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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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カレーム_上流階級の料理を刷新=シェフの王=(2/3); 歴史深層(030)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月14日<ⰧⰊⰧ

☆★ セプテンバーバレンタイン/メンズバレンタインデーなので好きなあの子にパンツを贈ったら、紫色の服を着て白いマニキュアを塗った彼女から緑のインクで書かれた手紙を受け取ったでござる。☆★ モスクワへはるばるやって来たナポレオンの御一行に、ロシアがファイヤーストームで文字通りの熱烈歓迎を行う(1812年)。場所を違えて半世紀後、東海道生麦にて薩摩隼人が、郷に入りては 郷に従えを毛唐に対して暴力的に解らせる(1862年)。☆★ 北朝鮮が、あと一歩の所で反共反日で凝り固まった頑固爺を海へと突き落せるところまで行く(1950年)が、翌日仁川でダグラス・マッカーサーに不意打ちを喰らうことに。

本日記載附録(ブログ)

アントナン・カレームはいわゆる「有名シェフ」の魁。マリー=アントワーヌ・カレーム シェフにしてパティシエ。当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。1814年、ウィーン会議の間、彼の料理は出席者の評判をさらう。

カレームの一生は、絶望的な貧困から、立身出世を遂げた驚異の物語といえよう。父親が石工職人、16番目の息子として、そのパリの下層階級で子沢山の極貧家庭に生まれた。貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出されたのは10歳の時である。

1798年、シルヴァン・バイイに弟子入りし、才能を認められ、出世への階梯を登り始めた。フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで料理人として働く。タレーランはカレームをたびたび激励、上流階級の夕食会を主催し、彼の料理を紹介する。カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭していく。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ナポレオンのウェディングケーキ作りを作り、フランス料理の基本を定めたカレーム……

◇◆ 19世紀フランスが生んだ「シェフの帝王」アントナン・カレームの物語 =2/3= ◆◇

豊かな食生活
 顧客の中には、当時最も有名な政治家であり美食家でもあった、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがいた。タレーランは1803年、ナポレオンの資金提供を受けてパリ郊外のヴァランセ城を外交の場として購入する。その後、タレーランは当時21歳だったカレームを雇った。

 この仕事をきっかけに、若きカレームは国際的な舞台に立つことになった。パティシエだった彼は、装飾菓子だけでなく、宴会の料理全体を作らなければならなくなった。カレームは、地元の食材のみを使って、1年間、毎日異なるメニューを提供することを約束していた。これが、タレーランとの10年以上に及ぶ付き合いの始まりだった。

 カレームはヴァランセ城の仕事をしながら、フリーランスで他の貴族の菓子職人としても働き、料理人たちから技術を学んだ。カレームはまた、フランス料理の体系的な研究を開始し、新旧の手法を整理してまとめた。ナポレオンが1810年にオーストリアの皇女マリー・ルイーズと結婚した際、ウェディングケーキを依頼されたことはとくに有名だ。

 レストランを開いた他の多くのシェフとは異なり、カレームは裕福なパトロンとの付き合いにこだわった。後年、彼は世界で最も依頼料の高いシェフとなったが(銀行家のジェームス・ド・ロートシルト(ロスチャイルド)は、年間2000万円近くを支払って、パリの名士たちに提供する料理を依頼した)、金銭は決してカレームにとって唯一の動機ではなかった。

裕福なパトロンに仕えることで、より大きな創造の自由を得られると考えていたのだ。「富を持って生まれた者は、食べるために生き、シェフの芸術を支えている」と彼は書いている。

偉大な料理人
 ナポレオンが失脚した1814年、政治的変化が訪れた。ロシア皇帝アレクサンドル1世をはじめ、ナポレオンを倒した国々が戦争終結の交渉のためにパリに到着。そこでタレーランはカレームに料理を依頼した。

 フランスが復古王政下で寛大な条件を得られたのは、このご馳走のおかげだったかもしれない。カレームはそれを自らの功績とすることに躊躇しなかった。「私の料理はフランス外交の前衛部隊だった」

 感銘を受けた皇帝アレクサンドル1世は、カレームをサンクトペテルブルクに呼び寄せようとした。しかし、カレームはそれを拒否し、1815年に最初の著書である『Le pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』を出版。2巻からなる大著だ。

 この本で、彼は菓子のレシピを記すだけでなく、ほとんどのイラストを自分で描いた。その後、すぐに『Le pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を出版。124種類のピエス・モンテのデザインが掲載された。

・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: フランス料理(Cuisine française)(2/3) ⨂⨁

近代(19世紀)
18世紀末に勃発したフランス革命はフランス料理文化にとっても一大転機になった。アンシャン・レジームの崩壊によって宮廷内での職を失った料理人たちが多数流出し、またギルド制度の消滅によって商業活動に対する規制も撤廃された。

宮廷出身の料理人たちが街角で自由に店を開けるようになった事から、市街地にはそれまでにない洗練されたレストランが立ち並ぶようになり、革命で富裕化した市民たちがそこに通い詰めるようになって、フランス料理は市民レベルでの普及時代を迎えた。

そうした自由な気風の中でカリスマ的なシェフも登場するようになり、特に有名だったアントナン・カレームはシェフの帝王と称えられていた。カレームはオートキュイジーヌの芸術性と美食性を更に高め、また「L'art de la cuisine française au dix-neuvième siècle」を始めとする著書の中で洗練されたメニューと精緻を凝らしたレシピを数多く紹介し、フランス料理の近代的発展に大きく貢献した。

 近現代(1900年前後)
19世紀後半になるとフランス料理はオーギュスト・エスコフィエによって形式的な体系化が進められ、従来にないアカデミックな料理文化へと発展した。

エスコフィエによる調理技術の理論的な形式化は、料理文化の輸出というグローバル運動の際にも有利になり、フランス料理がイタリア料理などを差し置いて世界三大料理の座に据えられたのは彼の体系化によるところが大きいと言われる。

各国のフォーマルな正餐や晩餐会でも持てはやされるようになり、フランス料理は高級料理の代名詞になった。

エスコフィエは、カレームによって編み出された数々のレシピの技巧に走り過ぎている部分を巧みに簡略化して、より実用的な調理工程に沿えるように再構築した。

また「ブリガード・ド・キュイジーヌ」と呼ばれる組織構造を厨房内に導入して調理作業の効率化を図った。本来はチーフを意味する「シェフ」が西洋コックの代名詞になったのは、彼がブリガード内の各調理責任者にシェフの呼称を当てたことに由来している。

エスコフィエは厨房内のモラル教育も重視し、規律と礼節を行き渡らせて料理人たちの社会的地位向上にも腐心していた。エスコフィエが形式化したフランス料理の知識体系は1903年刊行の「Le guide culinaire」にまとめられており、これはフランス料理のバイブルになっている。

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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森のなかえ

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