○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =2/5= ◇◆植村自身が、この無線機の使用について次のように書いている。 極地ではたとえばオーロラが出たりするとたちまち電波状態が悪くなる。 いつも使用可能というわけではない。 《また、交信が可能だとしても、突然のアクシデント(中略)が起きたとき、いくら緊急連絡(エマージェンシー)を送っても、救援の飛行機が飛来するためには、最低十二時間はかかるから、とても間にあわない。 私は通信網に頼りすぎてはならないことを肝に銘じている。 自分以外を頼りにすることは、冒険旅行においてきわめて危険なのはいうまでもない。》
無線機が命を保証する部分は、なくはないけれど、ごくわずかということは、冷静に考えればすぐにわかることだ。この北極点単独行は、大々的に募金を行なったこともあって、国民が注目するところとなった。 その視線を意識して植村は無線の持参を決意したところがあるのではないか。 もう一つ、ここでいっておきたいことがある。 費用のことである。
北極点単独行でもグリーンランド縦断でも、食糧をはじめとする物資の補給を飛行機を使って行なうことが不可欠になる。 ピアリが1909年に初めて北極点に到達したのは、大勢の人数が参加して次々に物資を先に送り、それを使いながら旅をしたからであった。 これを極地法というが、単独行ではもちろんこの方法は使えない。 飛行機による補給を採用するしかない。
いうまでもなく、飛行機による補給は、これまでの植村の冒険からすればケタ違いに金がかかる。 マスコミの一部は、そのことをあげつらって植村の冒険を疑問視した。 私はこの言説につき、あまりにバカバカしくて反論する気にもならなかった。 植村の冒険は、テレビ局や新聞社がくわだてる大規模なイベントにくらべれば、費用は最小限である。 飛行機の補給のための大口出費を除いたら、ギリギリの費用で計画全体が運ばれている。
ただし、単独行だから、植村一人にかけられる費用としては、その金額はあるいは大きいと見えるかもしれない。 植村は、冒険終了後、その費用の一部を背負って、講演とかイベント参加とかで文字通り涙ぐましいほどの努力をして、自ら負担した。 有力組織の金づるに乗っかっての冒険とはまったく違うのである。 私は最後までつましく生きた植村を思う以外にない。
さて、コロンビア岬の植村に戻ろう。 初日から植村は乱氷帯に悩まされた。 自分を運んできた飛行機が飛び去った後、植村は静まりかえった氷と雪の世界で、まずルートの偵察をはじめた。 気温はマイナス51℃。 近くにある10メートルほどの氷のブロックによじ登り、北の方面を眺めて愕然とした。 こんな光景が目に映った。
《飛行機の上から何度か観察して、ある程度覚悟はしていたつもりだが、やはり愕然とした。 なんというものすごい乱氷帯なのだろう。 機上から見た乱氷は、けっしてその正体を見せてはいなかったのだ。 いま私の行く手に、ひとつとして同じ形のない大小の氷のブロックがひしめきあっていて、視界の果てまで続いている。 薄明の中に濃淡の変化をつけて浮びあがる氷のブロックの堆積は、あまりに圧倒的で、むしろ幻想の中の光景のようだ。》
薄明の中に、とあるのは、まだ北極圏の空に太陽が戻ってきていないからである。 太陽が水平線の低い位置に顔を出すようになったのは3月9日からだった。 初日の3月5日は、打ち続く乱氷の光景に圧倒されたまま、テントを張って、二重の寝袋のなかに身を横たえるだけだった。 6日は周辺を歩きまわって橇のルートを探索しただけ。
翌7日から、苦闘がはじまる。とても橇の上に乗っているどころではなく、エスキモーが用いるトウという長さ3メートルほどの鉄棒をふるって、乱氷を自分の手でくずし、犬たちが走る道をつくる。
以後、3月28日頃まで、乱氷の「氷の藪の中」で右往左往する日が続いた。 もちろん、ほんのわずかながら、北をめざして進むことは進んだ。 しかし1日に2キロから5キロほど、というのでは、誰よりも植村当人があせらざるを得ない。 トウで道をつけていくのは、体力の消耗もきわめて激しい。
=補講・資料=
ドゥーガル・ハストン: ダグ・スコットやクリス・ボニントンのパートナーとしてアンナプルナ南壁やエベレスト南西壁の初登攀を成功させたイギリスの最強クライマー。 若いころはいたずら落石合戦や山小屋荒らし、遭難者の遺品のネコババなどに手を染める手の付けられない悪童だった。
交通事故を起こし二度も収監されるなど私生活でも破滅型の人間だったが、マッキンリーで連日のビバークを強いられ、ダグ・スコットも躊躇する状況で発した「まだ凍傷になっちゃいないんだろ?」は彼の心身のタフさを示す名言としてよく知られている。 1977年にラ・リオンダーツでスキー滑降中に遭難死
1940年4月19日、スコットランドの首都エジンバラの郊外の田舎町で、パン職人の息子として生まれました。 子供時代は、学校や教会に欠かさず通う結構真面目な生活を送っていたようで、地元の有力者で後に国会議員になる人物の設立した「カリー・ユース・クラブ」というアウトドアの会に 入会しる。 ここで彼はエジンバラから100km離れたグレンコーという場所で、初めてロッククライミングを経験し、すっかりはまって友人と近くの川辺や鉄道の切り通しでクライミングの真似事をしている。 また、『8000mの上と下=ヘルマン・プール』=』『星と嵐=ガストン・レヴィファ=』などの本も読みふける。
しかし、この後16歳ぐらいから友人と悪事にも手を染めます。 酒を飲んで喧嘩なんていうのは当たり前で、落石合戦と言って、山の上から石を落としたり、遭難者のものらしきアックスや時計を持ち帰ったり、挙句の果てには山小屋の窓を割って勝手に利用したり、万引きしたり、で どうしようもない若者になっていった。
そんな彼らもクライミングには精を出し、ジミー=マーシャルという8歳年上のスコットランド・ジュニア山岳会のメンバーは、毎週末彼らをバスに乗せて岩場に行き、クライミング技術を指導した。 そして彼はドゥーガルが18歳の時ウェールズ、19歳の時ドロミテへと導きます。 ただ、彼はそんな風に実力を挙げても、恒に追い越せないロビン=スミスという2歳年上のライバルがいた。
ドゥーガルと組んでもいつも核心はロビンがリードし、その年にはグランドジョラス北壁ウォーカー稜も完登しているなど優秀なクライマーで、いつもナンバー2の位置に甘んじていたのです。 そして20歳の時、交通事故を起こして人を死なせて、刑務所生活を送ります。 しかし、そのロビンも1962年、パミールのガルモ峰(6595m)に登頂後、遭難してしまいます。これにより、ドゥーガルがスコットランド最強のクライマーと呼ばれるようになった。 ・・・・・つづく
動画資料: Annapurna South Face 1970 =クリック➡=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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