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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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未知の世界へ 関野吉晴 =019=

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〇◎ 未知の世界へ飛び込んでいく関野吉晴 ◎〇

= Webナショジオ_“北極探検 二つの物語”に転載・補講 =

☠ 関野吉晴の探求心はどこから来たのか  ☠

◇◆ ラスト20キロ / 渡辺純一郎の意外な提案 =前節= ◆◇

デッキ上の異文化共生社会

 ゴールの石垣港を目前にして、すんなりと進まなかった。残るは直線でおよそ20km。困難なルートでもないし、潮の流れも複雑なわけではない。しかし南風が強くて動けなかった。一瞬風が弱まることもあるが、また吹き始める。安定しない。

 昼でも夜でも、いつでも出発できる態勢にして、待機することにした。私たちのダブル・アウトリガーカヌーは、横揺れは少ないものの、強い潮風に吹かれると夏の沖縄でも寒い。シートをかぶって、風が弱まるのを待った。

 縄文号とパクール号のデッキは、実質的には四畳半から六畳ほどしかない。限られたスペースで世代も文化も言葉も民族も異なる10人が生活する異文化共生社会だ。慣習の違いや個性の違い、またそれによるトラブルも多かった。

 たとえば夜、カヌーで寝るときは、港や陸地から少し離れた場所に錨を下ろした。私たち日本人はそのまま寝てしまうことが多かったが、マンダール人クルーは陸に民家が見えると、泳いで井戸を借りに行った。水浴びをしてから泳いで戻ってくるのだ。せっかく水浴びをしてもまた海水に濡れるのだから同じじゃないかと思ったが、イスラムの礼拝の前には水浴びして身体を清めなければならない。それが習慣になっているのだ。身体のどこから洗い始めるか、順番まで決まっている。

 食事ひとつをとっても我々日本人とはまったく違った。日本のカレールーや調味料は使えない。日本の製品には、必ずブタのエキスが入っているからだ。日本のラーメンもダメ。彼らは酒を飲むことはあっても、ブタは絶対に口にしなかった。

 ほかにも様々な慣習に出合った。岬の前には魔物が棲むから用を足してはいけない。船から足を垂らして海面に浸けていると、海の精霊に失礼だ。船上で調理するときに使った薪の燃えかすを海に投げ入れるのは海の精霊が熱がるからダメだ・・・。海を身近に生きてきた彼らにとっては、当たり前すぎて意識しない、自然に続いてきた生活の一部なのである。

 マンダール人は、とてもシャイな人たちだ。長い時間をともに過ごさないと彼らの個性は見えてこなかった。実は、彼らは、私と渡部純一郎が決めた航海法に納得していなかったらしい。だが最年長で航海の隊長である私に意見できなかった。

 船上での共同生活を繰り返しながら、私たちは少しずつ互いを理解していった。やがて若い日本人クルーの前田次郎や佐藤洋平が、マンダール人の意見や要望を私や渡部に伝える仲介役になっていた。異文化のなかで互いに新たな役割が生まれた。

最後の試練

 石垣島沖の深夜、午前2時過ぎ。風がやや弱まった。相変わらず南風だ。入江から出るには漕がなければならない。弱まったと言っても向かい風で、漕ぎ出るのは辛い。

 すべてのメンバーの中で最も漕ぐ力のあるのは渡部純一郎だ。若い頃はシーカヤックでいくつものレースで優勝している。彼が、「私が縄文号に移りますから、私の代わりに、縄文号に乗っているマンダール人の誰かをパクールに移動させてください」と言ってきた。

 マンダール人はオールを漕ぐのは得意ではない。彼らのなかで持続的に漕げるのは、縄文号に乗っているダニエルだけだ。イルサンはパドルを漕ぐのは得意でもオールは苦手。パドルはオールと比べてほとんど推進力がない。グスマンもオールは漕げないが、キャプテンとして縄文号には重要な存在だ。となると、イルサンにパクール号に移ってもらわなければならない。

=補講・資料=

コンティキ号

コンティキ号(コンティキごう、Kon-Tiki)は、ノールウエーの人類学者、トール・ヘイエルダールらによって1947年に建造されたマストとキャビンを持つ大型の筏。 1947年4月28日にペルーのカヤオ港より漂流を開始した。コンティキ号はフンボルト海流にのって、ヘイエルダールらの予想通りに西進し、102日後の1947年8月7日にツアモツ諸島ラロイア環礁で座礁した。航海した距離は4,300マイル(8千km弱) に及ぶ。

南太平洋の諸島に住むポリネシア人の起源について南米のインカ文明とポリネシア文明との相似点が多いことから、ポリネシア人の祖先が南米から海を渡って渡来したアメリカ・インデアンである、という説があった。

ヘイエルダールらはこの説を立証するため、インカを征服したスペイン人たちが描いた図面を元にして、バルサや松、竹、マングローブ、麻など、古代でも入手が容易な材料のみを用いて一隻のいかだを建造した。 図面に忠実に製作されたが、航海の終り頃まで機能がわからないパーツもあったとヘイエルダールは語っている。 なお食料は軍事用のレーションも積み込んでいたし、六分儀・時計といった航法機器や各種無線通信機・発振器やボートなど当時のテクノロジーの産物も使用していた。 またアマチュア無線により、ノルウェーを含む世界各国との交信を行っていた。

この航海によって何の動力も持たない筏が、風と海流に流されてソサエティ諸島などの南太平洋の島々に漂着できる可能性を実証し、ポリネシア人の祖先がアメリカ・インディアンである「可能性」を証明した。 船名はインカ帝国太陽神ビラコチャの別名から命名された。

・・・・・後節につづく・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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