その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ ヴァレンヌ事件の影響と革命戦争勃発・・・・ ◆◇
この国王の亡命逃行失敗のヴァレンヌ事件はフランス国民に多大な衝撃を与えた。 国王が外国の軍隊の先頭に立って攻めてくる気であったという事実は、立憲君主制の前提を根底から揺るがす大問題だった。 ルイ16世は革命の敵、反革命側なのであり、それどころか国家の敵ですらあり、フランス人の王としての国民の信頼感は著しく傷つけた。 それまでは国王擁護の立場をとっていた国民が比較的多数を占めていたが、以後、多くは左派になびいて革命はますます急進化した。
窮した王朝派のラメットやバルナーヴは、国王は何ものかによって誘拐されたのだとする誘拐説をでっち上げた。 立憲君主制を成立させるには、ブイエを首謀者とするウソの陰謀が必要で、ルイ16世は被害者であったという捏造を強弁した。 このウソはバルナーヴの雄弁によってある程度は成功し、フランス革命は立憲君主制と立法議会の成立というところまで漕ぎついた。
しかし、この公然の嘘には当然、左派は激しく反発した。 革命はもはや1789年の理想の範疇ではおさまらなかった。 ヴェルサイユ宮殿の球戯場(シャン・ド・マルス)の誓願は、ラファイエットの国民衛兵隊の発砲により流血沙汰となり、共和主義宣伝の機会を与えた。 ジャコバン派は分裂し、フイヤン派が脱退する事態となった。 フイヤン派は何とか君主制と革命とを両立させようとその後も苦心するが、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが外国軍による解放という考えを捨てなかったこともあって、結局は、共和制(フランス第一共和政)の樹立の方向に革命が進むのを止められなかった。
一方、脱出を手引きしたフェルセンの主君スウェーデン王グスタフ3世(前節イラスト参照)は、ドイツのアーヘンにてフェルセンからの報告を待ちわびていたが、結局、脱出成功の報を聞くことはなかった。 逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちに亡命フランス貴族と計り、「反革命十字軍」を組織する計画を立てた。 10月1日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結したが、最終的にはグスタフ3世が1792年3月に暗殺されるなどで実現することはなかった。 グスタフ3世の行動はかなり極端ではあったが、後の対仏大同盟の先鞭となり、ナポレオンと対峙することに成る。
他方、すでに亡命に成功していたアルトウ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)がヴァレンヌ事件でのルイ16世の失敗を知った直後、ハプスブルク家のレオポルト2世に支援をいらいした。 彼は激しく動揺し、憤って、妹マリー・アントワネットと甥たち、すなわちフランス王室の身を案じて心を痛めた。
そこで彼は1791年7月5日に回状発して、ヨーロッパの君主国にブルボン家への援助を呼びかけたが、これにはイギリスはもちろん、ブルボン家の分家であったスペイン、および別の妹マリア・カロリーナの嫁ぎ先でもあったナポリ、ブルボン家の旧同盟国サルデーニャも協力を断った。ロシアのエカチェリーナ2世は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こして動けなかった。 僅かに呼びかけに応じたのが、スウェーデン王グスタフ3世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世で、7月25日にオーストリアとプロイセンは軍事同盟を結んだ。
そして、1791年8月27日にアルトウ伯が、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世を仲介し「ピルニッツ宣言」を行う。 この「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす」という内容の宣言は、革命派には脅迫と受け取られて、実のところ国王一家の立場をより悪くしただけではあったが、フランス革命戦争への号砲となったと言える。 というのも、革命派は脅迫を受けて引き下がるどころか、逆にいきり立って戦いを望んだからである。 彼らはついには国王の断罪を求めるようになっていくため、ヴァレンヌ事件はブルボン王政の終焉を告げるきっかけともなった。
バスチュール陥落後、同じ年の10月6日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。 このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。 やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェレセンは国王一家と別れ、その後 彼は1792年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。 そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヶ月、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。 さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがなかった。
事実、1792年8月、フランス革命戦争が勃発する。 パリ市内は混乱し、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される=8月10日事件=。 同年年8月13日夕刻、王室一家はペチヨンの指揮のもとに、陰鬱な要塞タンブルに送りこまれる。 ここにいたるまで、マリー・アントワネットは国民議会で、パリへ連れもどされる途中の沿道で、あるいはチュイルリー宮に乱入してきた国民軍兵士の前で、どれだけ多くの罵詈雑言を浴び、どれだけ堪えがたい屈辱を嘗めさせられたことか。
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森のなかえ
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