○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =3/5= ◇◆植村直己の冒険学校というべき1冊の本をつくり、(1)実際にサバイバル技術のために役立つ、(2)植村の冒険についての心構えがわかりやすく語られる、という内容をもりこもうと思った。 わかりやすさに主眼を置くため、書くよりも話すほうがいいだろうという相談がまとまり、私はおよそ50時間に及ぶテープをとった。
まず、植村がこれだけは語っておきたいと思う項目を立てる。 項目ごとに、具体的に野外での行動のしかた、またなぜそうするのかを聞いていった。少し時間のあるときはホテルに部屋をとり、2、3日連続して語ってもらうこともあった。 植村が「話すのは苦手」といいながらもこの企画に応じてくれたのは、先に述べた「南極後」の野外学校への思いがあったからであろう。
彼が語った項目は、歩く、退く、眠る、休む、などから、マッチなしで火をつける、焚火、生肉、サケの話などと、バラエティに富んでいたし、時間の経過で色あせることのない、役に立つ話ばかりだった。
話を聞いた翌年の2月、予想もしなかったことが起こった。植村が帰ってこないと知って、50時間のテープにしばらくは手をつけることができなかった。しかし本で意図したことは、少しも価値が減っているわけではない。私が同僚と2人で植村の話をまとめ、『植村直己の冒険学校』(文藝春秋刊)として刊行したのは、86年の8月だった。 1984年1月21日、北米最高峰のマッキンリー山(6194メートル)の冬期単独登頂をめざして、植村はアンカレッジ空港に下り立った。
私は「アメリカからの帰国の途中、ちょっと寄り道して」冬期の登山をこころみる、といった軽い調子のハガキ(ミネソタ発)を受けとった。しかし、後になって考えると(まさに下手な後知恵だが)、植村にとってはどうしても成功させたいという決意のもとに行なった、けっして軽くない行動だったのである。
植村は1981年の冬期エベレスト登山、翌82年の南極単独横断と、2年連続して不本意な結果しか得られなかった。とはいっても、南極単独横断は外的な要因によって断念せざるを得なかったのであり、失敗のうちには入らない。私などはそのように思っていたが、植村にとっては必ずしもそうではなかった。実現できなかったという事実が重くのしかかっていたのは、周囲の想定をはるかに越えていたのである。
公子夫人は、さすがに正確に見ている。 《(断念したことを)自分のなかにずっとためて、深くしていったから。冬のマッキンリーの失敗は自分のなかでどうしても許せないから、ぜったいに無理して登頂していたと思う。登らずに帰ってくることはできなかったから。》(インタビュー「しんしんと積ってくるもの」「コヨーテ」2005年6月、第6号) この言葉は、4200メートルの雪洞に残されていた日記の最後の1行(2月6日付)、に呼応していて、切ない。
* * * 植村のマッキンリー単独登山の足跡をざっとたどってみよう。
2月1日。カヒルトナ氷河の一角に設置したBC(ベース・キャンプ)から、登山開始。「ザックをプラスチック製の橇に乗せ、体には4メートルの竹竿を2本胴につけストックをつき、足にはスノーシューズを履いた」植村の姿を見送ったのはテレビ朝日のディレクター大谷映芳氏だった。16時、東フォーク、カヒルトナ氷河合流点(2250m)に着き、雪洞をつくって泊まる。C(キャンプ)1。ひいてきた橇はここにデポ。
2月2日。9時出発、ザックを背負い、竹竿を持つ。2650m地点でC2。雪洞。 2月3日。9時30分、C2を出発。15時45分、ウィンディー・コーナーの手前、3600m地点で雪洞。C3。吹雪の中、雪洞を掘るのに3時間かかる。疲労も激しい。 2月4日。吹雪で1日停滞。気温はマイナス23度。「今日の停滞は休養になり、よいのかもしれない」と日記に書く。
=補講・資料=
イギリスのMick Fowler と Paul Ramsden が、インド・Pangi region にあるシヴァ峰(Shiva/6142m) に、未登だった北東稜から初登た。 シヴァ峰自体は、田部井淳子さんを隊長とする日本山岳会婦人懇談会隊によって 1988年に南東面から初登されてる。その後、2002年にインド隊によって同ルートがリピートされてるのみだった。
北側に関しては 2010年にロシアチームが北西面からトライしていますが、失敗してる。そして、今回、ミックは北東稜からトライした。 Tarundi Valley にベースキャンプを作った彼らは、近くの Prow(5500m) に 2日間かけて登って高度順化を行なった。 シヴァの北東稜に取り付いた彼らは、急峻な花崗岩の岩壁と薄氷に苦しめられながら、6日間をかけて頂上直下に達し、そこで悪天をやり過ごし、7日目の早朝に山頂に達し、下降には南陵を使い、2日かけてベースまで戻ってる。
メスナーに次いで8000m14座登頂に成功しながら、ローツェ南壁完登目前に転落、径6mmのロープが切れ、不世出のクライマーはシュルンドに消えたのでありました。 その過激な登頂スタイルから、日本でもメスナーより高く評価している方は多いと思いますが、その人柄とクライミング経歴はあまり知られていないのが実情ではないでしょうか。=酒の密輸で装備品・遠征費稼いでいたとかいうアンダーグラウンドなネタ程度=
ポーランド国内に限らず欧州において、幾たびともなく山岳活動での表彰が記述されていまる。 面白いことに、メスナーを拒否したことで有名な、IOCからのメダル授与ではククチカは銀メダルに輝いています。 地元ポーランドでは、タトラ山脈におけるクライミングの経歴などがスポーツ誌に記されている。
動画資料: The Tragic Tale of Mt Everest =クリック➡ https://youtu.be/dkKJzXzLFDg=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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