まで連れてくるように命令しているが、この記述がピグミーのことを指しているのはほぼ間違いあるまい。また、その2000年後に書かれたアリストテレスの「動物誌」にも、ピグミーの記載があらわれている。しかしその後中世になると、ヨーロッパの記録からはピグミーへの言及は消え、彼らがヨーロッパ人に「再発見」されるのは、アフリカ探検が盛んになった一九世紀以降のことになる。
20世紀に入ると、パウル・シェベスタ、パトリック・パットナムらによって、東部ザイールのイトゥリ・フォレストに住むピグミーに関する人類学的な研究がはじまった。そして何といっても有名なのは、1950~60年代にイトゥリで長期の参与観察をおこなった、イギリスの人類学者コリン・ターンブルの仕事だろう。彼は著書「森の民」[Turnbull 1961]において、共感的な語り口で森に生きるピグミーの姿を描き、その後のピグミー観に大きな影響を与えることになった。
一方、人類進化史の復元という観点から狩猟採集民研究に取り組んでいた京都大学の研究グループは、1970年代から、アフリカのピグミーの調査に着手した。 初期の生計生態学的な研究から、やがて自然認識、子供の遊び、近隣の農耕民との関係といった領域に対象は広がっていった。
私が農耕民ボンガンドの調査に入るより少し前、大学院の一年先輩の澤田昌人さんがイトゥリのエフェ・ピグミーの社会に入り、会話や歌と踊りといった、新たな側面へのアプローチを開始している。その後1980年代後半から、コンゴ共和国においてアカ・ピグミーの研究が開始された。アカは1960年代の後半より、中央アフリカ共和国で、フランスのセルジュ・バウシェらによって本格的な調査が開始されていたが、コンゴ共和国における研究は手つかずだったのである。
そして90年代に入り、ザイール内戦の影響で、私を含む中部アフリカの研究者がカメルーンへと調査地を移すことになり、日本人によるバカ・ピグミーの研究が始まることになった。バカに関しては1960年代より、植物学者ルツゼーによる植物名の研究、カトリック・ミッションのブリッソンらによるバカ語辞書の編纂、アルタベ、ンディーらの社会変容に関する研究があったが、本格的に人類学研究をおこなったのは、前述したベルギーの研究者ジョアリであった。 ・・・・・・明日に続く
◆ Mbuti Pygmies: The Forest is Everything ◆
・・・https://youtu.be/4QxpnWR9Srg・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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