〇◎ 未知の世界へ飛び込んでいく関野吉晴 ◎〇
= Webナショジオ_“北極探検 二つの物語”に転載・補講 =
☠ 関野吉晴の探求心はどこから来たのか ☠◇◆ 初めてのアマゾン、先住民の楽しみ =後節= ◆◇
「何を楽しみに生きているのでしょう?」
アシャニンカとの暮らしを含めて1年余りのアマゾン滞在を終え、帰国した。いろいろなところで、彼らの暮らしを撮った写真を見てもらいながら話す機会があった。
話が終わると、こんな質問をよく受けた。
「この人たちは何を楽しみに生きているのでしょうか」
私は同じ質問をその人たちに返す。
「それではあなたは何を楽しみに生きているのですか」
ほとんどの人は答えに窮してしまう。しばらく考え込んでから、こんな答えが返ってくる。
「子供たちが肉体的にも精神的にも順調に成長している時」「職場で仕事仲間とうまくやっていけてる時」「音楽を聴いている時」「自分や家族が健康に暮らしている時」・・・。
答えの多くは、アシャニンカの人たちが日常楽しんでいることと同じである。
違いがあるとすれば、カラオケや映画、テレビがないことだ。だが、カラオケの機器はなくても、アシャニンカの人たちは、自分たちで太鼓、ケーニャ、サンポーニャ、弓矢の形をした弦楽器などで生演奏をして歌う。歌も自分たちで作る。毎日晩酌するわけではないが、飲むときは浴びるほど飲み、しかも飲み放題。
もちろん彼らにも家族はいて、仕事仲間、友人もいる。小説はないが代々伝わる民話や神話がある。それらには彼らが世界をどうとらえているかが語られていた。また、新たに自分たちで物語を作って、それを自分たちが生きていく上での支えとしている。そこに、迷いはなかった。
私は3カ月間彼らと同じ屋根の下で同じものを食べながら、彼らの暮らし、彼らの世界観、死生観、宇宙観、生活習慣、森で生きていく技術、知恵に興味を強く持ち始め、それ以降毎年のようにアマゾンに通うようになった。
私は河口から最も遠い水源であるアプリマック川から、一人で下り始めた。河口まで2カ月かかった。その後、再びペルーのアマゾン源流に戻った。そこでアシャニンカという先住民の村で居候させてもらった。当時はフィールドワークという気はさらさらなく、単なる友人として付き合いたいという気分だった。フィールドプレイと称して、仲良くなった友人たちと狩りに行き、魚を取り、木の実や貝、小エビを採って過ごしていた。話を聞いてもメモを取ることもなく、写真もほとんど撮らなかった。夜寝る時間も含めると1日15時間はハンモックに揺られていただろうか。
3カ月の滞在期間中、持参した食料は米3キロとわずかばかりの塩だけだった。村には店などない。親しくなった先住民から一軒の小屋を与えられ、食料も分けてもらったが、ほとんどは、どこかの家で「およばれ」にあずかっていた。パパイアやフルーティなバナナは私の好物と知って、優先的に私のところに集めてくれた。
ユカイモとか調理用のバナナばかりを食べていると、無性にご飯を食べたくなる。しかし、わずかしか持ってきていない。いつも世話になっている家の人にもふるまわなければならない。米がとても貴重なものになった。それまではパンでもうどんでもご飯でも何でも一緒だと思っていたが、そのときは米粒が真珠やダイヤモンドの粒のように、あるいはそれ以上の価値があるものに見えた。
私は3カ月間彼らと同じ屋根の下で同じものを食べながら、彼らの暮らし、彼らの世界観、死生観、宇宙観、生活習慣、森で生きていく技術、知恵に興味を強く持ち始め、それ以降毎年のようにアマゾンに通うようになった。
=補講・資料=
アマゾン川
アマゾン川にはじめてヨーロッパ人が到達したのは1500年のことである。南アメリカ大陸の海岸線沿いに航行していたビセンテ・ヤーニェス・ピンソンがアマゾン河口近くにたどり着いた時、この付近の水が淡水であることに気づき、マーレ・ドゥルセ(「甘い海」を意味する)と名付けた。アマゾン川のほぼ全域を航行した初の人間はスペインのコンキスタドールであるフランシスコ・デ・オレリャーナである。
インカ帝国の征服に参加していた彼は、1541年のゴンサロ・ピサロによるエル・ドラード探索行にも参加し、アマゾン最上流域のナポ川から出発し、全区間を航行して1542年8月に河口に到達した。この時にオレリャーナは地元住民と激しい戦闘を繰り広げたが、その際女性戦士に攻撃されたことを記しており、これが神話の女人族アマゾネスを連想させたことから、この川にアマゾン川という名がつけられたとされる。
アマゾン川は河口部分のごく一部を除いて全域がトルデシリャス条約の境界線の西側に位置し、ほぼ全域がスペイン領となる区域であった。しかしスペインはアンデス方面に重点を置いてアマゾンへの進出を全く行わない一方、河口近くにいたポルトガル人は1616年にベレンの町を建設し、ここからアマゾン川沿いに内陸へと進出していった。 1669年にはマナウスの町が開かれ、さらに南のサンパウロから進出したバンデイランテスたちが1730年代にマット・グロッソにて金鉱を発見し、この金の輸出の河川ルートがアマゾン川へとつながったためにより一層アマゾン流域はポルトガルの勢力が強くなっていった。
1750年にはマドリード条約が結ばれ、アマゾン川流域の中央部分はほぼポルトガルの領域となった。また、この間も広大なアマゾン川流域の各支流については探検が進んでおらず、流域にはヨーロッパ人と全く接触を持たないインディオ達も数多かった。各支流の探検はこの時代にも続けられており、1799年から1800年にはアレクサンダー・フォン・フンボルトが探検を行い、流域北部においてアマゾン川流域とオリノコ川流域とを結ぶカシキアレ水路の存在を明らかにした。
ブラジル帝国独立後もアマゾンの開発は進まなかったが、1852年にマウアー子爵がアマゾン川汽船会社を設立してアマゾン川に蒸気船を就航させるようになり、さらに1866年にブラジル政府はアマゾン川の外国船の航行を認めた。これにより、アマゾン川上流のペルー領イキトスも貿易港としての機能を持つようになった。19世紀末から20世紀初頭にかけては天然ゴムのブームによってアマゾン川は一躍脚光を浴びるようになり、マナウスやイキトスなどは繁栄期を迎えた。
とくにゴムの集散地となったマナウスは熱帯のパリと呼ばれるほどの繁栄期を迎えた。またこの時代、天然ゴムを採集するセリンゲイロと呼ばれる採集人たちが各支流の奥深くまで入り込むようになり、ほとんどの支流にヨーロッパ人たちの足跡がしるされるようになった。しかし、マレー半島などの農園で生産されるアジア産のゴムが急速にシェアを伸ばし、1915年ごろまでにほぼ天然ゴム市場を席巻し、最終的には合成ゴムの開発によってこの繁栄は終わりを迎えた。
ゴム景気終息後、旧共和政期(カフェ・コン・レイテ期)には新たな開発計画は見られなかった。この時期まで、アマゾン経済は基本的に熱帯雨林からのゴムやブラジルナッツなどの採集経済が中心であり、農園は川沿いのわずかな地域にしか開かれておらず、開拓も進んでいなかった。しかし、1930年に政権を握ったジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは1940年にブラジル大統領としてはじめてアマゾン入りし、アマゾン開発の必要性を強調。
1953年にはアマゾン経済開発庁を設立した。1967年にはマナウスフリーゾーンが設立され、本格的な工業開発が始まった。しかし、本格的なアマゾン開拓は、1970年に発表された「国家開発計画」によってはじまった。この計画によりアマゾンは初めて本格的に開発の手が入るようになり、各地に道路が建設され、アマゾンのいくつかの支流に大規模なダムが計画されるようになった。
・・・・・新節へ、つづく・・・・・
動画資料 : アマゾンの森を歩く = クリック➡ https://youtu.be/yBRHF3oekOI
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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