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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =058=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =1/5=  ◇◆

 1984年2月、植村直己は冬期のマッキンリーに単独登頂したのち、帰らなかった。 この遭難を追跡する前に、1983年の植村について語りたい。

82年12月、アルゼンチン軍部から、南極横断旅行には協力できないと通告された。ほぼ1年間、南極のアルゼンチン基地で待機した末に、南極横断を断念しなければならない結果になった。 彼が長いあいだそれにかけてきた執念を思えば、あまりに苛酷な断念を強いられたのだった。

 83年3月、植村は帰国した。会ってみると、いつも通りの植村に戻っているようにも見えた。 「いやあ、みなさんの期待にこたえることができなくて、すみません。残念です」 という植村を、私個人としては慰める言葉をもっていなかった。 何か発言することで、重い気持ちが軽減されるわけではなかった。

 しかし、植村は大きな痛手を受けながら、南極を単独で横断する夢をまだ捨ててはいなかった。 フォークランド戦争でアルゼンチン軍部が大混乱したのは、予想外の事故だった。 もう2、3年かけて、もう一度アルゼンチンの支援を得るか、別な国の援助を考えるかして、単独横断をやりとげたい。

植村はそうはっきりと語った。 別の国の援助というとき、アメリカ合衆国が第一に頭に浮かんでいるはずだったが、アメリカ政府、軍部ともにその壁は厚い。 もちろん彼は痛いほどそれを承知していた。 今年の後半、アメリカに渡って、交渉の糸口を見つけたい、といった。 私は賛成したが、しかし有力な糸口をどのように見つけるのか、これだという方法を相談するまでには至っていなかった。

植村直己との個人的なつきあいについて、できるだけそれが話の中心にならないようにおさえてきたつもりである。 しかし、この83年については、個人的なつきあいをあるていど語っておく必要があるように感じられる。というのも、次のステップに足をかけるまで、少しはゆるやかな時間が与えられたようなことになったから、わりとよく植村と会うようになっていた。私としてはフィルムで見た植村の「暗い顔」がどうしても気にかかっていたということもある。

 5月8日と9日、植村と一緒に千曲川上流部でキャンプした。 かねて知り合いだった雑誌「ビーパル」編集部の依頼で、キャンプしながらのインタビューを行なったのである。 ゆっくり昔の話でもすることで、少しは気分転換になるかもしれない、と考えた。 植村にとってはとてもキャンプの部類には入らないことは承知していたが、山菜をとり、野外料理をつくり、同じテントで眠ることは、私にとってはいい体験になるはずだったし、事実そうなった。

 日が暮れた頃、テントから少し離れた下の谷川で、養魚場で買った10匹ほどのイワナを植村が腹出ししてくれた。 処理したイワナをバケツに入れて戻ってきた植村が、妙に緊張した顔をしていた。

 何かあったのかと尋ねると、「イヤ、イワナのお化けが出そうで」と短く答えた。 北極圏で孤独な犬橇旅行を続けた大冒険家が、谷川に夜が下りてくるのを怖がったのである。 私は頬笑みながらも、植村のなかにある繊細な感受性を思わずにいられなかった。

 冒険旅行での食べ物、とくにアザラシの生肉について。 犬橇のこと。 厳しい旅のさなか、テントで風の音を聞きながら思うこと。 そんな話題が、とりとめもなく、思いだすままにくりひろげられた。

私はインタビューアーとして、何かを系統立てて聞き出そうとはしなかった。 キャンプ・ファイアーの炎を見ながら植村が話し、私がポツリポツリ聞く。インタビューというより雑談のようになった。 その記録は一部が「ビーパル」に載ったし、のちに1冊の本にもなった(『植村直己と山で一泊』小学館文庫)。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ = ビクター・サンダース & ウーリー・ステック

 ビクター・サンダース(Anthony Victor Saunders)は、英国の登山家。 UIAGM(国際山岳ガイド連盟)認定の山岳ガイド、スキーインストラクターを務める。 ガイド資格取得以降は先鋭的登攀よりも商業公募隊のガイド、隊長としての8000m峰登頂が多くなっている。 彼はミック・ファウラーと並ぶイギリスのビッグウォールクライマー。 標高差2000mの垂直の大岩壁「ゴールデンピラー」をたった二人のアルパインスタイルで完登した登攀はいまだに輝き褪せることが無い。

 ロンドンのAAスクールで建築家として学ぶ傍ら登山の経験を積み、1980年代から90年代にかけて数多くの困難な未踏峰、未踏壁をアルパインスタイルで攻略した。 1996年にUIGM資格を取得し専業ガイドとなる。 2003年にはSNGM(フランス国家山岳ガイド)の資格を取得しシャモニーに拠点を移している。

重要な山歴は、スパンティーク峰ゴールデンピラー初登頂 / カンシュンツェ峰(マカルーⅡ峰)西壁初登頂 / ジチュ・ダケ初登頂 / パンチ・チュリⅤ峰初登頂 / 2006年にはエベレストに無酸素登頂(計5回登頂)。著作も幾多あり。

ウーリー・ステック : 「スイス・マシーン」の異名をとり氷壁を猛スピードで駆け上がる超高速クライマー。 その姿はほとんど蜘蛛そのもの。
冬季ヨーロッパ三大北壁のスピード登頂記録を持つスイスの登山家。 2008年ピオレドール賞、8000m峰は6座に登頂。
間違いなく現代最強登山家の一人だったが2017年にエベレストの順応トレーニングのために登ったヌプツェで滑落死してしまった。

プモリ西壁初登(2001年) / アイガー北壁新ルート"The Young Spider"(2006年)  / 2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒 及び グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分  / 2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分 / 2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分 /  2013年 アンナプルナ南壁ソロ / 2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒  / タボチェ峰東壁単独初登 / チョラッシェ峰北壁単独初登 / ガッシャーブルムⅡ東峰北東壁初登 等々のソロ・クライムに異彩を発揮。 

尚 小生の壺公夢想https://thubokou.wordpress.com/2015/10/12/】にて詳細記載。

 

動画資料:Ueli Steck New Speed Record Eiger 2015 =クリック➡ https://youtu.be/NfpYNr7es0Y

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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