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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =23=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 王妃、コンシェルジュリー≪牢獄≫に移管され・・・・・・ ◇◆

 ルイ16世の刑が執行された後、民衆は国王一家の存在を忘れたかのように見えた。 フランスの新しい指導者にとって、国王一家は諸外国との取引のための人質のようなもので、重要な存在でもあり、手厚く保護されていた。 マリー・アントワネットも、家族を残して自分だけ助かることを望んでいなかった。 1792年7月3日、王党派がルイ・シャルルを強奪して、ルイ17世として即位させようとしているとの噂が立ち、マリー・アントワネットとシャルルは引き離される。 この日から、アントワネットは喪服を脱ぐことをせず、口もきかなくなり、部屋の中を亡霊のようにさまようようになる。 連合軍が快進撃を続ける中、議会は革命の敵を一掃する目的で、8月2日、マリー・アントワネットをコンシェルジュリー(監獄)に移すことになった。

 ここで王太子(ドーファン)ルイ・シャルルに視点むけて母親マリ-・アントワネットともの双視点で記して行く。 後日、マリー・アントワネットが裁判の席に立たされた時、ジャック・ルネ・エベールが幼い王太子を暴力と洗脳で「母親との近親相姦の事実」の署名証言書を突きつけられるのである。 重複することを顧みず筆を進める。

 1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。 ルイ・シャルルは、パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。 新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。国王一家は2年後の1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。 このときルイ=シャルルは6歳だった。

 タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語、フランス語、歴史、地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。 数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いした。この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、国王一家に同情した職員からルイ=シャルルに贈られた愛犬ココと過ごした=この犬は後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死している=。

 1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。 1月28日、ドイツのヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。 しかしルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

 恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。 その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。 以後、ルイ17世(ルイ=シャルル)は体調を崩したままとなる。

7月3日、ルイ17世(ルイ=シャルル)は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。 王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベール(前節イラスト参照)から後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーム・シモンの元で過ごすことになった。 シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメットによる監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。

 彼らはサンキュロット(パリの貧困層)に見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。そして「ら・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。

 やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。 また、シモンはルイ17世(ルイ=シャルル)を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。 暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。 偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通称取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。

 シモンの妻マリー=ジャンヌはルイ17世(ルイ=シャルル)の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待をやめさせることは出来なかった。 ルイ17世(ルイ=シャルル)は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。 この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。

 さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。 母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。 翌日、マリー・テレーズとエリザベートはそれぞれ別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世(ルイ=シャルル)はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。 そしてこの尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。

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森のなかえ

 

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