○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠
◇◆ エクスプローラーたちの祭典 = 3/3= ◇◆
最後に訪れたのは、協会の歴史を伝える「ハバード・ホール」と呼ばれる部屋だった。 そこに置かれた大きなテーブルは、1888年1月13日、33人のナショジオ創立メンバーが集まったときに使われたものだった。 初代会長は弁護士で篤志家のガーディナー・グリーン・ハバードである(義理の息子であり、電話の発明家として知られるグラハム・ベルが第2代目の会長である)。
私たちも、円卓の騎士のごとく、そのテーブルを囲み、協会の歴史に耳を傾けた。 その部屋の隣には、瀟洒な部屋があり、壁一面には、霊長類学者として名高いジェーン・グドールや、インカの遺跡マチュピチュを発見したハイラム・ビンガムなど、偉大なエクスプローラーたちの業績を示す写真がかけられていた。
みなが写真を見ながらため息をついていたが、同時に、彼らの偉業を別世界のものだと見ているようなエマージング・エクスプローラーはいなかった。 そこにいる全員が、いかに自分の行っていることを、先人の業績に近づけ、越えていくのか、その決意を秘めつつ、ナショジオのスタッフとともに今後のことを語り合った。
こうして“ナショジオ・ファミリー”となるイニシエーションが終わり、いよいよエクスプローラーたちの祭典が始まることとなった。
エクスプローラー・シンポジウム 2016 : シンポジウムには、私たち13人以外にも、世界中から70人近くのエクスプローラーたちが集まった。 前回も書いたように、この協会における「エクスプローラー」とは一種の称号で、協会の研究員から助成金をもらっている人まで様々だ。
みな一癖も二癖もありそうな連中だったが、同時に、コミュニケーション能力にも優れた人たちで、話しかければ、誰もが気さくに、熱く、そして端的に(ここがけっこう重要である)、自分のプロジェクトについて語ることができた。
グロブナー・オーディトリアムは、エクスプローラーたちと、ナショジオのスタッフ、そして富豪たちでいっぱいになった。 協会の会長であるゲーリー・ネル氏がステージに立ち、「私たちは、あなたたちエクスプローラーのために、ここにいるのだ!」という力強い言葉によって、シンポジウムは開会された。
シンポジウムはいくつかのテーマに分かれていた。“An Evening of Exploration and Discovery”(探検と発見の夜)、“Conservation at a Crossroads”(岐路にたつ保全活動)、“Into the Underworld”(地下世界へ)。
私のプレゼンは、“High Tech History”(ハイテクを用いた歴史研究)に分類され、「宇宙からの考古学」を提唱し、100万ドルのTEDプライズを受賞したサラ・パーカック博士や、古代遺跡の保存と記録を推進している世界的な機関であるCyArkのロス・デビソンと話すことになった。
私が語ったのは、大ピラミッド登頂についてだった。建造の謎を解くために、ピラミッドに登り、そこで得た映像/画像データを用いて、3D化して組積造の手がかりを得るという話をした。 シンポジウムは、緊張もあったが、とにかく楽しかった。 登壇者全員が、自分の研究を熱く、嬉々として、あるいはシリアスに(密猟や自然保護についてなど)語った。 そこには「Exploration(探検、探索)によって、世界を変えたい」という信念がみなぎっていた。
聴衆は、頷き、笑い、ときに涙ぐみ、最前線に立つエクスプローラーたちの言葉に耳を傾け、大きな拍手によって、その活動を賞賛した。 たぶん、どのような分野でも、長く続けていると、様々なしがらみが鎖のように体に巻き付いてくる。最初は重く感じるが、多くの人が、そのうち、その鎖の重さや輝きを自慢し始める(これは米国の詩人リロイ・ジョーンズの言葉である)。
そういった鎖を感じながらも、自分にとって、あるいは世界にとって大事なことが何なのかを見失うことなく追い続け、活動している仲間たちがここには集まっていた。 そして、シンポジウムは、そういった普段のしがらみを落とし、自らの根幹に触れるための祭りだった。
1週間という短い期間ではあったが、私もこのシンポジウムに参加することで、なぜ自分がエジプト考古学やピラミッドに惹かれ、研究しているのかを、改めて見つめ直すことができた。 それは、自分の源に帰ることができた特別な経験でもあった。
=資料・文献=
エジプト第4王朝・ピラミッド(2/2)
第3王朝最後の王フニが残した階段ピラミッドの外側に石積みを追加して高さ92メートル、一辺144メートル、傾斜角約52度のピラミッドが建設された。しかしこの方法で作られたピラミッドは耐久性が乏しかったらしく、後に外装部分が崩落して崩れピラミッドとなった。
しかし、一時的にでも求められた形状のピラミッドが完成したことは大きな遺産となり、崩れピラミッドの建設を通して得られた経験によって真正ピラミッドの建築方法がほぼ完成された。 なお、スネフェル王が建造したピラミッドはいずれも試行錯誤の中で生まれた特殊な形状をしてはいるが、ピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)と呼ばれる付属施設を備えたものであり、建築方法の模索のためにだけ建設されたものではない。
やがてスネフェル王の跡を継いだクフ王の時代になって、完璧な真正ピラミッドであるクフ王の大ピラミッドが完成した。 これは今日でもピラミッド型の建造物の中では世界最大の規模を持ち、高さ146.5メートル、一辺約230メートル、傾斜角51.5度となっている。 その後のカフラー王のピラミッドもクフ王のピラミッドとほぼ同じ規模を持って建設され、今日まで残っている。
ギーザの三大ピラミッドの最後の1つであるメンカウラー王のピラミッドは、前の二つに比較して半分以下の規模(容積は8分の1)しか持たない。 これは国力の衰退の証とは見られていない。 その後の第5王朝の建設したピラミッドも極めて小規模であり、また第6王朝時代までピラミッドの大きさはほとんど一定のまま変化しない。 これは王権にとってのピラミッドの位置付け、或いは建造目的が変化したためであるとされる。 事実、クフ王の時代を頂点として、カフラー王の時代には既にピラミッド建築の縮小が確認されるのである。
ヘロドトスはエジプト人自身の言として、ピラミッドが過酷な労役によって建設されたとしている。 しかし、ワークマンズビレッジと呼ばれる当時の労働者の遺跡等での発掘調査の結果、ピラミッドの建設には農閑期の公共事業としての側面があり、その労働者には休暇等社会保障も与えられていたことが明らかとなり、奴隷による過酷な労働の成果という認識は古いものとなっている。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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