ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月28日<ⰧⰊⰧ
☆★ フランスの田舎者がイギリスの南側を蹂躙し始め、3ヶ月後には王位まで乗っ取ることに(1066年)。曰く、ノルマン・コンクエストが始まる。☆★ 田中角栄の政治力で清水峠の真下のトンネルが1本から2本に(1967年)。更に総理大臣になって20年足らずで上越新幹線も通ることに。☆★ 傘をさしてデモをしていた香港市民に香港当局が催涙弾をお見舞いし、雨傘運動の幕が切って落とされる(2014年)。
本日記載附録(ブログ)
カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。
ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。
防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =2/9= ◆◇
ただの巨大な土の山ではなかった
カホキアは、ただの巨大な土の山ではなかった。考古学者たちがどこを掘っても、そこから家が見つかった。これは、何千人もの人々がかつてここでコミュニティを形成していたことを示していた。そしてその家の多くは、非常に短い期間内に建てられたものだった。
調査により、どうやら1050年前後に、この都市全体が一気に活気づいたことがわかってきた。周辺地域から人々が続々と集まり、家を建て、新しい都市のインフラを整えていった。その中には、上部に建物が設置された墳丘のほか、サッカー場45面分ほどの広さを持つ巨大な広場もあり、スポーツや宗教行事に使われていた。
巨大なモンクス・マウンドの上から眺めれば、目の前には広大な氾濫原が広がっていた。周辺で最も高かったであろう墳丘の建設を指揮した後、部族の長あるいは高位の僧侶は、自らが統治する土地を鳥の視点から見渡すことができただろう。
カホキアがそのような単独の指導者を頂いていたという仮説はしかし、広く認められているものではない。この場所が当時何と呼ばれていたのかも、ここに住んでいた人たちが自らを何と呼んでいたのかもわかっていない。「カホキア」というのは、1600年代にこの周辺に住んでいた部族の名前を借りたものだ。この土地の人々は書き言葉を持っておらず、彼らを知る手がかりは少なく、その解釈にはさまざまな議論がある。
専門家の間で意見が一致しているのは、トウモロコシが地域の食生活を支えるようになってから2世紀ほどで急速にこの都市が発展したこと、氾濫原に人々が引き寄せられてきたこと、そして、ミシシッピ文化のほかのコミュニティと比べて規模と範囲がとてつもなく大きかったことなどが挙げられる。
ミシシッピ文化
カホキアの墳丘とそこに住んでいた人々の築いた文化は、今日ではミシシッピ文化と呼ばれている。カホキアの遺跡は現在までに発見された中で最大の集落だが、考古学者たちはこのほかにも、米国南東部から中西部、さらには北の五大湖地域でもミシシッピ文化の集落跡を発見している。カホキアと同様、その多くは、巨大な土塁、木製の柵や要塞、銅、貝、石で作られた遺物などを特徴としている。
ミシシッピ文化の始まりを特定するのは難しいが、多くの専門家は西暦800年前後と考えている。そのころ、ミシシッピ川渓谷中央部に村が形成され始め、農民たちはトウモロコシ(これが主食となっていく)、豆、カボチャなどを栽培した。同じような集落は、その他の河川流域にも現れた。こうした北米の肥沃な土地で、ミシシッピ文化の人々は、温暖な気候、豊富な水、さらには木材、木の実、魚、野生動物といった豊富な天然資源を享受していた。
カホキアをはじめとするミシシッピ文化の遺跡から出土する遺物は、当時の北米の村々に大規模な交易ネットワークが存在したことを示している。カホキア遺跡の「34番」の墳丘には、北米で唯一の、先住民が銅を扱った作業所があったことがわかっている。銅は五大湖地域からカホキアに運ばれていた。銅塊を加工して作られた神聖な品々や外交的な贈り物は、大陸中のミシシッピ文化の遺跡で見つかっている。
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化(2/4) ⨂⨁
編年論
ミシシッピ文化の発展段階は通常三期に区分されるか、さらに細かい時期区分がなされる。それぞれ地域ごとに異なる依然としてあいまいな部分のある時代区分である。ある場所でのそれぞれの開始時期は、上記ミシシッピ文化の特徴の採用や発展の速度によって早くなったり遅くなったりしていると考えられる。
初期ミシシッピ文化は後期ウッドランド期(Late Woodland)(500年から1000年)からの変化を始めた時期に相当する。異なる集団が種族の生活様式を棄てて、社会構造の複雑化、定住、集権化および農業を始めた。初期ミシシッピ文化はほとんどの場所で1000年から1200年ころと考えられる。
中期ミシシッピ文化はしばしば、ミシシッピ文化の頂点とも考えられている。カホキア以外にも複雑な首長制国家が作られ、サザン・カルトの美術や象徴体系の広がりと発展がこの時期の特徴的変化である。上記ミシシッピ文化の特徴が地域内にあまねく広まるようになった。中期ミシシッピ文化はほとんどの場所で1200年から1400年ころと考えられる。
後期ミシシッピ文化は通常1400年ころからヨーロッパ人による接触までと考えられ、戦争の増加、政治的動揺および人々の移住で特徴付けられる。カホキアの人々はこの時期の早くに(1350年-1400年)分散し、恐らくは他の新しく政治力をもった祭祀センターに移動した。場所によってより防御柵などを築いているのが観察され、時にマウンドを築いたり儀式を重んじたりすることは減少した。
ある地域ではヨーロッパ人との最初の意味ある接触まで実質的に中期ミシシッピ文化に留まっていたが、ほとんどの地域では1500年までに散り散りになるか、厳しい社会的な緊張感を経験していた。
ヨーロッパ人との接触
学者達は、エルナンド・デ・ソトが1534年から1539年に行ったアメリカ南東部の探検記録から、彼がミシシッピ文化人と接触した証拠を探した。デ・ソトは幾つかの集落を訪れており、ある場合には客として1ヶ月以上そこに滞在した(アパラチー族を参照)。出会った人々の中には暴力を振う者もいれば、比較的平和的な者もいた。
インディアンの間に長く続いた不和の中で、武装したデ・ソトたちは戦力として、あるいは同盟者として使われたと思われる。例えば、パカハ族とカスキ族の間の休戦を交渉した。
しかし、この探検の後期にデ・ソト一行と遭遇した部族は一行の約半分を殺し、部族の成員の多くもスペイン人に殺された。デ・ソトの年代記はミシシッピ人について書かれた最初の文書であり、これらの人々の文化的慣習について貴重な情報源となっている。
・・・・・・明日に続く
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=Prairie Fire: Cahokia Mounds (WILL-TV)=
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