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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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未知の世界へ 関野吉晴 =018=

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〇◎ 未知の世界へ飛び込んでいく関野吉晴 ◎〇

= Webナショジオ_“北極探検 二つの物語”に転載・補講 =

☠ 関野吉晴の探求心はどこから来たのか  ☠

◇◆ 西表島が見えた!=後節= ◆◇

 縄文号の船体は高さ54mの大木を伐って作った。その木は、2~3mの高さから、どっしりとした分厚い板根がタコの足のように八方に伸びて、自らの巨体を支えていた。直径は1.8m。見上げると、ランやつる性の植物など10種類以上の植物がびっしりと着生していた。

 それはこの辺りでひときわ目立つ大木で、恐れ多いものが宿っている雰囲気があった。地面から水や養分を吸い上げ、陽光を浴びて自分自身の身体を維持していた老木だ。その神が宿ったような大木を舟の形に変えて、大海原を北へと運んでいるんだと思うことがあった。何とかして、この大木を日本まで運びたい。そんな思いを抱いていた。

島影が見えた!

 この夜は貨物船とも、タンカー、漁船とも一切出合わなかった。午前4時頃からうっすらと明るくなる。やがて空はピンクに染まってくるが、大きな星はまだ輝いている。快晴だが太陽の出る東の空には暑い雲が立ち込めていて、日の出を拝むことはできそうにない。相変わらず強い南風が吹いていた。波も3m近くある。

 どの辺りまで来ているのかさっぱり分からなかったが、夕方までに西表島の島影が見えたらラッキーだなくらいに思っていた。ビニールシートにくるまって寝ていたグスマンが、イルサンに代わって舵をとった。寝ていたといっても、熟睡していたわけではない。カヌーの下からも前方からも海水がバシャバシャと踊りこんでくるから、シートでくるまっていてもびしょ濡れになってしまうのだ。

 思ったより早く島影が見えた。とはいえダニエルとグスマンに見えているだけで私には見えない。私は、彼らが見えていると言う島影に向かうよう指示した。

 彼らの目の良さには驚く。それまでの経験でも彼らが島影を発見してから1、2時間後にやっと私たち日本人が確認できた。特に、キャプテンであるグスマンの視力は優れていた。彼は夜、星の明かりだけで、灯台など人工的な光のない島を誰よりも早く発見した。

 私が島影を確認できたのは、やはりグスマンが見つけてから1時間以上経ったころだった。蜃気楼のような小さな島影だった。どこの島だろうか。八重山諸島の一番南の島と言えば波照間島だ。だとするとしめたものだ。自分の位置がおおよそ確認できるから、今後は島影を頼りに自信をもってナビゲート出来る。しかし、もし与那国島だとすると、思い切り方向転換しなければならない。

 やがてその小さな島の背後にもうっすらと大きな島影が見えてきた。そうなると、その大きな島影が西表島で、初めに見えた島が波照間島だと分かる。大体の位置はつかめた。やや東寄りではあるが、想定を大きく外れてはいない。私たちの当面の目標は西表島の西部だったので、船首を北北西に向けた。
 結局、西表島まで300km近く走ってしまった。台風3号は熱帯低気圧となって中国に上陸した。

自然に逆らわない

 西表島まで来ればナビゲーションに関してはもう心配はいらない。ゴールの石垣島までは島影を見ながらの航海になる。

 ひと段落したが、次の問題は風向きだ。ここからは石垣島までやや北寄りの東に向かう。相変わらず南風が吹いているので、縄文号にとってはややきつい。案の定苦戦を強いられた。パクール号が近寄って来て渡部純一郎が「そっちに行ったらゴールに着けませんよー。もっと南寄りに向かってください」と大声で叫んでいる。分かっているけど、風には逆らえないのだ。東に向かわなければいけないのだが、北に押し流され動けなくなってしまった。

 高地、氷河、砂漠、ツンドラ、湿地帯、など世界中のあらゆる自然環境を歩いてきた。徒手空拳で動こうとすると、どこも自然は障害となって立ちはだかる。自然は天邪鬼で思い通りにはならない。私たちの先祖は自然の恵みをありがたく受け、障害は何とかしようと創意工夫をした。動植物は自分自身の身体を変えること、つまり進化することによって障害をかわした。人々は文化を作って、自然との折り合いをつけた。

 太古の人たちは、地震、津波、台風、火山の爆発などに対して住む場所や住居を工夫し、経験知によって災害に備えた。だがそれと同時に、自然には逆らえないと思い、畏れていた。人の力で抑えきれないことを自覚していた。

 科学技術によって災害を防げると思うのは奢りだ。自然を思うようにコントロールすることは出来ない。自然と人とは格が違う。生き抜くには、英知は必要だが、必要以上に便利で快適な生活を送るために、科学技術を過信して人災を招いては元も子もない。

 話はそれたが、風が吹いていて思った方向に進めないものは仕方がない。ひとまずこの場面は、風に逆らわず、洋上で待機することにした。

=補講・資料=

ウェイファインディング(その三;3/3)

モダン・ハワイアン・ウェイファインディング

現在最も隆盛を誇っているのは、1980年にハワイで考案され、ポリネシア各地に広められた系統である。これはナイノア・トンプソンが、マウ・ピアイルックから直接伝授されたカロリン諸島系の技術と、ハワイ大学付属実験学校ホノルル校の教師で地質学者でもあるウィル・クセルクから学んだ西洋天文学の知識を組み合わせたもので、古代ポリネシアの技術と直接の関係は無い(詳細は「ナイノア・トンプソン」の項にて解説)。

この技術は「モダン・ハワイアン・ウェイファインディング modern Hawai'ian wayfinding」と呼ばれ、ナイノア・トンプソンが作成した「スター・コンパス」をもとに、ミクロネシア系の海洋波観測、生物相観測技術(エクスパンデッド・ランドフォール)を付加し、さらにポリネシア特有の状況(南北方向の移動距離が極めて大きい)に対応して「天頂星(Zenith Star)」や「対の星(Star Pairs)」観測の技術を創出したものである。代表的な航法師としてナイノア・トンプソンが挙げられる。

航法技術の復興運動

ミクロネシア : 1970年代初頭、ミクロネシアにおいて、サタワル島プルワット環礁の航法師たちがお互いに技術を競いあい、久しく絶えていた遠洋航海に挑んでこれを成功させるという事例が相次いだ。1970年にはルイス・レッパンがサイパン・サタワル間の航海を数十年ぶりに成功させ、1975年には同じくルイス・レッパンが航法師を務めた「チェチェメニ」がサタワル島から沖縄島までの航海を成功させた。1986年、ヤップ島のベルナルド・ガアヤンがヤップから小笠原父島まで「ペサウ」で航海している。またマウ・ピアイルックの一族はヤップ島において、航法技術を学ぶ為の学校を開設する準備を進めている。

ポリネシア : 1970年代、ハワイやタウマコで航海カヌーが久しぶりに建造される。1976年の「ホクレア」がハワイ・タヒチ間往復航海を成功させる。1987年、マタヒ・ワカタカとフランシス・コーワンが「ハワイキヌイ」でタヒチからアオテアロア(ニュージーランド)まで航海。同年、「ホクレア」もアオテアロアに到達。1992年の太平洋芸術祭ではクック諸島、アオテアロア、タヒチなどで航海カヌーが建造され、ナイノア・トンプソンから彼の航法技術が伝授された。

・・・・・新節につづく・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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