○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 南極の夢 =3/4= ◇◆冒険そのものは、十分に可能だ。しかし、技術的には可能であるとしても、アルゼンチンとアメリカ、2つの国の協力を得られなければ、行動がとれない。そこにこそ大きな困難があることを、植村はこの段階ですでに予知していた。今回、アルゼンチン基地に入ったのも、南極単独横断の偵察のためとは、一言もいっていない。見学し、報道することが目的ということで、軍の許可を得た。
アメリカの協力については、まだ正式に打診したわけではなかったが、タイム・ライフ社に相談はしてみていた。アルゼンチン軍よりさらにガードが固そうなことは感触として得ていた。いずれにしろ、両国の軍の協力が南極単独横断の成否をきめる要になるだろうと、植村はこの時点で予見していた。そしていっぽうでは、なんとかなる、なんとかしなければ、と植村らしい陽性の楽観もあった。そうでなければ帰国してすぐ後、同年5月に犬橇習得のためにグリーンランドに行くことなどできなかっただろう。
もう数日で船が出港地であるウシュアイアに帰りつくという日、植村は船上でギョッとするようなことを書いている。
浮氷の多い海面を見ていると、きっと北極海もこのような感じなのだろうと思う。
《……この南極横断の許可がアメリカからとれない場合、北極点旅行にきりかえるか。ここまで南極横断のために進めてきている以上、許可がでないので中止などといわれても引きさがれない。これを北極点にきりかえて決行しなければならない事になるかも知れない。そのためにもこの春のグリーンランド行きは、トレーニングの他にも北極海の氷の偵察も重要になってくる。》(1月28日付)
「引きさがれない」という。「北極点にきりかえて決行しなければならない」という。そんなふうに植村は考えているのか、とこの偵察行を終えた後に日記を見せられて、私は少し驚きながら思ったのだった。南極単独横断という大きな夢を彼は生きようとしているのは確かだが、そのいっぽうで、とにかく行動していたい。日本にいて平凡な日々を送りたくない。体を動かしたいのだな、と私は思った。
私事にからめていうと、私は71年11月30日付の植村の手紙を受けとっている。発信はブエノスアイレスから。アルゼンチン海軍からベルグラーノ基地に入るための正式の許可が下りたことが報告されている手紙である。その末尾に、スケジュールが書きとめられていた。それによると、72年1月上旬、ウシュアイア港を出発。1月いっぱいベルグラーノ基地滞在、偵察。2月上旬又は中旬、帰港。2月下旬、ブエノスアイレスから東京へ。
そこまでは、この通りに進んだ。その後につぎのような3行があった。
3月末~7月 グリーンランド / 10月 東京→南極(マクマードル基地) / 11月上旬 南極横断出発
私は、現実的に考えてこうはいかないだろうと思った。マクマードル基地とはアメリカ軍のそれである。ただしそのアメリカにはまだ正式に接触してはいない。アメリカの軍関係に犬橇横断への援助をもちかけるには、当の植村が犬橇に習熟していることを説明しなければならない。それだけとっても、南極横断に実際に向かうのは、まだしかるべき時間を経ての後だと私は考えた。
そして予想通り、植村がグリーンランドから帰国したのは73年の7月である。74年の5月に結婚。同年11月、北極圏一万二千キロの犬橇旅行のために、出発点のグリーンランドに向かった。
南極の夢は前方に輝いているまま、植村自身の行動はそれに向かって直進はせず、大きく迂回することになる。しかしこの迂回は、それ自体が冒険史上の壮挙になるものであったことは、この連載で既に見てきた通りである。
ここまでは、南極単独横断の夢がどのように現われ、どのように根を下ろしたかをみるために、72年の日記をややくわしくたどってみた。
そして10年後の82年。長年の夢を実現すべく、植村はウシュアイア港からアルゼンチンのサンマルティン基地に向かった。アルゼンチンの南極軍事基地の一つで、ここを基点にして犬橇による単独横断を行なう。アルゼンチン軍部の協力の約束をすっかりとりつけ、グリーンランドから犬と犬橇を運びこんだ。コースも方法も、アルゼンチン軍部の協力だけで実行できるようなものを考えた。
2月3日から植村は日記、メモを丹念につけはじめている。
毎日放送のディレクターやカメラマンが同行し、単独行の開始にそなえている。植村はこの取材に全面的に協力し、放送用の原稿を、たとえばサンマルティン基地のスタッフ紹介とか、周辺に見る動物たちとか、項目にわけて書いたりもしている。
しかし慎重な準備と、じりじりするような待機のすえに来たのは、軍は協力できない、よって行動の中止という結論だった。長い待機の末に、植村のあのいいようのないほどの暗い顔がある。冒険を開始し、その結果として失敗したわけではない。出かけられないのだから、この長すぎる待機は長すぎるという意味しかもち得なかったのではないか、とさえ思ってしまう。だから日々の経過を追いかけることは、ここではやらない。
=補講・資料=
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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