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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《河江肖剰》 =043=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠

◇◆ ミイラの発掘、クス王のミイラを想像する = 1/3= ◇◆

初めてのミイラ体験

 ミイラといえばツタンカーメンなどを思い出す人が多いだろう。 実際、彼が生きた新王国時代(紀元前1539年~1077年頃)には数多くのファラオのミイラが発見されており、現在でもカイロ博物館の特別室に安置されている。

 ミイラ作りは古くは5500年前から行われてきた古代エジプトの埋葬習慣だが、実は時代によって見た目や作り方が異なる。 遺体は獣皮に巻かれたもの、石膏プラスターでかためられたもの、包帯が巻かれたものと多様だし、作り方も内臓が取られたり、取られなかったりする。 埋葬方法も屈葬だったり、横向きだったり、仰向けだったりと色々だ。

 私が初めてミイラに触ったのは、エジプト最古のピラミッドが建つサッカラの墓地での発掘だった。 砂漠から掘り出されたばかりのミイラは、一見すると保存状態が良く、包帯だけでなく、髪の毛も残っていた。 しかし持ち上げると、身体は崩れて粉塵となって指の間からこぼれ落ち、辺りの砂と混じって、後には骨だけが残った。

 当時、私はカイロ・アメリカン大学でエジプト学を学んでいた。 墓地の発掘に参加したいと思い、サッカラのネクロポリス(大規模な墓地)の発掘調査を行っているポーランド隊のカロル・ミシュリヴィエッツ教授の特別講演があったとき、彼にチームに加えてもらえないか頼んでみた。 ミシュリヴィエッツ教授は、見習いで良いのであればと、快く迎え入れてくれた。

 ポーランド隊は、サッカラの階段ピラミッドの周壁を囲うように、人工的に作られた巨大な「乾いた堀(dry moat)」の西側を調査していた。 この巨大な堀は、初期王朝時代(紀元前2900~紀元前2545年頃)に作られたものだが、その後、数千年間で砂に埋まり、末期王朝時代(紀元前722~紀元前332年頃)には多くの民衆が砂の下に土葬されていった。 そのため、そこには数え切れないほどの遺体が重なるように埋葬され、「ミイラの層」をなしていた。 実際、発掘調査では600体ものミイラが1シーズンで掘り出されることもあった。ミイラのほとんどは、触れれば塵になってしまう状態だった。

ミイラ作りの松竹梅

 古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスによれば、エジプトのミイラ作りには「松・竹・梅」ならぬ上・中・下の3段階のグレードがあったという。

 一番手が込んでいる上級はこう書かれている。「先ず曲った刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出するのであるが、摘出には刃物を用いるだけでなく薬品も注入する。それから鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出し…つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。

  そうしてからこれを天然のソーダ(筆者注:ナトロン=天然の炭酸ナトリウム水和物)に漬けて七十日間置くのである。 …七十日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った繃帯(ほうたい)で全身をまき、その上からエジプト人が普通膠(にかわ)の代用にしているゴムを塗りつけ」て、完成する。

=資料・文献=

メンカウラーの生涯

メンカウラーについて、ヘロドトスがミケリヌス(Mykerinos)という名で伝説を残している。 ヘロトドスによれば、巨大なピラミッドを建造したクフカフラーは暴君であり、過酷な統治を行われていたが、メンカウラーが王となると慈悲深い統治に一変し、そのためその建造したピラミッドもクフの半分の高さにも満たない大きさに留めたと伝えている。

しかし、神々は「エジプトの民は150年の困難にあるだろう」という信託をすでに告げており、メンカウラーの善政は神々を否定したものとみなされた。 神々はメンカウラーを許さず、ブトの守護神ウアジェトの信託という形でメンカウラーの統治を残り6年と定めた。 善政にも拘らず彼を翻弄する。 メンカウラーはその運命に抗い、夜も王宮を昼のような明かりで満たした。 昼夜を無くし、運命の期限を伸ばそうとしたのだが、神々を謀ることはできず信託の通り6年後に死亡した。

実際に知られているところでは、メンカウラーの統治は28年間にも及んだ。 ピラミッドの建設期間は十分にあったが、彼のものとされるギザ南端の第3ピラミッドはクフに比べて70メートルと、半分以下の高さとなっている。 その小ささが、前述のような伝説を残す余地となった。 しかも調査の結果、当初の予定はわずか30メートルの高さでしかなかったことが判明する。 建築途中に計画が変更されてようやく70メートルに達したものであった。この経緯について、クフとカウラーによる当初財政の逼迫と、後の改善によるものとする研究者の指摘がある。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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