その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ ルイ16世の刑死執行と王妃の・・・・・・ ◇◆
裁判のための調査委員会により、テュイルリー宮殿のルイ16世の住居から、『鉄の戸棚』が発見されました。 メモ魔だったルイ16世は、様々な書類をこの中に残していた。 革命当初から、国王が表と裏の顔を持っていたこと、亡命者と連絡を取っていたこと、外国と交渉していたことなどを証明する文書が出てきた。 これが政治犯として、ルイ16世の有罪は決まったようである。 12月11日、パリ市長が裁判所に行くため、ルイ16世を迎えに来た。
この瞬間から判決が出るまで、家族と会うことも許されなかった。 前述のように、下された判決は『死刑』。 死刑に賛成が387票、反対が334票でしたが、賛成のうち、執行猶予を望む票が26票あり、この表を反対票に加えると361対360となり、わずか1票の差で死刑が確定された。 ルイ16世が幽閉されている要塞タンブル塔で、ようやく家族が顔を合わせることができたのは一ヶ月後の1月11日=処刑の前日=、市の役人がひとりマリー・アントワネットのもとに現われて、本日は例外として家族とともに夫に会うことが許される、と伝えた。
妻、妹、子供たちは、暗い要塞の階段をおりて、国王ひとりが収容されている部屋に赴く。 最後の別れである。 タンブルで王国一家の監視に当たっていたのは、一七八九年の革命の立役者のなかでも最も根性の下劣な、「狂犬」と異名をとる極左派のジャック・ルネ・エベールであった。 彼は、後年の1794年、蜂起を呼びかけたが失敗する。 その結果、ロベスピエールやサン・ジュストに告発されて処刑されるが、すでに夫を失い無力になったマリー・アントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼である。
エベールが許可したルイ16世の家族との再会は、最後のお別れであった。 家族は2時間の間、泣きながら、嘆き悲しんでいたと言われてる。 そして、1793年1月12日早朝、 ルイ16世はタンプル塔から馬車に乗せられて、刑が執行される革命広場までエーベルに連行された。 ルイ16世は、これまで王妃の愛がフェルセン伯爵に向いているのを知ってた、人生の最後の最後でやっと妻に愛されていると実感することができ、司祭に対し、自分の髪の毛と結婚指輪を王妃に渡すように頼み、『別れるのが辛いと伝えて欲しい』と言い残して断頭台に上って行った。
午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場でギロチンで斬首刑にされた。 これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのはルイ16世本人だった。 大デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。
“朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」。”
10時22分。 マリー・アントワネットは連打される太鼓と大砲の音で、夫の刑が執行されたことを知る。 悲しみと絶望にさいなまれながらも、次の瞬間、息子ルイ・シャルルの前に膝まづき、ルイ17世としての即位を讃えたのです。 最期まで、マリー・アントワネットは王妃であり、母であり、こうした窮地に立たされて、はじめて自分がどういう立場の人間だったのかを自覚し、それにふさわしい態度で臨んだ。
因みに、国王・ルイ16世の遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。 後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世=兄・ルイ16世のヴァレンヌ事件と同時に夫人と愛人を伴いトリーア大司教領のコブレンツに亡命した。 1795年、革命政府によって幽閉されていたルイ16世の王太子ルイ・シャルルが死んだという風評が流れると、ルイ・シャルルがルイ17世と呼ばれていたことから、自らはルイ18世を名乗った=は、私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。
その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立ち、発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その近くからコルセットを纏う遺骨が陽光の下に現れた。 期しくも、ルイ16世の22回目の命日である1815年1月21日であった。 その後、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻マリー・アントワネットと共に改葬された。
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森のなかえ
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