その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ 幽閉生活 そして、国王が国民公会で・・・・・ ◆◇
1792年の8月10日事件が発生する二か月前、ヴァレンヌでの逃亡事件失敗の後、フェルセンは、ある晩に国王一家が幽閉されているテュイルリー宮殿に変装して忍び込み、国王と王妃に新たな亡命計画を進言していた。 しかし、パリに留まることを決意した国王から拒否されてしまう。 時間がなかった。 革命政府によって裁判にかけられるため、国王一家がタンプル塔に移送されると言う。 フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。
革命が激しくなると、フェルセンはブリュッセルに亡命し、ここでグスタフ3世やオーストリア駐仏大使と共に王妃救出のために奔走した。 しかし、ブルボン王朝が瓦解する1792年の3月にグスタフ3世が暗殺されると、スウェーデンは革命から手を引き、フェルセンは政治的に失脚していたのである。
要塞タンブル塔に幽閉された王室一家、国王ルイ、マリー・アントワネット、ふたりの子供、それに国王の妹エリザベートの五人。 これまで一緒にいた王妃の親友ランバール夫人も、タンブルへの収監と同時に、彼女から引き離された。 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
だが、一ヵ月後=九月虐殺=に、ランバール夫人は暴民に虐殺され、屍体を裸にされて、パリの町中を引きずりまわされる。 槍の穂先には、血まみれの夫人の首が掲げられる。 気丈な王妃も、親友が虐殺されたというニュースを番兵から聞くにおよんで、叫び声とともに気を失って倒れる。 “九月虐殺”は憎悪の連鎖を呼び起こすことになり、民衆は王妃を、王妃は民衆を激しく憎むようになった。
蛇足ながら、後年の1796年、スウェーデンでグスタフ4世が親政を開始すると、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンも復権して外交顧問に任じられる。 フェルセンは1798年にフランス革命戦争の講和条約としてのラシュタット会議にスウェーデン代表として参加。 ここでナポレオン・ボナパルトに会っている。 この席でフェルセンは、ナポレオンにマリー・アントワネットとの関係を聞かれたという逸話がある。
その後、グスタフ4世の元で1799年に元帥にまで昇進し、スウェーデン国政に携って行くこととなった。 しかしフェルセンは、民衆に対して不信の念は益々、頑迷な不信を抱くようになり、強圧的な振る舞いが多くなっていく。 それは愛するアントワネットを死に追いやった民衆の狂気、いや時代が呻きを発して変貌して行く様への憎悪であったろう。
亡命が発覚したヴァレンヌ事件が起こるまでは、スキャンダルにまみれたマリー・アントワネットとは違い、ルイ16世は国民の境遇に心を悩ませる、心優しい国王として、絶大な人気を得ていた。 英名ではないが国民のよき支配者であり、王妃であるマリー・アントワネットの噂はどうであれ、国王としての威信が地に落ちると言うことはなかった。 全てはヴァレンヌ事件によって、国王 いや ブルボン王朝自体の進むべき方向が変ってしまった。 タンプル塔に幽閉されていた国王一家であったが、遂に処遇を巡って裁判に欠けられることになった。
タンプル塔に幽閉された国王一家は、もはや悪質な政治犯として見られ、釈放の余地はなかった。 ルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。 その間(1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護するフイヤン派=王党派=、処刑を求めるジャコバン派、裁判に慎重なジロンド派は対立し、長々と議論が続けられていた。
膠着状態の中、11月3日、25歳の青年サン=ジュストが、人民が元々有していた王権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきであると演説し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた。
1793年1月15日〜1月19日、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。 投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった。 第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した。 ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)で、ジロンド派の予想に反して否決された。
そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。 集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた。 次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑286名、執行猶予付き死刑46名であった。 387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった。 死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定したと言える。
第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12)で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。
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