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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =07=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 結婚とフランス宮廷の生活・・・・・・ ◆◇

  アントワネットは、結婚後 幾日もたたないうちにルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。 もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライード王女が率いるヴィクトワール王女ソフィー王女らに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。 =デュ・バリー夫人との対立=

 当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。 宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。 とはいえ、デュ・バリー夫人は朗らかで愛嬌がある親しみやすい性格で、宮廷の貴族たちからは好かれていたという。

 デュ・バリー夫人はシャンパーニュ地方の貧しい家庭に、アンヌ・ベキュの私生児として生まれた。 弟が生まれて間もなく母は駆け落ちし、叔母に引き取られて育った。 7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたジャンヌは、金融家の継父から大層かわいがられ、まともな教育を受けさせてもらえた。 15歳で修道院での教育を終えると、初めはある家の侍女をしていたが、素行上の問題から解雇される。 その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしていたようだが、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始めた。

 美しいジャンヌは、やがてデュ・バリー子爵に囲われると、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。 家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などがジャンヌの相手となり、その時に社交界でも通用するような話術や立ち振る舞いを会得した。 そして、1789年にルイ15世に紹介された。 その5年前にポンパドゥール夫人を亡くしていたルイ15世は、ジャンヌの虜になって彼女を公妾にすることに決める。 デュ・バリー子爵の弟と結婚してデュ・バリー夫人と名を変えたマリ・ジャンヌは、型どおりの手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾になり、社交界にデビューしていた。

 ルイ15世は迎えた皇太子ベリー公の妃アントワネットと愛妾のデュ・バリー夫人との対立に激怒した。 母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場。 アントワネットが歩み寄る機会を潰してしまった。

 2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。 だが この行為が、アントワネットと義妹のアデライード王女らとの距離を日増しに遠のけて行く。 一方では、マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、子供じみた鍵遊びをよく一緒にしている事より、円満だとみられていた。

 しかし、マリー・アントワネットは鬱積した欲求不満の結婚生活を過ごしていた。 夫君ベリー公(後のルイ16世)のふしぎな道楽といる錠前仕事と狩猟をすることで、専用の鍛冶場で黙々と槌をふるったり、獣を追って森を駆け抜けたりするのが、彼にとって何よりの幸福であった。 派手好きな妻とは趣味が合わないが、彼は妻に対して男性としての引け目を感じているので、まったく頭が上がらない。 生まれつき鈍感で、不器用で、優柔不断で、いかなる場合でも睡眠と食欲を必要としないではいられない彼は、およそ繊細とか、敏感とかいった気質と縁がない。

 つまり、妻とは正反対の気質の持主である。 といって、夫婦のあいだに風波が起ったということは一度もなく、この二人は子供こそないが、まことにのんびりした、平和な夫婦であった。 実のところは、夫・ルイ16世は一種の性的不能者で、結婚以来七年ものあいだ、アントワネットを処女のままに放置しておいたのである。 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった。 前節でアントワネットが賭博にも狂的に熱中し、王妃でなければ警察沙汰にだと言われるまでお気に入りの従僕と賭博場に通っていたと述べたが、賭博に関しては子が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

 アントワネットが夜のパリを徘徊し彼女が次々と快楽を追う気まぐれな生活のうちに、怖ろしい退屈を忘れなければならなかったのも、ひとつには、むなしく刺激を受けるだけで、一度たりとも満足させられたことのない、幾年にもわたる夜のベッドの屈辱の結果であった。 最初は単に子供っぽい陽気な遊び癖であったものが、次第に物狂おしい、病的な、世界中のひとびとがスキャンダルと感じるような享楽癖と化してしまい、もうだれの忠言も、この熱病を抑えることは不可能となってしまうのである。 革命が勃発し、革命裁判の被告席に立たされたアントワネットに、息子のルイ17世が非公開尋問で「母親に性的行為を強要された」と無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言したと論告される要因を生んでいく。

 1774年5月10日、ルイ16世がブルボン朝第5代のフランス国王に即位する。 マリー・アントワネットは王妃に就いた。 この王位就任二年後の4月にマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世(人民皇帝)がひどく心配し、ウィーンからパリにやって来た。 義弟のルイ16世に勧めたのが外科手術だった。 その結果、力づけられたルイ16世は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。 そして、その後 長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)の4人の子供(2男2女)を授る。

 

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森のなかえ

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