Quantcast
Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2016

現代の探検家《河江肖剰》 =044=

$
0
0

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠ 

◇◆ ミイラの発掘、クス王のミイラを想像する = 2/3= ◇◆

 中級は、杉から採った油を遺体の腹一杯に満たし、臓器を取り出さず、ソーダに七十日間漬ける。そうすると臓器は杉油に溶解し体外に排出する。 後は骨と皮だけが残るので職人はそのまま遺体を引き渡す。

 「梅」である最も安価な方法は、下剤で腸内を洗浄したのち、やはり七十日間ソーダに漬ける。(ヘロドトス『歴史』巻一 86-88節 松平千秋訳 岩波文庫(上)参照)

 私が掘り出したミイラのほとんどに包帯は巻いてあったが、おそらく下の部類に入るのだろう。砂から掘り出したときにはきれいに見えるが、実際にはひどく脆い。 そのため、発見するとすぐに写真で記録を撮り、実測をし、後は骨だけを取り上げる作業になる。 そういった作業を繰り返し、下の層へ下の層へと発掘を続けていく。

 それは言うまでもなく学術目的の調査ではあったが、古代の人たちがどのような思想を持ってミイラにされたのかを想像すると、合掌せずにはいられなかった。

ピラミッド時代のミイラ

 エジプト人がミイラ作りを始めたのは、遺体を生前の姿で残すことが死後の再生に必要だと考えたためである。

 生前の姿を残すための方法は、グレードだけでなく、時代によっても異なった。 エジプト史で最も古い先王朝時代(紀元前5500〜紀元前2900年頃以前)には、遺体から内臓を取らず、単に動物の皮に包んだり、あるいは身体とそれを巻く亜麻布に樹脂を塗ることでミイラにしたりしていた。

 ピラミッドが盛んに建造された古王国時代(紀元前2543~紀元前2120年頃)になると、ミイラ造りは大きく発展する。 この時代から、内臓や脳を遺体から取り除き始めたのである。 内臓は、後にカノプス壺と呼ばれるようになる特別な容器に入れて保存され、脳は、鼻孔からひっかき棒のようなものを使い、頭蓋まで穴を開けて、除去している。

 興味深いことに、内臓や脳を取り出した最古の例は、いずれもピラミッド建造最盛期の第4王朝(古王国時代のうち、紀元前2543~紀元前2436年頃)に遡る。 カノプス容器の最古の例は、大ピラミッドを造ったクフ王の母后ヘテプヘレスの墓から発見されている。 脳を除去した最古の例は、メイドゥムにあるNo.17という巨大なマスタバ墓から発見されている。この埋葬者は分かっていないが、墓の規模や位置から考えると、クフ王の兄弟ではないかと思われる。

 さらに、クフ王の父親のスネフェル王が造らせた赤ピラミッド内部にも脳が除去された頭蓋骨が発見されている。 鼻孔から樹脂が頭骨内に注入されていることから、後の時代のものではないかとも言われているが、スネフェル王その人である可能性も残されている。

 古王国時代のミイラの特徴は、その見た目にもある。単に亜麻布を巻くのとは異なり、何重にも巻いて、上から石膏プラスターを塗り、顔には目や眉や唇が描かれた。 それはまるで彫像のように見える理想化された姿だった。

=資料・文献=

ギザの第3ピラミッド

ギザの第3ピラミッドがメンカウラーのものであることは、伝承によって伝えられるところであったが、実際に確認されたのは、1837年から1838年にかけてのイギリスの軍人、ハワード・ヴァイスによる調査を待たねばならなかった。 ハワードが副ピラミッドの天井にメンカウラーの王名を発見し、ようやくメンカウラーのピラミッドと確定する。

ハワードは玄室を調査し、蓋のない石棺と、その中に蔵められていた木製の人形棺を発見する。 石棺は古王国時代の初期の特徴を備えていたが、人形棺は時代が合わず、後の時代に運び込まれたものとされている。

石棺には遺体の一部があり、メンカウラーのものであるか調査するため、1838年、石棺と人形棺は別々の船で共に大英博物館へと送られた。 しかし、石棺を積んだベアトリス号は嵐によってリボルノ港沖で遺体とともに沈没し、近年ハイテク機器によるサルベージが試みられたものの発見には至っていない。

他にもメンカウラーの遺跡の調査は、ハーバード大学のジョージ・ライスナー教授率いるボストン美実菅の合同調査班によって、1905年から1927年の期間で行われた。 河岸神殿、葬祭殿といったピラミッドに付随する遺跡を修復し、その過程で粘板岩彫像を数点発掘した。

ハトホル(王妃カメレルネブチ2世の像と酷似)とノモスの守護女神バトを左右に配したメンカウラーの像(三体像)、王と王妃の像(二体像)といった王の像は、クフやカウラーといった巨大ピラミッドを残した王と比べても数が多く、加工の難しい粘板岩にもかかわらず技術的にも高度なものだった。 アラバスターによる彫像も残されている。 また、未完成状態の像が多数発見されており、ピラミッド周辺の施設も治世の後期に規模を拡大させたことと、その急死による事業の中止が伺える。

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

前節へ移行 : http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/e/1573a61c0195c9b250a1842ac614a970

後節へ移行 : http://blog.goo._not-yet////

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;如水総覧】 :http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事自講】 :http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【疑心暗鬼;如水創作】 :http://bogoda.jugem.jp/

下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2016

Trending Articles