☆ 日本生命が、劇団四季のための劇場を日比谷にオープン(1963年=日生劇場開場)。その前座としてベルリン・ドイツ・オペラの招待興行が開かれる。 ☆ 皇后陛下が過労で倒れられ失声症となる(1993年)。憂国に名を借りた週刊誌の不敬に心を痛められた模様。 ☆ カダフィが第二のチャウシェスクになる(2011年)。42年間続いたリビアの独裁政権に幕を下ろす。
本日記載附録(ブログ)
日本にもゾウやサイなど、アフリカ並みの巨大野生動物が暮らしていた
地質学的には「少し前」までの話である
国立科学博物館で開かた特別展「太古の哺乳類展」
この企画を担当したのが冨田幸光地学研究部部長
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
冨田幸光地学研究部部長(02/mn)
◇◆第1回 日本に野生のゾウやサイがいた頃 =2/3= ◆◇
さて、そんな中、冨田さんがまず語ってくださったのは、今の日本列島から発掘される化石というのはいかなるものなのか。今は日本列島になっているわけだが、そもそもこの形になったのはそう古い話ではないはずだ。
「2500万年くらい前に日本海が開きはじめて、1500万年くらい前に日本列島になる島々が今の場所あたりに来たんですけど、それ以前は大陸の一部だったんです。離れてすぐに今の形になったんじゃなくて、大陸から離れつつちっちゃな島にバラバラにばらけちゃったような状態が続いて、だんだん日本列島ができていく。大陸から離れてから動物がどんなふうに変わったかっていうのが、ひとつの大きなテーマなんです。ただ、日本の哺乳類化石の歴史は、大陸から離れるずっと前、1億2000万年にも及ぶことは最近は分かっています。地理的な問題以前に、あるいはそれ以上に、時代の流れにともなう哺乳類の変化、つまり哺乳類全体の進化による変化を見ることがまず大事なんです」
今の日本で発見される最古の哺乳類化石は1億2000万年前! それだけの時間をかけた大進化はひとつのテーマになる。日本における独自の哺乳類進化を見つつも、哺乳類全体の進化自体をたえず見わたさなければならないということだ。
「そのあと、日本列島が出来上がってから、かなり後になりますけど、260万年くらい前から氷河時代が来ますね。氷河期には、氷期と間氷期があって、氷期になると気温がガッと下がりますので、大陸に雪が積もっちゃって、海水準(海面)が下がるんですね。そうすると九州と朝鮮半島がくっついてしまう。あるいは東シナ海が陸化してしまう。大陸から新しい動物が入ってくる。ところが間氷期になると暖かくなって、また海水準が上がっちゃうので来なくなると。その繰り返しを過去200万年ぐらいやってるわけです。それにともなって、化石記録も変わってきます。生物進化というよりも、大陸とつながることでの変化。そういうのを見ていく、というのがもう1つの点です」
数千万年、数百万年単位の長い話と、数十万年、数万年単位の比較的短い話が、折り重なっているのが日本哺乳類の化石記録をみる時に留意しておくべきことだと理解した。
ただし、これらの間に、「知られざる一千万年」のような時期があって事態を難しくしているそうだ。
・・・・・・・・明日に続く・・・・・
【参考資料】 : 槇山次郎 - ナウマンゾウが新亜種であることを発見(2/2)
槇山は、新生代の地質や貝化石について関心を高め、1940年頃までは第三紀から第四紀の貝化石についての研究を中心に行った。卒業論文のテーマは、横山や中村新太郎らが研究を進めていた常磐炭田の地質の研究であった。
東京帝国大学卒業後に槇山が講師として就任した京都帝国大学理学部地質学鉱物学教室は、同教室の教授として就任することが決まっていた小川琢治と中村新太郎によって立ち上げの準備が進められていたが、折しも第一次世界大戦後でマルク安になっており、貝類関連の貴重な蔵書類を多く購入することができたため、研究資料が豊富であった。さらに平瀬與一郎が設立した平瀬介類博物館が折しも閉館となり、同館で勤務していた黒田徳米が同教室に迎え入れられることとなった。この時に同館の所蔵標本も購入し、化石貝類(槇山)、現生貝類(黒田)それぞれの研究が活発に行われる環境が整った。また京都帝国大学動物学教室の瀧庸も度々同教室を訪れて議論を交わし、この三者が中心となってのちに日本貝類学会が発足することとなった。
京都帝国大学に赴任してからは、静岡県南西部の地層についての層序学、地質学、古生物学的な研究を開始し、これをライフワークとしていた。博士論文のテーマにも静岡県掛川市の地層についての研究を選び、1931年に「Stratigraphy of the Kakegawa Pliocene in Totomi」として発表した。このほか、1963年までに関連する論文は約20編発表され、槇山が早くから注目していた古生態学的手法を交えた解析、国際動物命名規約に則った貝類の命名と分類の整理を行い、のちの貝類研究の基礎となった。
1930年後半からは研究の中心が構造地質の問題に移り、その成果は石油探査や土木工学などの応用分野にも貢献している[1]。槇山の研究手法には推計学など数学的な解析方法も積極的に取り入れられ、その成果は「Tectonomechanics, An Introduction to Structural Analysis of Folded Oil Field Rocks」(1979年)で取りまとめられた。
人物
920年代後半に留学した経験もあり、30代の頃には「新人類」と称されるような人物であったとされる。その様子は、フィールド調査にバイクで向かい、道中のお供にキャラメルを携行する、夏には当時珍しかったショートパンツ姿で講義に臨む、などといった逸話からも窺える。また新しいものへの関心も高く、米寿の祝いに送られたワープロで手紙を書くなどしていた。
一方研究室の扉には、研究に集中するために「面会謝絶」の札が貼られ、気難しく近づきがたい人物であったとも評される。指導者としても、留学先のイギリスで身につけた個人主義を重視し、研究テーマの決定や研究の進め方も学生の自主性を尊重したとされる[7]。そのため学生が相談に行くまではほとんど指導しない「放任」的な雰囲気であったともされるが[7]、一度接すると性格は気さくで、洒脱な語り口で問題点を的確に指摘されたとされる。
おわり
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