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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =037=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  『青春を山に賭けて』の時代 =6/9= ◇◆

 ネパール・エベレスト街道途上のルクラまで飛行機で飛び、そこからエベレストの麓にひろがるクーンブ氷河の奥のベース・キャンプ予定地まで4人のシェルパ、数名のポーダーをしたがえて歩く。 この道中は無銭旅行になれた植村にとってはまさに大名旅行だった。 彼は卒直にそう書いている。

しかし、クーンブ氷河最奥部、アイス・フォールの取付点近くにB・Cを張り、エベレストに直面すると、植村も他の隊員も一気に特別な恐怖感につかまえられる。

 アイス・フォールの半分まで登ったとき、後方で大崩壊が起こり、耳を圧する音響とともに足元がぐらぐらと揺れた。 シェルパたちは運んでいた丸太を放りだし、植村にすがりついてきた。 植村の足もふるえた。

 そこで植村は次のような感想を書き記す。 アイス・フォールの崩壊を自分たちの手で食い止めることはできない。 運しかない。 運を黙って受け容れるしかない。

 アイス・フォールの半分まで登ったとき、後方で大崩壊が起こり、耳を圧する音響とともに足元がぐらぐらと揺れた。 シェルパたちは運んでいた丸太を放りだし、植村にすがりついてきた。 植村の足もふるえた。

 そこで植村は次のような感想を書き記す。 アイス・フォールの崩壊を自分たちの手で食い止めることはできない。 運しかない。 運を黙って受け容れるしかない。

《山に登るとはそういうことだ。 新しい記録を追うにしろ、名誉のためにせよ、特殊なスポーツと考えるにせよ、登山が目的である以上、登山隊のメンバーにかりに犠牲者が出てもそれはやむを得ない。 その点についてシェルパはどう考えているのだろう。 彼らは生活の糧(かて)のため、家族を養うために雇われてきているだけだ。登山のため万が一にも命を落とす理由はどこにもない。 そう考えるにつけ、せめて彼らに出す指示は、慎重を期さねばならないと反省した。》(『エベレストを越えて』「第一次偵察隊」)

 私は、植村のシェルパへの思いやりのこまやかさだけをいいたいのではない。 大登山隊を派遣し、現住民であるシェルパに賃金を払って手伝わせる。 そういう近代登山のあり方を植村が冷静に見ていることに驚きを覚えるのだ。 冷静に見つつ、彼はシェルパという存在を発見している。

 第二次偵察隊のとき、何かの事情で植村がシェルパとともにB・Cに先行し、アイス・フォールの下でテントにひとりで過した夜があった。 そこでさまざまな省察にふけったことが日記に記されている(9月14日付)。

《俺たちは命をかけてこのエベレストに登りに来ているとはいえ、このネパールの人達、ナムチェ辺りの高地山岳地帯に住むシェルパ族達は、生活がまずしく、生きるために我々の重い荷物を背負いにやって来ている。 まだ小学生にも満たない小さな子供が、まだ童顔の可愛い小娘が、生れたばかりの赤ん坊をつれてきている母親が、ツエをつかなくては歩けないお爺、おばあさん連中まで村中こぞってお金になる荷運びに命をかけて、生きるための仕事をする。 ここにははかり知れない人間の差がある。 三度の食事も満足に取れず、自分の生れた地が最高の地とばかりに生きているシェルパ族。》

 そう綴った後、何か彼らのために自分がしてやれることはないかと、ため息をついている若い植村を、私は限りなく好ましいと思う。日記のつづき。  《今の俺には何も出来るプランも力も持っていない。そういう自分がエベレストで遊んでいて淋しい限りである。それでも今回第二次偵察終了後、来年の本隊がやってくる迄の冬の間を、ナムチェバザール辺りでシェルパ族の中に入って生活が出来て、何かをつかめるかも知れないということが嬉しい次第である。》

 しかし、留意すべきは、植村が決していい子ぶっているのではない、ということだ。

 第一次偵察隊のときのキャラバンで、若い娘のシェルパニ(シェルパ族の女性)に情が移った。 そのシェルパニの写真を撮って東京で焼き付け、二次のこのたび、持ってきて娘に渡した。写真と、日本から持ってきたちょっとしたおみやげに、娘が喜んでくれるようすが忘れがたい、と前の引用文の前に記している。植村の思いの流れ方は、いかにも自然で、矛盾をはらんでいるのだけれどそれが少しも気にならないばかりか、かえって好ましく思えてしまう。

 第二次偵察隊は宮下隊長以下7名が、すべて傑出した登山家たちだった。9月12日にベース・キャンプを置いたときは、植村はそんなに高揚していなかったが、南壁を試登するあたりからしだいに気力が充実してくる。そして岩登りのエキスパートである小西政継隊員とパートナーを組んで南壁の8000メートルの地点にまで到達。エベレストの魅力に改めてとりつかれた、と本のなかで書いている。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=パブル・コジェック

パブル・コジェックは精強なクライマーを多数輩出したスロベニア出身。 スロベニア人初のエベレスト無酸素登頂を皮切りに、シシャパンマ南西壁新ルート、山野井泰史に続くチョー・オユー南西壁新ルート単独登頂など輝かしい成果を上げた。 そのチョー・オユー単独登攀の直後、ナンパ・ラで中国軍によるチベット人亡命者の射殺現場に遭遇。 そのシーンを押さえた動画は世界を駆け巡り、登攀の成果よりもこちらの映像で衝撃を与えてしまった。 2008年にムスターグタワー登攀中に遭難死。

※ シシャパンマとはチベット語で「牛も羊も死に絶えて、麦も枯れる地方」の意味。全部で14座ある8000m峰の中で、完全に中国領内(チベット)にある唯一の山である。 また8000m峰の中で、世界で最後に登頂された山である。なお標高に関しては8012m、または8013mとする資料もある。

※ チョー・オユー南西壁:チョー・オユーはシェルパ語語で「トルコ石の女神」の意味。全部で14座ある8000m峰の中では最も登りやすい山とされ、多くの公募隊が組まれている。 エベレストの前哨戦として選ばれることの多い山でもある。 ただし登りやすいといっても、それはノーマルルート(北西稜)のことであって、南西壁は標高差2000mの大岩壁となっており、技術の卓越した登山家のみが選択するルートとなっている。

※ ムスターグ・タワー 7273~7284m (パキスタン カラコラム バルトロ山群) ネパールヒマラヤの怪峰がジャヌーならカラコラムの怪峰はこれ。異様な形状で屹立し多くのクライマーの憧れとなった。 1956年 – イギリス隊とフランス隊の初登頂争いとなり、わずか五日の差でイギリス隊に凱歌があがった。 イギリス隊のジョン・ハートッグらにより初登頂される。 2012年8月25日 – ロシア隊隊のセルゲイ・ニロフ、ディミトリ・ゴロヴチェンコらにより北東壁ルートで初登頂。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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