☆ カスティーリャの女王イサベル1世とアラゴンの王太子フェルナンドが、自らの国を持参金 代わりに結婚(1469年)。かくてスペイン王国が成立。 ☆ 盛況だった株価が一遍に大暴落し、ウォール街全体が憂鬱になった暗黒の月曜日(1987年=ブラックマンデー)。 ☆ 西武ライオンズが、ロッテオリオンズの協力によって近鉄バファローズを下してリーグ優勝(1988年)。
本日記載附録(ブログ)
日本にもゾウやサイなど、アフリカ並みの巨大野生動物が暮らしていた
地質学的には「少し前」までの話である
国立科学博物館で開かた特別展「太古の哺乳類展」
この企画を担当したのが冨田幸光地学研究部部長
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
冨田幸光地学研究部部長(01/mn)
◇◆第1回 日本に野生のゾウやサイがいた頃 =1/3= ◆◇
上野にある国立科学博物館では、毎年、夏休み前後の時期に特別展が開かれる。何度かに一度は、絶滅した動物についてのものだ。
その中でもっとも人気があるのは、いわずとしれた恐竜。
「恐竜展」は日本の夏の風物詩ともいえ、国立科学博物館で開催されるものは最先端の恐竜学を垣間見せる高水準。とても人気がある。
さて、2014年の夏の特別展も、絶滅動物にかかわるものだ。ただし、恐竜ではない。
ぼくの観点からは、もっと興味深いものだと言える。なにしろ、時間的にも空間的にも身近な「日本で発掘された絶滅哺乳類化石」がテーマなのだから。
では、どんな絶滅哺乳類がいたのか。
今回の特別展のように一堂に会することはこれまでなかった豪華メンバーが揃っている。いわゆる巨大動物相(メガファウナ)が「日本」にもあって、ゾウやら、サイやら、オオツノジカやら、今の基準でいえばかなりの「大物」が闊歩(かっぽ)していたとか。
想像してみよう。ちょっと郊外に出かけると、ゾウやオオツノジカなどが、ゆったりと歩き、食事をしている様子。動物園でもサファリパークでもない、野生動物として!
そして、特別展では、ゾウについては、日本におけるすべての系統を網羅する。
知名度としては、ナウマンゾウが全国区といえるが、ほかにも発見された場所では有名な「ご当地ゾウ」も多い。それらが、時間的にも何百万年もの間に散らばっており、今回、一堂に会したものを見ると、生命進化の不思議ともいえる現象も確認できる。
特別展の企画を担当した地学研究部の冨田幸光部長にお話を伺った。国立科学博物館は上野というイメージで、もちろんそれは正しいのだが、収蔵庫と研究室はつくば市にある。ガラス張りの植物園の隣の、やはりガラスを多用したモダンな建物だ。
冨田さんは化石でみる生命進化の研究者なので、ウサギやビーバーやサーベルタイガーなど、研究室には実物やキャスト(模型)で様々な動物の骨があちこちに置いてあった。哺乳類の場合は特に「歯」がポイントになるので、歯の化石が多かった。
・・・・・・・・明日に続く・・・・・
【参考資料】 : 槇山次郎 - ナウマンゾウが新亜種であることを発見(1/2)
槇山 次郎(まきやま じろう、1896年10月16日 – 1986年12月5日)は、日本の古生物学者・地質学者・貝類学者。日本貝類学会名誉会長。日本古生物学会元会長、日本地質学会元会長。
1909年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1914年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第二高等学校(現:東北大学)を経て東京帝国大学に進学、横山又次郎などに師事して地質学を専攻した。
1920年に同大卒業後、大学院に進学[3]。しかし同年、京都帝国大学に理学部地質学鉱物学教室が新設され、翌年の1921年から同教室の講師に就任した。1923年には同大で助教授になった。1924年には、浜名湖(静岡県)付近で発見された化石を、新種(発表当時は新亜種)のゾウとして記載を行い、和名をナウマンゾウとした。
1927-1929年にかけてイギリス、オーストリアに留学、大英博物館などに収蔵されている日本産貝類の研究を行った。1928年には日本貝類学会の設立者の一人として同学会を立ち上げ、実質的な会長の役割を務めた(なお1937年からは正式に同学会の初代会長に就任し、1948年まで会長の座に付いていた)。
帰国後、1930年に京都大学教授に就任、翌年の1931年に理学博士を取得した。1941-1942年に日本古生物学会会長、1946-1947年に日本地質学会会長を歴任。1959年に京都大学を定年退職するまでに、地質学、層序学、古生物学などの分野で研究結果を発表し、多数の門下生を輩出したとされる。
退職後は京都大学名誉教授となったほか、帝国石油株式会社顧問、同志社大学講師、帝塚山大学名誉教授を歴任。80歳の頃に帝塚山大学名誉教授を退職し、研究の傍ら、趣味のスケートなどに取り組んでいた。なおスケートでは国際審判も務めた経験があり、日本スケート連盟名誉審判員としても名を連ねた。
1986年12月5日、京都市の自宅で90歳で死亡。葬儀は京都市中京区の長徳寺で行われ、親族や知人、門下生らが参列した[3]。生涯に16冊の著書を刊行したほか、発表した論文は100編以上を数える。
少年期を東京で過ごした槇山は、川辺の土から貝殻を探したり、田畑の土から木のリグナイトを掘り出して遊んでいたといい、これが研究の原点であったと語っている。
槇山が東京大学で地質学を専攻している1920年代には、横山又次郎(槇山の指導教員)と矢部長克らが、第四紀の地層から出土する貝化石から推定される日本の気候についての論争を繰り広げていた。これを身近に聞いていた槇山は、新生代の地質や貝化石について関心を高め、1940年頃までは第三紀から第四紀の貝化石についての研究を中心に行った。卒業論文のテーマは、横山や中村新太郎らが研究を進めていた常磐炭田の地質の研究であった。
……つづく
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