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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =059=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =2/5=  ◇◆

 植村は一万二千キロの北極圏の旅から戻ったとき、リーダー犬のアンナほか4頭の犬を日本に連れ帰った。旭川市の旭山動物園がアンナとイヌートソア2号を、帯広動物園がイグルーとイヌートソア1号を引きとってくれた。その後も犬橇をひいたエスキモー犬が日本に連れてこられて、今でも北海道にたくさんの子孫がいる。

 エスキモー犬をひきとってもらったことから、植村は帯広市の人びとと強いつながりをもつに至った。帯広動物園の中村園長がその人びとの中心にいて、そのグループが帯広野外学校をつくろうとしたのである。植村を校長にして、日本にはまだ本格的なものがなかった野外学校の設立をめざした。植村は、帯広で始まり、ひろがったこの話に心を動かされたようすだった。

「北海道の、人里から離れた所に、掘立小屋を一つ建てて、水道もない、電気もないというなかで、季節に合ったサバイバル生活をやったりしたら、けっこうおもしろい訓練ができるはずです。」

 と植村は83年の9月頃、語っている(『植村直己の冒険学校』1986年、文藝春秋刊)。
 植村はこの当時、「アメリカあたりの大学で探検の講座を持っているところはありませんでしょうか」と会う人ごとに聞いてみるようになった。そして、滞在中のアメリカ人の海流学者から、アウトワード・バウンド・スクールの存在を教えられた。

 イギリスに始まり、世界17カ国に開校している本格的な野外学校である。アメリカだけでも8カ所に設けられていた(数字は1984年当時)。植村がとくに興味をいだいたのはミネソタ・アウトワード・バウンド・スクールであり、ここだけが犬橇のカリキュラムがあったからである。

 植村は、本気で野外学校のあり方を学ぶことを決心した。ミネソタのこの野外学校に「入学」するため、83年10月に渡米するのである。しかし学校側は植村が何者であるかを知っており、結局生徒としてではなく、無給の犬橇のインストラクターとして彼を雇うというかたちになった。

 彼は友人宛の手紙のなかで書いている。

《――私の野外学校(体験)は3カ月少々であったが、生徒と指導員に接触し、このような野外学校の日本での必要性を強く感じたのだった。私の夢は前から持ち続けている南極への旅の実現であるが、3~4年後を目標に是非このような学校を北海道の日高山脈の麓あたりに作りたいという、新しい夢も芽生えてきたのだった――》

 植村は「南極後」のことを考えるようになっていたのである。3~4年後、日高山脈の麓あたりで、というのは帯広の仲間たちの動きを想定してのことだ。

 まず、南極単独横断という長年の夢を果たす。それは変わらないけれど、その後の目標が見え始めていたのである。植村がミネソタの野外学校を見学したのは、一つには「南極後」のため、もう一つ公言はしなかったけれど、アメリカにいて、折あれば関係当局に南極の冒険への援助をアピールするためだった。しかし前者についてはいい感触をつかんだが、後者、アメリカの関係当局への接触は思うようにはいかなかった。日本に帰国する前に、マッキンリー冬期単独登頂を実行したのは、アメリカで自分の存在感を訴えようとした意図がたしかにあった。

 この年の8月と9月、私は頻繁に植村と会った。植村直己の冒険学校というべき1冊の本をつくり、(1)実際にサバイバル技術のために役立つ、(2)植村の冒険についての心構えがわかりやすく語られる、という内容をもりこもうと思った。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= エリック・エスコフィエ & ルネ・デメゾン

 エリック・エスコフィエ : 8000m峰速攻連続登頂のパイオニア。 1985年にはなんとガッシャーブルムⅠ峰、Ⅱ峰、K2と僅か1ヶ月で3座に登頂するという離れ業をやってのけた。 しかし、1998年7月29日にブロードピークで行方不明に。 

事故は、エリック・エスコフィエとザイルを結びあっていたパスカル・ベジェールが頂上稜線で暴風に飛ばされ、遭難したと推測されている。

 因みに ブロード・ピーク(Broad Peak)は1957年6月9日- マルクス・シュムック率いるオーストラリアの登山隊4人(ヘルマン・ブールフリッツ・ウィンターシュテラークルト・ディムベルガー)によって初登頂(無酸素)。 彼らは5月29日に最初のアタックをかけ前衛峰に達したが、すでに夕刻となっており降雪もあるため撤退した。 その後、6月9日に再挑戦し登頂に成功した。 大量の物資とポーターを投入して登るのが普通だった当時としては画期的な成果であった。 しかし、隊員の一人であるブール(8000m峰登頂者の人類第一号者)は、登頂の数週間後に近くのチョゴリサ峰(7,654m)の登山中に命を落としている。

 ルネ・デメゾン :  ヒマラヤ、アンデスやアルプスなどで冬山登山の新ルートを開拓、114の初登頂記録を打ち立てた。数々の未踏峰を開拓したフランスの名クライマー。 ザック、靴、ギアなど「デメゾン・モデル」が発売されるなど人気も高く、二冊の著作 『素手の山―岩壁に生死を賭けたアルピニスト』 ・ 『グランド・ジョラスの342時間 (1974年)』はベストセラーに。

 AFPは彼の他界を世界に伝えた。 ≪2007年にパリにて永眠。1950年代から1000以上の山に挑んできた現代登山の先駆者として称えられるフランスのベテラン登山家、ルネ・デメゾン(Rene Desmaison)氏が28日に死去したことをデメゾン氏の出版社が伝えた。 享年77歳。 デメゾン氏はヒマラヤ、アンデスやアルプスなどで冬山登山の新ルートを開拓、114の初登頂記録を打ち立てた。登山に関する著作も発表し、2005年に出版した手記集では長いキャリアを通して最も危険だった体験を詳しく語っている。(c)AFP ≫

 

動画資料 : French Climber - Eric Escoffier 1985  =クリック➡ https://youtu.be/5cDuwPBpl6o 動画資料 : Éric Escoffier, un grand combat =クリック➡ https://youtu.be/g--fcg4S2ts

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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