○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =1/5= ◇◆植村直己は、1978年4月29日、北極点に犬橇で到達。犬橇による単独行というのは世界で初めてのことだった。 3月5日にエルズミア島(カナダ領)のコロンビア岬に飛行機で降り立ち、以後56日かけて約800キロを走破したことになる。
この冒険は、さらにもう一つの冒険と一組になっていた。 北極点到達後、帰路を少しずらしてグリーンランドの北端モーリス・ジェサップ岬をめざす。 そこからグリーンランドの広大な氷床に登り、グリーンランドの北端から南端まで、単独、犬橇で走る、というものだった。
このグリーンランド縦断は、北極点到達が予定より遅れたため、北極点からの復路でというわけにはいかなくなって、北極点からモーリス・ジェサップ岬まで飛行機で運ばれ、5月12日に改めて出発した。 そして8月22日、グリーンランド南端のヌナタックに到着。走行距離は3000キロに及ぼうかという長大な犬橇冒険旅行だった。
北極点単独行とグリーンランド単独縦断。 二つの異なった冒険を一続きのものとして行なおうとした発想に、植村の自信を見ることができる。 実際37歳の植村直己は、体力気力ともに充実していた。
そうには違いないけれど、二つの冒険を一気にやってしまおうとした彼の心情については、後に改めてふれてみたい。
植村は、3月5日コロンビア岬の一角に、17頭の犬たち、犬橇、犬橇にのせた装備と食糧とともに、ひとりで立っている。このコロンビア岬は、1909年に初めて北極点に到達したロバート・ピアリ(アメリカ)の犬橇隊の出発点でもあった。
北極点到達までの56日間は、(1)すさまじい乱氷帯との格闘、(2)白熊の襲来、(3)悪夢にも似たクラック(開水面)をどうかわすか、の三つが行動のテーマだった。 くわしくはこの冒険の記録『北極点グリーンランド単独行』(1978年、文藝春秋)を読んでいただくしかないが、ここでは右にあげた3点に焦点をしぼって触れておきたい。 その前に、この冒険行の装備について。
まず橇。オーロラ号と名づけたこの橇は、幅96センチ、長さ4.5メートル。 後部の長柄とランナーは固いカシ材を使い、ランナーの底部すなわち氷との接触面はプラスチック板を貼った。 床板だけが米松材である。 この橇はグリーンランドのカナックで、橇つくりの名人といわれるイッキャングワに依頼して作ってもらった。 頑丈そのものだが、150キロと並はずれて重いのが難点、と植村はいっている。
なお、4月1日にこの橇を新しい橇と換えている(飛行機による補給時に運搬)。 新しい橇は、幅は変わらず、長さが4.15メートルと少し小さくなった。 カシ材を使わず、すべて米松で作り、ランナーはプラスチックから鉄板に換えたが、最大のポイントは重量が50キロ減って100キロ弱になったこと。 極点へのコースではそれが有効、と植村は判断した。
次に装備類。 4重張りのテント。 幅2メートル、長さ2.2メートルで柄のない4本骨の傘のような構造で、張るのも撤収するのも1分とかからない。 シュラフ2枚。これは二重にして眠る。 それでも寒くてたまらない、と植村はいっている。 石油コンロ、食糧などは、前の北極圏一万二千キロの旅とほぼ同じである。 ただ、犬の食糧としてペミカンを大量に用意した。
そして、橇をひく犬たち。 最初は17頭だった。
積荷のなかで新しいのは、三つの無線機である。 まず、支援隊のいるオーロラ・ベースと交信するための1機。今度の北極点への旅は、カナダ最北の基地アラート・キャンプの近くの小屋に、後援会事務局が支援隊を派遣した。 ヨットマンの多田雄幸氏と、学習院大学の学生鈴木喜久治氏の2人。 それに随時報道陣が加わった。
もう一つ重要な無線機は、米航空宇宙局(NASA)が開発したDCP(Data Collection Platform)。 スウィッチを入れておくと、気象衛星ニンバス6号が電波をキャッチし、植村の位置、天候などを記録して、ワシントンの宇宙科学センターに情報を送る。 スミソニアン研究所の好意によってDCPを使うことができた。
三つ目は、ロケーターと呼ばれる非常用携帯無線機。突然海にはまったような緊急時にボタンを押すと、北極圏上空を飛んでいる飛行機がこれをキャッチして、いずれかに危急を知らせる。
植村の冒険成功後、この無線機の使用を批判した意見があった。保険に手厚く守られた行動を冒険行といえるかどうか、と。
=補講・資料=
1954年- ドイツのカール・ヘルリコッファーが南西からの登頂に挑戦するが、嵐と寒さのために断念する。 1957年- マルクス・シュムック率いるオーストリアの登山隊4人(ヘルマン・ブール、フリッツ・ウィンターシュテラー、クルト・ディムベルガー)によって初登頂(無酸素)。隊員の一人であるブールは、登頂の数週間後に近くのチョゴリサ峰(7,654m)の登山中に命を落としている。 1975年- ポーランド隊の5人が中央峰に初登頂するが、下山中に3人が死亡。 1984年- イェジ・ククチカ、ヴォイテク・クルティカが北峰、中央峰、主峰の縦走に成功。アルパインスタイル。 1988年3月6日- ポーランド隊のマチエイ・ベルベカが前衛峰に到達し冬季カラコルムで初の8000mラインを突破するが主峰の登頂には失敗。 1991年7月30日- 小西浩文、山野井泰史ら8人が無酸素登頂。 1995年7月20日- 戸高雅史、北村俊之、服部徹の3人がアルパインスタイルで北峰~中央峰~主峰の縦走に成功。 1998年7月22日- エリック・エスコフィエ、パスカル・ベジェールが頂上稜線で暴風に飛ばされ遭難死。 2006年にはオーストリアのマークス・クロンタラーが登頂するも下山中に遭難死。翌2007年にマークスの兄のゲオルグらがマークスの遺体を収容した。 2008年7月31日7月31日 - 竹内洋岳がクラシックルートを無酸素ワンプッシュで登頂した。 2013年3月5日- ポーランド隊のアダム・ビエレツキら4人が冬季初登頂に成功するも、マチエイ・ベルベカ、トマス・コワルスキの2名が下山中に行方不明に。 動画資料: 8000m峰の危険 =クリック➡=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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