☆ 帝国銀行椎名町支店で推理小説の様な難事件を某氏が実行。容疑者はタイーホ・服役に至るも真相は未だ藪の中(1948年=帝銀事件)。 ☆ 三菱銀行北畠支店でマルキ・ド・サドの向こうを張った酒池肉林ショーを梅川昭美が開始するも、42時間目で銃弾によって強制的に幕となる(1979年=三菱銀行人質事件)。曰く、本日は金融機関の特異日。 ☆ 日本一のヤクザ組織の内紛からそこのドンがイワされ(1985年)、日本全土を巻き込む大喧嘩に発展。そう言えば、東京都でショバ代を払うことを引き換えとして路上駐車が認められた(1959年)。
本日記載附録(ブログ)
アフリカ大陸で誕生した私たち現生人類は、約5万年前頃までにはアジアやオセアニアの島嶼域への移住を開始した。
もともと陸の生き物である人類はどのように海洋世界に適応し拡散したのか――。
海を通じて世界を見渡し、人類の島嶼適応や移住といったテーマを軸とする
人類史的な視座、巨視的な研究者/小野林太郎(06)
【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
第4回 人類拡散の最終章をつづった謎のラピタ人とは =1/1=
小野さんは、しばしば遺跡から出た魚の骨を同定する専門家とみられることがある。
自身の研究史の初期にもボルネオ島の遺跡の発掘調査で骨を見る仕事をしている。
「ブキットテンコラックという遺跡で、3500年くらい前のものです。新石器時代、第2の波が来た時期ですが、ここは外洋性の魚が少ないところでした」
前回ふれた東ティモールのジェリマライ遺跡は、4万2000年前のものなのに、マグロなどの外洋性の魚を捕っていた。では、こちらでは、時代が新しくなっているのに外洋性の魚を捕らないのはなぜだろう、というのが素朴な疑問。
「実際行ってみるとわかるんですけど、周り数キロぐらい全部サンゴ礁の非常に大きなリーフが広がってるんですよ。逆に外洋まで行こうとしたら、多分数キロ、その浅いリーフをえっちらおっちら行かないとたどり着けなくて、あえてそこまでしてリスクの高い外洋性の魚を捕るよりも、近場で沿岸の魚を捕ってたほうがいいって、そういう戦略だったんじゃないかなと思います」
技術の進展も大事だが、その場にある環境にどう適応するのか、最適な方法は何なのかを選択する、むしろ人類の柔軟性を示す事例と受け止めるべきだろう。
余談だが(しかし考古学的には非常に大きなテーマとして)、いわゆるラピタ文化の起源の問題にも関わっている遺跡だ。
ラピタ文化は、特徴的な文様の土器で知られている。担い手であるラピタ人は、今のポリネシア人の祖先であり、前にも言及したオーストラロネシア語を話していた人たちでもある。彼らは特徴的な土器を携えて、リモートオセアニアへと旅だった。ニューカレドニアや、フィジーといったメラネシアの島々に初めて入り、数百年でサモア、トンガなど、ポリネシアの一番西の端まで一気に行っている。さらに1000年ほどの停滞期の後で、ポリネシアを制覇する。地球上の人類拡散の最終章だ。
興味深いのは、彼らは、ある時から土器を作るのをあっさりとやめてしまったこと。だから今、ラピタ土器を作っている島はどこにもない。ミステリアスな文化で、考古学的にも人気がある。
「ラピタっていうのは、ニューギニアの東のビスマルク諸島やニューブリテン島とかその辺の島で突如、非常に特徴的な土器を持った人たちの遺跡が出てくるんです。今のところ一番古いのが3300年ぐらい前だと言われていまして、それより古い年代のラピタ遺跡はまだ見つかっていません。そういう文化が伝わったとしたら、東南アジアを通って、インドネシア、このウォーラシア海域を通って行ったんじゃないかっていうふうに言われてきました。それで私もこの途中のところにあるはずの島々で調査をしているんですが、土器は出てきてもラピタの土器につながるようなものが出ないんです。ブキットテンコラックの遺跡は位置的にも時期的にも、ラピタにつながるものが出ればいいと思っていたんですが、出ませんでした」
実は、ブキットテンコラックからは、ラピタ人が愛用したビスマルク諸島タラセア半島産の黒曜石が多く出土しているそうだ。産地から約5000kmも離れて運ばれており、驚かされる。しかし、それでもラピタの土器は出ない。そこで最近は、ラピタ人は、インドネシア・ウォーラシアのルートではなく、フィリピンの北部から直接来たのではないかなどという考察もされているそうだ。いずれにしても今も謎に満ちている。
=閑話休題=
小野さんがボルネオ島のブキットテンコラックで調査を行った当時は、外洋性の魚の骨を同定しなかった。先行研究でもカウントされていなかった。それには理由がある。
「──たとえば外洋性のマグロやカツオ、それからサメの同定をしようとすると、椎骨をみないといけなんですが、背骨って1個体でも場所によってかなり特徴が変わったり、同定するのにかなりの労力と時間がかかるんです。オセアニア考古学は研究者が少ないし、圧倒的に魚の骨がたくさん出る。しかも南の魚って種類がとても多い。とてもじゃないけど、椎骨まで見てらんないってことから、むしろ、あごの骨を見る必要があるっていうことになっていました。それで椎骨は本当に最後のブラックボックスみたいになっていて、誰もタッチしなかったっていう」
「──出てくる魚種としてはブダイが圧倒的に多いんです。ブダイは骨自体も非常にがっちりして残りやすいし、形態も非常に特徴的です。ほとんどの遺跡で数がナンバーワンになるんです。その次に多いのがベラとか。まあナポレオンフィッシュなんかもそうですけど、やっぱり非常にあごが発達していて残りやすい。いずれもサンゴ礁の周辺に住んでるような魚ですね。最少個体数といって、最低何匹いたかっていうのをカウントするんですけど、顎はひとつあれば1個体とわかるけれど、椎骨ではわかりません。それでサメなんかの椎骨がたくさん出ても、最小個体数としては全部1。1匹っていうことになってしまうこともあったんです」
実際にはマグロもサメも出るところでは出る。おまけに1個体のサイズが大きいから食料としての価値は高い。だとすると、やはりきちんと見なければならないのでは? というのが小野さんの論点だ。それが東ティモールの遺跡でのサイエンス誌論文にもつながった。
さらに、マグロやサメの重要性を示す研究を、小野さんは示してくれた。
「私もオセアニアのいろんなところで発掘に参加していて、これは国立民族学博物館の印東道子先生と一緒に調査したミクロネシアの離島の話です。2000年ぐらい前からかなり最近まできれいに連続的に出るいい遺跡なんですけど、ここで出た骨っていうのは、ほとんどサメとマグロ。硬骨魚類に限ると、マグロなどのサバ科の骨が圧倒的に多かったんですよ。で、これを無視して残った魚だけで当時の人たちの漁撈活動とかを再現すると、全然違った話になっちゃうんです」
ミクロネシアのファイス島にある遺跡での話だ。出てきた硬骨魚類(つまりサメやエイなどの軟骨魚類は除いている)の椎骨をサバ科、ハタ科、ブダイ科で比べると、9割以上(標本215のうち193)がサバ科だった。
「サイズの推定なんかもやって比較しています。サメはやっぱり1メートルから2メートル以上のクラスのものがかなり出ていますし、マグロ類にしても40~50センチぐらいのが結構一般的に出ているので、そうすると1匹あたりの重量っていうのが、肉量も含めて考えると、沿岸性の魚よりも圧倒的に多いんですね」
もしも、捕獲される数が近かったとしても、マグロ類やサメ類のような外洋魚種は体も大きく、より食肉としての貢献度が高いかもしれない(ましてや、この場合、数も圧倒的だ)。とするなら、それを無視していると、復元すべき人々の暮らしはまったく違ったものになる。
「本当にその当時の人たちにとって重要だった魚はどっちなんだろうかっていう話になったときに、椎骨見ないとあかんみたいな話を、英語で何本か書いて、きわめつけがファイス島や東ティモールの論文だったんです。そのせいか、ここ最近、ようやくオセアニア考古学の人たちも椎骨を見るようになってきました」
明日は“ 第5回 “楽園の人類学”の扉はどのように開かれたのか” に続く・・・・・
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