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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =06=

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その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 欧州一の帝国の王女・・・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュは、1755年11月2日、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。 ハプスブルク君主国の王女である。 欧州では並ぶことのない王族の一員である。 イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。 3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。 また、幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じるなど、自由闊達な皇室であった。

 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレシアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。 当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。 そのため、アントーニア=マリア・アントワネット=がフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

 政略結婚の背景は、ブルボン・ハプスブルク両家の確執である。 オーストリアとフランスの対立は、15世紀にさかのぼる。 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。 またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失った彼の娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ公女との再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたこと等から、両国の確執が始まっていた。 

 15世紀末葉から16世紀にかけては、イタリア戦争においてハプスブルク家のカール5世ヴァロア家フランソワ1世が対立している。 16世紀はじめ、カール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ、スペイン・ハプスブルク朝が始まるとフランスとしては東西のハプスブルク勢力から挟撃される状態となって、長いあいだ両家は宿敵の関係にあった。 フランスがブルボン朝に交代してからも、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていたのである。

 従って、17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた。 そのため、フランス外交の基本路線は、ドイツやイタリアの諸国、ポーランド、スウェーデン、オスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制し、あるいは場合によっては武力を行使するというものであった。

 「外交革命」はこうした、1世紀以上にわたって続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。そこには、植民地と貿易をめぐるイギリスとの長期にわたる対立があった。 また、プロイセンの台頭も両国にとっては懸念されるところであった。 「外交革命」後に起こった七年戦争では、ブルボン・ハプスブルクの両家が同盟関係をむすび、イギリス・プロイセンと戦ったのである。

 ここにおいて、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携するという構造は完全に崩壊した。 フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来からの国際秩序はいっそう再編が進むことになった。 そして 1770年、フランス王太子ルイとマリー・アントワネットの政略結婚が成立したのである。

 1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王国王アウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 しかし、1765年にルイ・フェルディナンが死去した。 1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 このときアントーニア=マリア・アントワネット=はまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始する。

 1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福されたのであるが・・・・・・・。

 

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