≡ 世界の人口は2050年までに90億人に達し、十分な食料を確保できるのか ≡
= 食材は30%強が捨てられ、今日の食料廃棄量は年におよそ13億トン =
- 地球環境に負担をかけずに、何か改善する方法はないだろうか?-
【この企画はWebナショジオ_2014年4月~2014年12月期、35回記載に追記・補講した。 イラスト/涯 如水】
◇◆ 復活する“おいしいリンゴ” ◆◇
米国では、1920~30年代に冷蔵装置が発達して長距離輸送が可能になると、市場に出回るリンゴに異変が起きた。スーパーマーケットが、見た目や日持ちを優先したため、それまで地方ごとに栽培されていた多くの品種が姿を消したのだ(写真はその一部)。
デリシャスやジョナサン、ロームなどの品種は生き残ったが、味の点ではいまひとつ。「人々は味覚のスイッチを切ったのです」と、米オハイオ州立大学でリンゴの遺伝子研究をするダイアン・ミラーは語る。
ミラーによると、リンゴの味に対する意識が高まったのは1991年。甘く歯ごたえのある交配種ハニークリスプが発売されたのがきっかけという。現在では、味の良い新品種が年間何十種も作られ、昔ながらの品種も人気を取り戻している。
//////参考資料///////
◎ リンゴ(林檎、学名:Malus pumila) ◎
リンゴ(林檎、学名:Malus pumila)は、バラ科リンゴ属の落葉高木樹。またはその果実のこと。植物学上はセイヨウリンゴと呼ぶ。春、白または薄紅の花が咲く。多くの品種について 果実は熟すと赤く、生食または調理を経て食用にされ、球形で甘酸っぱい。
原産地は北部コーカサス地方が有力視されている。リンゴは7500以上の品種が栽培されており、亜寒帯、亜熱帯および温帯で栽培可能である。暑さに弱いため、熱帯での栽培は難しい。リンゴの木は落葉高木で、晩春頃に白い5弁花が開花する。
リンゴの果実は直径約3-15㎝、重さ約35-1000g。外皮の色は赤や黄緑または黄色をしている。熟するとヘプタコサンを含んだ蝋状の分泌物に覆われる。果肉は淡黄色-白色の品種が多い。外皮近くなど果肉が赤-ピンク色になる赤肉系の品種もある。リンゴの蜜は比重が大きいため、水の中に入れると沈む。果実の他の部分は比重が小さいため水に浮かぶ。
歴史/欧米
スイス地方の先住民族といわれている湖棲民族の遺跡からはリンゴの化石が発見されており、推定4000年前にはリンゴが栽培されていたと考えられている。欧州に広まったリンゴは、16世紀から17世紀頃にかけてヨーロッパ中部以北の各地で栽培が盛んとなり、19世紀中頃にはイギリスが大産地となった。 ありがとうございます。アメリカ合衆国には17世紀前半、ヨーロッパからの移住民によってもたらされ、新種の開発や枝変わりの発見など大きな発展を遂げた。以後、世界各地で栽培されている品種のほとんどはアメリカに由来するものとなっている。
中国
中国の新疆と黄河の西の地域は中国最古のリンゴ生産地で、中国東北部は小玉リンゴの生産地となっていた。 中国の書物『本草綱目』に「林檎一名來禽、言味甘熟則来禽也。」(林檎(りんきん)の果は味が甘く能く多くの禽(鳥の意)をその林に来らしむ。故、来禽(らいきん)の別名がある)との記述がある。 尚 中近東・オアシス地帯に分布するアルマ(イスラム語でリンゴ)は新疆西部のアルマィ市に由来する・。
日本/ワリンゴ
ワリンゴが日本へ最初に持ち込まれたのは中国からと推定されるが、西洋リンゴが西洋から持ち込まれると日本でも西洋リンゴの方が一般的になり、それまでの種は「和リンゴ」などと呼ばれて区別された。 平安時代中頃の書物『和名類聚抄』には「利宇古宇(りうこう、りうごう)」としてリンゴが記述されており、これが訛って「りんご」になったと考えられている。地域によっては「リンキ」という古名も伝わる。
江戸時代の絵師・葛飾北斎の絵にリンゴの花が描かれるなど、実よりはどちらかといえば花が珍重されていたこともあったが、およそ食用として各地域に伝承されていた。また、仏前の供え物として多用された。天明7年に発生した御所千度参りと呼ばれる事件の際、京都市中に溢れ返った3万から7万人ともされる人数に対し、後桜町上皇からは3万個のリンゴが下賜配布された記録がある。当時、基本的に食用ではなく仏事用であるとしても、大規模な栽培・集荷・流通が行われていたことが分かる。
2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存する和リンゴや野生種を調査し、数十種類の木(数百本)を育て、収穫した果実はお盆に各地の寺社に奉納している。同じ滋賀県で浅井長政ゆかりの木之本などでも復活・保存の動きがある。
セイヨウリンゴ
初めて西洋リンゴが栽培された例としては、文久2年(1862年)、越前福井藩主であった松平春嶽がアメリカ産のリンゴの苗木を入手し、それが江戸郊外巣鴨の福井藩下屋敷にて栽培されていたと残る記録が有名である[。またそれより先、安政元年(1854年)に、アメリカからもたらされた「アッフル」が加賀藩下屋敷にて栽培され、翌年に実をつけたために食用とされたことが、当時の加賀藩士の記録に残っている。藩主(前田斉泰)から「小さな餅に塗って食べるように」と言われて近習らはそのようにしていることから、ジャムにして食したものと思われる。
また福井藩下屋敷では接ぎ木により100本以上の樹が生えていたとされ、当時既にリンゴの株分け・接ぎ木のノウハウがあったとも推測される。また、この福井藩下屋敷の株を、藩と直接関係のない人物が藩邸出入りの植木屋を通して入手した話が伝わることなどから、これら2箇所の藩邸だけにとどまらず、もっと広く栽培されていた可能性がある。この両藩邸のリンゴの株の導入経路はどちらも「アメリカから」と伝わるが、正確な入手経路や品種などは明確になっていない。
・・・・・・つづく
_ 高徳りんご/apanese Koutoku apples _
・・・・・・ https://youtu.be/V-8Tq8TzWkk ・・・・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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