その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ 亡命貴族の支援策が革命戦争に駆り立てる・・・・・ ◆◇
1791年6月のヴァレンヌ事件は、フランス革命の流れに相反する二つの潮流を生み出した。 第一は第二に対する反動で、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。 9月14日のルイ16世の1791年憲法への宣誓と復権、 そして 10月1日の立法議会の招集をへて立憲王政の成立へとたどり着いた後は、1789年の理想主義者ならこれで革命は終わったのだと信じることはできただろうし、事実、立憲議員の何人かは故郷に帰った。
しかし全くそうではなかった。 立憲主義者の偽りの勝利と、利権を独占するブルジョワジーの分裂(フイヤン派のジャコバン派からの分離)をよそに、第二の波、つまり デモクラシーが台頭を始めていたのである。 バスティーユで革命に目覚めた革命的民主主義者たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にしたサン・キュロットの革命参加を促して、パリで徐々に政治勢力を形成した。 彼らは人民結社(コルドリエ・クラブ)や自治市会に結集して、さらにより急進的な第二世代の指導者を生み出していった。 この第二の流れは7月17日のシャン・ド・マルスの虐殺やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を約1年間ためていった。
また第一の流れの副産物として、ウィーンとベルリンの宮廷は亡命貴族(エミグレ)に唆されて、ピルニッツ宣言=前節参照=を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったものの、ブリッソーら立法議会で新しく多数派になるジロンド派を刺激し、過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸君主に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)のごとき発想を思い起こさせた。 革命戦争の勃発は情勢を悪化させた。 戦争と経済危機の影響は市民の生活を直撃した。
パリの手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民(サン・キュロット)たちは生活改善を求めて再び結集した。 この流れはすでに左翼的イデオロギーを伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。 運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的アピールは、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民のなかにもこれに同調する者が現れ、彼らのリーダーとなった。 このような人々がそれぞれの地区の民兵を組織し、革命の暴力として顕在化した。 急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、共和制樹立の要求は日に日に高まっていった。
そうした中で、次節で述べる、1792年8月20日のサン・キュロットの示威行動事件が起きる。 武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んで来る事件は、拒否権を乱発する国王への圧力としてジロンド派が黙認したという側面はあるが、武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。 王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回るスピードで展開を始めていたのである。
「反乱者が公然と王制の転覆を計画」するという逼迫した情勢への危機感は、7月10日、フイヤン派を総辞職に至らせた。 立憲君主制を守る最後の試みは、軍司令官に復帰したラファイエットに託された。 彼はフロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵を通じて、ジャコバン派を解散させるために「軍隊をひきいてパリへ進軍する用意がある」のでオーストリアに軍事行動の停止を求めたことがあり、さらにコンピエーニュへの脱出を国王に勧めた。
ここで彼は軍隊と待つ予定であったが、国王の再度の脱出は7月12日から15日に延期されて、結局は中止になった。 ルイ16世はヴァレンヌ事件の失敗を思い出して、信頼する外国人傭兵、ガイド・スイス部隊の保護下から出る気がしなかったのである。 また マリー・アントワネットは諸君主国の同盟軍が声明を出して威圧するように求め、同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク侯爵が7月25日に王妃の要請に答えて宣言を発した。 その宣言は、パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫であった。 しかし、ブラウンシュヴァイク宣言は市民をより一層怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になった。 これはもはや武装蜂起を奨励するようなもので、完全に逆効果となった。
フランス革命では特徴的なことだが、蜂起は存在しない脅威に対する自己防衛の行為であった。 暴動事件は、誰かが終始一貫して計画を立てたわけではなく、7月末の最後の週からパリで異常な高まりを見せた示威行動が、8月10日の爆発へのクライマックスを迎え導火線と成っていた。 議会の立憲君主派と、宮廷の王党派に対して、民衆は立ち上がらなければ踏みつぶされるだけだと思ったわけである。 ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、8月になると王制打倒こそが唯一の解決策であるという見解はパリ全体に共有されるものとなった。
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