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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =08=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ ブルボン朝王妃になる・・・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネットは、内向的な夫君・ベリー公とは正反対の気質であった。 ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、母親であるマリア・テレシアや長兄ヨーゼフ二世の善政を模した行為をなしている。 ルイ16世がブルボン王朝第五代のフランス国王に推戴されて、戴冠する二週間前の1774年4月27日に、国王ルイ15世が天然痘で倒れた。 病状が悪化して助からぬと悟った彼は、神への懺悔のために愛人デュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かさせた。 そして、5月7日、ルイ15世は告解を行い罪の赦し受け、五月9日に64歳で崩御した。 19歳になる孫のベリー公がルイ16世として即位するのであるが、彼は「私は何一つ教わっていないのに」と嘆いたと言う。

 蛇足ながら、フランス宮廷内でのアントワネットの立場を微妙にならしめたルイ15世の愛娼デュ・バリー夫人のその後について触れておこう。 ルイ15世の看病に努めていたデュ・バリー夫人だったが、5月9日にはポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が出され、危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられた。 追放同然に宮廷を追われたのである。 彼女は不遇な一時期を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーvシェンヌに起居し、優雅に過ごすようになった。 その後はド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になった。

 デュ・バリー夫人は1789年に勃発したフランス革命により、愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥を虐殺された後、1791年1月にイギリスへ逃れ、当地で亡命貴族たちの援助した。 しかし 1793年3月に隠し持っていた財貨をイギリスに持ち出そうと帰国した際に革命派に捕らわれると、12月7日にギロチン台へ送られた。 この時の死刑執行人のサンソン(シャルル・アンリ・サンソン)と知己であった彼女は、泣いて彼に命乞いをした。 しかし、これに耐えきれなかったサンソンは息子に刑の執行を委ね、結局デュ・バリー夫人は処刑された。 なぜ彼女が危険を冒して帰国したのか真相は定かでないが、革命政府によって差し押さえられた自分の城=ルーヴシエンヌ城/ルイ15世の公妾になった際、下贈されていた=にしまっておいた宝石を取り返すのが目的だったという説がある。=前節イラスト参照=

 マリー・アントワネットの夫君・ベリー公が父ルイ15世の崩御の翌日(1774年5月10日)にフランス国王となり、翌年に、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行なった。 アントワネットはフランス王妃となった。 因みに、ランス大聖堂は496年、フランク王国の初代国王であったクロヴィスが、ランスの司教だったレミギウス(聖レミ)から洗礼を受けてローマ・カトリックに改宗して以来、歴代フランス国王の戴冠の秘蹟を授ける聖別式が行われるようになった。 816年にルイ1世が初めて戴冠式を行ってから、1825年のシャルル10世に至るまで、25人の王が現大聖堂で聖別を受けている。

 しかし、翌年 1775年5月、パリで食糧危機に対する暴動が起き、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。 この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。 アントワネットは、背後の部屋で民衆の熱気を感じていた。 彼女の体内には昼夜を言わずに 四六時中 欲求不満が蠢いていた。 ルイ14世、ルイ15世の積極財政の結果が、年若い国王夫妻を 即位直後から 慢性的な財政難に引き込んでいたのである。 ブルボン王朝はこの問題に悩まされていた。 しかし、国王夫妻にはこの問題にはあまりにも無知であった。 政局はそれにも関わらず、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極めていく。

 1777年4月、アントワネットの長兄が母マリア・テレジア=ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる=の意を体してウィーンから来たのである。 アントワネットは、日々の生活ぶりを 日々の不満を 母親に手紙で知らせていた。 長兄ヨーゼフ二世は義弟・ルイ16世に結婚の義務を説いたのである。 そして、ルイ16世は先天的性不能(包茎)の治療を受けた。 治療の回復後、力づけられたルイ16世は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。

  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。 そして、その後 長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)の4人の子供(2男2女)を授る。 子供が授かってからは自分の子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。 母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だった離宮(小トリアノン宮殿)を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていた。

 

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森のなかえ

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