○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 故郷・・・・・・・・ =2/4= ◇◆
植村の『青春を山に賭けて』(文春文庫)では、海外放浪旅行の費用については、かなりあいまいな記述になっている。 アメリカまでの片道切符の10万円をつくるのに手いっぱいだった。 大学4年の後半、工事現場のアルバイトに精出したが、10万円を払い込むと、東京での生活費すらなくなった。 くわしく説明しているわけではないが、およそ右のように受け取れる文章である。
ところが、郷里で聞いた長兄の修氏の話は少し違っていた。 64年の冬、大学卒業を間近にひかえて、植村は実家に帰ってきた。 そこで家族の前で「卒業後、外国へ行きたい」という話を切りだした。 両親、とくに母の梅さんは頭からこれに反対した。
すると植村は夜なのに家を飛び出し、円山川にかかる上郷橋の欄干につかまって、長いことシクシク泣いていた、というのである。 ただし、家族の間には異説がある。 「あれは(直己が)我を張って、泣くマネをしていたのだ」というもの。 こっちのほうがおもしろいかもしれない。
しかし、反対された植村にしてみれば、事態は深刻だった。修氏によれば、「ふだんはおとなしくていい子」のはずの末っ子は、夜中まで外で泣いた後、家に帰ってフトンの中にもぐりこみ、3日間の断食をやった。 ハンガー・ストライキとは、ずいぶん古典的な手段を使ったものである。
両親はネを上げて、判断を修氏にゆだねた。 植村より10歳年上のこの兄は末弟を内心可愛がっていたようである。「弟があれだけ思いこんでいるんだから、やっぱり聞いてやらにゃあなるまい」と考えて、片道の船賃を工面してやることになった。
私はこの話を84年の春に聞いた。 その話をある文章のなかに書き留めておいたので、今それに拠って復原してみたのである。
また、そのときに周辺の関係者に聞いた話では、「130戸の上郷集落のなかで、植村家は経済的には上の部」ということで一致していた。 父の藤治郎さんは働き者であるうえに才覚のある人で、農業をやるかたわら縄の製造を手がけた。 家の一角に設けた小さな工場がしだいに大きくなって、やがて畳の製造を行なうようになった。 藤治郎さんが隠居した後、修氏が家業をついでいよいよ手広く工場を経営している、というのが84年に訪れたときに目にし、耳にしたことだった。
植村は実家のことを語るとき(その必要が生じたとき)、「貧農で、自分はそこの四男坊」とことさらに卑下してみせたが、事実は大違い。 古くからの村落のきまりとして、長男以外は家を出て町に行き、自分で暮らしを立てなければならないということは植村の身にも及んでいたにしても、この末っ子はけっこう甘えん坊で、両親やきょうだいの暖かさのなかで、のびのびと少年時代を送っていたと思われる。
植村は他人をだまして内心ニヤリと笑うという人柄とはほど遠かったが、不要な卑下癖、謙そん癖は、生涯彼の看板みたいにしてついてまわっていた。 それを大げさに考える必要もないけれど、いちおうはだまされないように留意しておかなければならない。
植村が実家の前で母親の梅さんと話をしている写真がある。 71年の秋、日本列島3000キロを徒歩で縦断したときに上郷の実家に立ち寄った折のものだ。 母と子の何気ない表情がほのぼのとしていて良い。 冒険家に、暖かい家があったことを思わせるのである。
最初にいったように、日高町上郷は円山川の右岸に位置し、あたり一帯は円山川がつくったさして大きくはない盆地といっていいだろう。 ただしこの盆地は、まずは気候も穏やかで物成りもゆたかだった。 早く奈良時代から国分寺が置かれ、あわせて国府があったことが、それをよく語っているであろう。
現在、豊岡市は、海にほど近く、丘の連なる場所を選んでコウノトリの繁殖に力を入れている。 この昔からの留鳥が日本各地で見られなくなってひさしいが、豊岡市がなんとかこの鳥を復活させようとつとめているのは、古い土地柄である但馬盆地にふさわしいことにも思われる。
話が少しとぶが、2009年の4月、私は植村の郷里周辺を特別な目的もなくふらふらとうろつきまわった。 ちょうど満開のサクラが散りはじめる頃で、春の但馬はおだやかで美しかった。
案内の労をとってくれたのは、日高町にある植村直己冒険館の吉谷義奉館長(当時、現在は豊岡市の観光課長)、それに植村の小、中学校の同級生だった正木徹氏である。
ちなみにいうと、日高町の植村直己冒険館は、93年に当時の清水豊町長の一念で建てられたものである。 冒険館は田舎にはめずらしいほどモダンで軽快な雰囲気をもつ建物で、現在でも少しも古びた感じがない。 よくぞ思い切ってつくってくれたものだと思う。
=補講・資料=
ヨーロッパアルプス3大北壁の一つ、グランドジョラス北壁を試登なしで初登頂したイタリアのレジェンド。 第二次大戦中は反ナチスのパルチザンとして戦った。
戦後もK2の偵察やボナッティが初登頂したガッシャーブルムⅣ峰遠征の隊長として活躍。 マッキンリーでは52歳と言う高齢ながら新ルートの登頂も果たし、その偉業は「カシンリッジ」として現在に名を残す。
78歳でピッツ・バディレに再登頂、85歳まで登山を続けるなどスーパーおじいちゃん振りを発揮し、2009年に100歳で大往生。
ピッツ・バディレ北東壁 初登頂
グランドジョラス北壁 初登頂
マッキンリー カシンリッジ 初登頂
ヒリシャンカ西壁 初登頂
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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