その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ ヴァレンヌ事件の発覚・亡命計画の齟齬・・・・ ◆◇
クレルモン・アルゴンヌの町至った国王一行は、ようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町ではニュースになって騒ぎになっていた。 町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。 しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。 再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、先回りしていた宿駅長のドルーエらはが大勢の群衆と共に待ち構えていた。
ヴァレンヌの町では、国境地帯の軍を預かっているブイエ侯爵の息子ら2人の連絡将校が待っているはずだったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。 橋の向こうでは、馬車の替え馬が準備されていた。 ここで馬を替えればモンメディまでは僅かな距離であった。 ドルーエは警鐘を鳴らし、何としても亡命を阻止すべく、すでに橋にバリケードを作って封鎖していた。 騒ぎに目を覚ましたブイエの息子は発覚したと思って逃げ出した。 ドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ」と脅されていた町長は、旅券をチェックして「よろしい」と許可を与えたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めた。
馬車を群衆に包囲され身動きがとれなかったので、しばらくすればブイエかショワズールの部隊が助けに来るのではないかと期待した国王は、この招待を受けることにした。 24時間の逃避行で彼らも疲れていた。 「ソース」という名前の食料品店の2階に部屋が設けられ、簡易ベッドと粗末な食事が出された。
夜半になって、ショワズールが猟騎兵を連れて息を切らせて到着し、彼らは群衆をかき分けて食料品店の2階に駆け上がってきた。 すぐに血路を開いて脱出しようというが、外には数万の群衆が集まっており、中には武装した国民衛兵隊もいた。 大半は只の野次馬で、これらすべてが国王に敵愾心があったとは思えないが、かといって無事に通り過ぎられそうでもなかった。 女子供を連れて強行突破は難しいと逡巡している間に朝がきた。
1791年6月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。 すべてが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエが救援するのを待とうと試みた。 国王は疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しいと言った。 ロメーフはラファイエットの副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。 しかしもう一人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ」と群衆を煽った。 このとき初めて国王夫妻は、自分達が囚われの身になったことを実感させられた。
髪は乱れ、真っ青な顔をしていたマリー・アントワネットだが、子供2人を連れ、冷静で威厳を保って、胸の前で手を組み合わせながら、頭を下げている。 夫であるルイ16世と、かつてないほど心を一つにし、家族と自分自身の命を守るために不屈の精神で挑んだのです。 母として、王妃おして凛とした態度のマリー・アントワネットの姿に人々は感動し、政治的な王妃への怒りは霧散する。
周囲を埋め尽くす群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、しょうがなく国王一家は車中の人となった。 マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。 その僅か半時後、ブイエ侯爵は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、国王がすでに屈服したと知らされた。 彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。
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森のなかえ
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