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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =036=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆  『青春を山に賭けて』の時代 =5/9= ◇◆、

 南米の旅が終わった後、日本に帰る。 どのような生活の道を選ぶかはまだ決めてはいないが、「どんな仕事であれ、自分に定職を持つことこそ、真の人間として生きる価値があるように思われる」と。 日本に帰った後に、自分の「本当の生活」が始まるのだ、と真剣に決意を記しているのだ。

 しかし、同年10月1日に帰国してみると、定職をもつという決意はそれが自然の法則であるかのように、ごくあっさりとひっくり返る。 とても会社勤めをする気にはなれない。 金を稼ぐためにアルバイトをするが、その単調な仕事はしだいに耐えられなくなり、「無性になつかしく思い出されるのは、無銭旅行のはずみで敢行したアマゾン河のイカダ下降のことだった」というぐあい。

「よし、こんどはアコンカグアの冬の単独登山と、アマゾン河の河口からボートでさかのぼる旅をやってやろう」

 放浪の日々を楽しく思い出すなかで、そんな計画が頭に浮かぶ。 そして、アルバイトで資金を溜め、もう一度日本を飛び出すことを考える。 「私は、つねづね自分の中に夢さえあればほかに怖いものはないと思っている」(以上の経緯は『エベレストを越えて』文春文庫からの引用)。

 居直っているのは確かだが、こうした居直りのほうが植村にとって自然である、と思われる。 帰国して、フランス語を生かすような会社に勤めました、という道を選択したとしたら――というケースは想像もつかない。

 植村の68年年頭の決意が、決意の安売りのように軽いものだった、といいたいのではない。 真剣に決意し、真剣にそれをひっくり返す。 それが植村だ、と考えてもよい。 あるいはもっと単純に、自由な放浪のなかであれだけの達成感を味わったら、東京で定職につくのは何にもまして困難になっている、と自然に納得できるのだ。

 彼は本気で再び海外へ出ようとしていた。 その資金援助をしてくれるスポンサー探しを明大山岳部の先輩に相談している。 そのようなとき、別の明大山岳部の先輩、大塚博美氏から誘いがあった。 日本山岳会のエベレスト遠征に参加しないか、というものである。 69年4月中旬のことだった。 植村にとっては願ってもない好機到来だった。

 日本エベレスト登山隊の遠征は、1970年の2月中旬から始まったが、前年、第一次、第二次と二度にわたる偵察隊派遣があり、植村はどちらにも参加した。そればかりではなく、気象担当の井上治郎隊員と2人、越冬隊員としてヒマラヤ山中に残り、別々の場所で冬を越した。

 69年4月23日からの第一次偵察隊は藤田佳宏隊長以下、植村を含めて4人。8月20日に羽田空港をたった第二次偵察隊は、宮下秀樹隊長以下、植村を含めて7名、それに後援の毎日新聞を中心に数名の報道陣が加わった。さらに植村と井上隊員が第二次偵察終了後そのままネパールにとどまり、ヒマラヤ山中の村で越冬したのである。

 先に結果を記すと、70年5月11日、植村は松浦輝夫隊員とともに日本人として初めてエベレストの頂上に立った。また、翌12日、平林克敏隊員とシェルパのチョタレイが第二次登頂に成功した。

 この日本エベレスト登山隊への参加は、私のいう『青春を山に賭けて』の時代の最後のあたりに当っている。したがって同書にも経緯がしっかり語られている。しかし、それとは別に、植村は82年に『エベレストを越えて』(現在、文春文庫)を刊行し、世界最高峰と自分とのかかわりを徹底的に語っている。この本によって、日本山岳会が総力をあげて実現したエベレスト登山隊と、その一員だった植村の動向をくわしく追跡することができる。

 しかし、私はここで植村のエベレスト登頂を本を下敷きにしてなぞろうとするのではない。『エベレストを越えて』の記述のもとになった、偵察行と越冬時の覚え書と日記が残っている。本と日記・覚え書の双方によりながら、特に興味をひかれた部分について立ちどまって考えてみたいと思うのである。

 そんなふうに話題を拾っていくと、70年2月から始まる本隊の登山行以前の、2回にわたる偵察行とクムジュン村での越冬がなぜか主体になってしまう。とくに、その時の覚え書に心を打つ記述が多かった。以下、アト・ランダムに話題を拾いあげてゆくことにする。

 第一次偵察隊は、報道の毎日新聞・相沢記者を含めて4人。本格的な登攀ルートを探るべくもない。ベース・キャンプ(B・C)の予定地に入り、日本エベレスト隊が掲げた「南壁を直登して頂上へ」という、南壁ルートの可能性を「観察」することにあったようだ。

 

=補講・資料=

 メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=リオネル・テレイ

 ガストン・レビュファ、ルイ・ラシュナルとともに「三銃士」と呼ばれた1950年代のフランスを代表する登山家。 アンナプルナ初登頂では最終アタックを親友ラシュナルに譲りサポート役に徹したが、登頂後に下山ルートを見失い遭難寸前に陥った2人を救出した活躍から「アンナプルナの天使」「無償の征服者」と賞賛された。

アンナプルナ以降、レビュファがヨーロッパアルプスに専念するのと対照的にテレイは先鋭的な海外遠征に邁進、難峰中の難峰を次々に陥落させた。 しかし、グルノーブルでロッククライミング中に墜落死。 ※ アイガー北壁 第二登 ※ ジャヌー 初登頂 ※ マカルー 初登頂 ※ ハンティントン峰 初登頂

リオネルテレイは登山ガイド、スキーインストラクター、戦二次世界大戦中にはドイツに対するアクティブな山岳兵であった。戦争の後、シャモニーの登山者として幾多の悪名高いアルプスの高峰を迅速な登攀速度で知られるようになる。 ウォーカバットレス壁、グランドジョラス北壁、針峰のエギーユ、アイガー北壁等々を試登。 頻繁に登山仲間のルイ・ラシュナルと共に、登山速度記録を破り、新しい登行ルートを開いていった。

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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