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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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王妃メアリーとエリザベス1世 =15=

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○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 処女王・エリザベス1世 ◆◇

 1558年11月に、ハットフィールド・ハウスでエリザベスは姉の死を知らされた。 姉とは・・・・イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた母違いの姉である。 見せかけだけの姉妹であった。 イングランドに君臨する女王であった。 前節で記述したように、イングランド国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目していた。 時に、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生した。 しかし、ワイアットの反乱は短時間の内にメアリー1世の強権で鎮圧された。

 しかしながら、反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、ロンドン塔に収監された。 当時、ロンドン塔に投獄されて生還した者は皆無で、死を宣告されたに等しい。 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えた。 召喚の理由は反乱幇助であった。 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てたことはありそうにないが、反乱者側の一部が彼女に近づいたことは知られていた。 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナール はエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官 はエリザベスを裁判にかけるべく動いたのである。 

他方、宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。 そして、1554年5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストックのブレナム宮殿 へ移され、その後 およそ1年間、幽閉状態に置かれた。 移送される彼女に対して群衆が声援を送ったと記録されている。 因みに、この年の7月10日、メアリーはスペインのフェリペ2世と結婚していた。 メアリー38歳、フェリペ27歳である。 この結婚を機に、メアリーは異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行う。 その結果、彼女は「血まみれのメアリー/ Bloody Mary」 と呼ばれるようになったのだが・・・・・。

 また、1555年4月17日、エリザベスはメアリーの出産に立ち会うために宮廷に召喚された。 当時 彼女はヘンリー8世の子供たちの宮殿として使用されていたハットフィールド・ハウスに住んでいた。 もしも、メアリー1世と彼女の生まれる子が死ねば、エリザベスは女王となる。 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。

  結局、メアリーが妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、メアリーの夫のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、この頃から彼はエリザベスと積極的に交わるようになった。 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリーよりもエリザベスが好ましいと考えていたのである。

 そして、1558年11月20日に姉・メアリー1世の死が伝えられた。 忠誠を誓うべくハットフィールドへやって来た枢密院やその他の貴族たちに対してエリザベスは所信を宣言した。 この演説は彼女がしばしば用いることになる“二つの肉体”のメタファーの最初の記録と言われるが、国王への就任宣言であった。 

≪ 我が諸侯よ、姉の死を悼み、我が身に課せられた責務に驚愕させられるのが自然の理です。 しかしながら、私は神の被造物であることを思い致し、神の定められた任命に従いましょう。 また、私は心の底から神の恩恵の助けを得ていることを望みつつ、私に委ねられた神の素晴らしい御意志の代理人たる地位をお受けします。 自然に考えれば私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます、それ故に私は貴方たち全てに私を助けるよう望みます。 そして、私の統治と貴方がたの奉仕が全能の神によき報告をなし、私たちの子孫に幾らかの慰めを残すことになるでしょう。 私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです。 ≫

 戴冠式の前日に市内を練り歩く勝利の行進) で、彼女は市民たちから心を込めて歓迎され、式辞や野外劇で迎えられた。 エリザベスの開放的で思いやりのある応対は「驚くほど心を奪われた」観衆たちから慕われた。 翌1559年1月15日、エリザベスはウェストミンスター寺院で戴冠し、カトリックのカーライル司教によって聖別された。 それから彼女は耳を聾するようなオルガンやトランペット、太鼓そして鐘の騒音の中で群衆の前にその姿を現した。 処女王・エリザベス1世の誕生である。

 因みに、エリザベス1世の治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。 数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その生涯を終える。 その理由は明らかではない。 ただ、母を亡くしたエリザベスを引き取ったトマス・シーモアが想春期を迎えようとするエリザベスに性的関係を厭わせ事件=後に彼は女王になった彼女に求婚している=の精神的な後遺症、もしくは自身が不妊体質であると知っていたのかも知れないが・・・・・・・。 

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