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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =061=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =4/5=  ◇◆

 2月5日。9時30分に出発したが、風速25m~30m。気温マイナス28度。ウィンディー・コーナーをすすむ。3時、吹雪の中で雪洞を掘り、その50m手前においたザックを取りに戻る。風に吹き飛ばされそうになり、四つ這いになって歩く。暗いため、掘った雪洞が見あたらない。「俺はこれで死ぬかもしれない」という1行が日記にある。ようやく見つけた雪洞にとび込んで助かる。

 2月6日。ウィンディー・コーナーからウェスト・バットレス下部へ。11時出発、14時到着。

《夏はここから2日で頂上へ行ける。冬ははて何日かかるか。食料はまだ6日分ある。カリブーの冷肉を今日もかじった。雪洞の中でも-21℃とあり、落ち着けない。シラフは凍ってバリバリ。明日は晴れてくれるか。このところ天候はずっと悪天候続き。そろそろ晴れてもよいのに。天候は私に非情なり。ガソリンコンロも炊きたいが、お茶を飲む以外のめず。温かいシラフで寝てみたい。
 ローソクが残り5センチ弱になってしまって夜が長い。ローソク意外とつかうのである。 ヘッドランプはアタック用につかいたいから少し節約。 何が何でもマッキンレー、登るぞ。―――》

 ウェスト・バットレス下部、4200m地点の雪洞で、この日は泊まる。ここに、余分の装備、また最後の日記を置き、おそらくは次の日、2月7日からウェスト・バットレスを登りはじめた。 マッキンリー山は、ウェスト・バットレスを登り切った4900m地点から稜線のコースになり、5200mあたりで少し平らな場所に出る。それからデナリ・パスを通過して稜線を歩き、サウス・ピーク(頂上)に立つというのがコースだ。

 しかし2月7日以後は日記がない。推測をまじえて足跡を追うしかない。なお、ここからの行程追跡は、明治大学の第一次救援隊の橋本清隊長の手紙に拠るところが多い。  2月7日と8日は、行動不明。9日、ブッシュ・パイロットのダグ・ギーティングが植村の姿を確認した、といっている。10日、行動不明。

 2月11日、テレビ朝日カメラマンと別のパイロット(トーマス)が5200m付近で植村を確認、交信。植村は「明日アタックする」といった。翌2月12日は植村の誕生日である。こういうげんを担ぐ余裕のようなものがここではあった。

 2月12日。デナリ・パスを過ぎ、頂上までの中間の稜線上の植村を、前日の2人が機上で確認。「あと2時間ほどで登頂できる」と交信してきた。飛行機の2人はいったんBCに引き返し、16時に登頂確認のため飛ぶが、天候が雪に変わり、植村を発見できず。

 2月13日。パイロットとテレビカメラマンが頂上付近に飛び、午前11時に植村と交信。頂上付近はガスで、植村の姿は確認できなかった。また交信の記録は残っているが、雑音が多く聞き取れない部分が多い。植村は「えー、きのう、7時10分前にサウス・ピークの頂上に立ちました」といっているのは聞きとれるが、現在位置不明。「2万、2万、2万フィート」という言葉を残して、聞きとれなくなった。

 その後は、植村の遭難を懸念して、ブッシュ・パイロットたちがマッキンリーに飛んだ。

 2月16日。ダグとトーマスが4900メートルの雪洞に植村がいるのを見た、といっているが、確実か、と問われて、100%確実ではない、と答えている。

 20日、大谷映芳氏はチーフ・レンジャーのグリフィスとともに4200m地点に下り立ち、雪洞を発見。装備と日記があった。近くにテントを設営、天候が回復した25日、2人はウェスト・バットレスを登って、4900m地点の雪洞を発見、食べ残しの食糧、装備の一部を見つけた。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= エアハルト・ロレタン & ガストン・レビュファ

 エアハルト・ロレタン(Erhard Loretan、1959年4月28日-2011年4月28日)は、スイスの登山家。ロレタンはスイス・ブリブール州のBulleで生まれ、11歳で登山を始めた。1979年に家具職人となり、1981年からは登山ガイドの仕事を始めた。彼は8000m峰14座を世界で3番目に制覇した。達成時の年齢は36歳だった。

 

1980年に初めてアンデス山脈に挑戦し、1982年にナンガ・パルバットに登った時から、8000メートル峰への挑戦を始めた。そして13年後の1995年、最後のカンチェンジュンガに登り、世界で3番目に8000メートル峰全14座登頂を成し遂げた。

スピード登攀で知られ、14座のうちの半数をアルパインスタイルで登っている。特に、ジャン・トロワイエと共に、エベレスト北壁をアルパインスタイルで40時間で登頂したことが有名である。北壁の取り付きからジャパニーズ・クーロワール経由で登り、グリセードを使って5時間で下山した。他にもジャン・トロワイエ、ヴォイテク・クルティカと共に、チョ・オユーシシャパンマをどちらも南西壁から1日で登頂している。 

アンナプルナでは長大な東稜からの初登頂を果たし、北側への縦走に成功した。しかし、2011年4月28日、地元スイスのグリュンホルンで登山ガイド中に事故で死去した。52歳没。ヴォイテク・クルティカ、ジャン・トロワイエとのチームは「最強のトリオ」と呼ばれた。

ガストン・レビュファ :ヨーロッパアルプスの名ガイドでモンブラン登頂は実に1000回以上!ヨーロッパ6大北壁全てに登頂。世界初の8000m峰登頂となった際のアンナプルナ遠征にも参加。 本人は登頂しなかったものの、登頂後に重度の凍傷を負ったエルゾーグ、ラシュナルの救援に八面六臂の活躍をした。

文才に溢れる事でも知られ、「山の詩人」「山のサン・テグジュペリ」とも言われる。彼の著作には『星と嵐_6っの北壁登行』・『美しきモンブラン山群_その雪と岩に刻まれた歴史』・『モンブラン山群_特選100コース』・『太陽を迎えに』・『モンブランよりヒマラヤへ』・『やまこそ我が世界』・『雪と岩』・『天と地の間に』・『星にのばされたザイル』・『登山の楽しみ』・『ゼクラン山群』・『美しきマッターホルン』・『氷・雪・岩』・『マッターホルン_理想の山』等々

「困難を愛するが、危険は大嫌いだ」・「私は思い出より憧れの方が好きだ」はガイドとして客を案内する彼ならではの名言か。そして、惜しまれつつ 癌の為パリにて永眠。 

動画資料: Gaston Rébuffat : Etoile et tempête =クリック➡ https://youtu.be/hBjbkCNbvJk

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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