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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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カレーム_上流階級の料理を刷新=シェフの王=(3/3); 歴史深層(031)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月15日<ⰧⰊⰧ

☆★ イギリスで世界最初の鉄道が開業すると共に、世界最初のグモッチュイーーンに成功する(1830年)。即ち、開通式典で世界初の鉄道死亡事故が発生。☆★ マクドナルド御用達の全国紙「USAトゥデイ」が創刊する(1982年)。☆★ 星野仙一が関西圏を沸かせる18年ぶりの偉業(駄目虎→猛虎)達成(2003年)。しかし、五年後には関西圏のみならずリーマン・ショックで日本全体が青息吐息。

本日記載附録(ブログ) アントナン・カレームはいわゆる「有名シェフ」の魁。マリー=アントワーヌ・カレーム シェフにしてパティシエ。当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。1814年、ウィーン会議の間、彼の料理は出席者の評判をさらう。

カレームの一生は、絶望的な貧困から、立身出世を遂げた驚異の物語といえよう。父親が石工職人、16番目の息子として、そのパリの下層階級で子沢山の極貧家庭に生まれた。貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出されたのは10歳の時である。

1798年、シルヴァン・バイイに弟子入りし、才能を認められ、出世への階梯を登り始めた。フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで料理人として働く。タレーランはカレームをたびたび激励、上流階級の夕食会を主催し、彼の料理を紹介する。カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭していく。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ナポレオンのウェディングケーキ作りを作り、フランス料理の基本を定めたカレーム……

◇◆ 19世紀フランスが生んだ「シェフの帝王」アントナン・カレームの物語 =3/3= ◆◇

 1815年に最初の著書である『Le pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』を出版。2巻からなる大著だ。この本で、彼は菓子のレシピを記すだけでなく、ほとんどのイラストを自分で描いた。その後、すぐに『Le pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を出版。124種類のピエス・モンテのデザインが掲載された。

 1816年、カレームは、後にジョージ4世となる英国の摂政皇太子に仕えることとなった。しかし、1年後には退任。気候が気に入らなかったことや、英国人料理人からの嫉妬が理由だった。その後、ウィーンに渡って英国大使チャールズ・スチュワートに仕え、サンクトペテルブルクにも一時滞在。最終的にはパリに戻り、執筆活動に専念するようになった。

 1822年には、2冊組の『Le maître d'Hotel Français(フランスの給仕長)』を出版。フランスが誇る4つの基本のソース、「マザーソース」を紹介したことで知られる著書だ。

    その4つとは、アルマンドソース(小麦粉をバターで炒めた「ルー」をだし汁でのばし、レモン汁と卵黄を加えたもの)、ベシャメルソース(ルーに牛乳を加えてのばしたもの)、エスパニョールソース(ルーにだし汁を加えて煮詰めた後、トマトソースを加えてさらに煮詰めたもの)、ヴルーテソース(ルーをだし汁でのばしたもの)である。

    どんな料理にも合う何百種類ものソースを作るためのベースとなったこれらのソースは、以来、フランス料理の基礎となっている。

カレームはこの時期、名家の料理長としてのオファーをいくつも断ったが、フランスの上流社会に取り入りたかった銀行家、ジェームス・ロスチャイルドからのオファーを受け入れた。1823年から1830年までロスチャイルドの下で働いたカレームだが、その後は執筆活動に専念し、代表作となる『L'art de la cuisine française(フランス料理術)』を書いた。

 フランス料理についての全5巻のうち、第1巻は1833年に出版された(全5巻のうち2巻は、彼の死後に出版)。この本でカレームは、現代の多くの料理人も推奨するだろうルールを取り入れている。彼は18世紀の高級料理に見られたスパイスを強く効かせたレシピを否定し、より自然な味を取り入れた。

    また、彼は新鮮な季節の食材を使った料理を提唱した。彼の料理は、バランスの取れた分量と美しい盛り付けで人々の目を楽しませた。さらに、彼はこの本を特権階級ではなく、一般の人々のために書いた。「この本は、王侯貴族のためだけに書かれたものではない。私は、フランスという美しい国のすべての国民が、おいしいものを食べられるようにしたいのだ」

 カレームは1833年1月12日に亡くなった。換気の悪い厨房で石炭の煙を吸い続けたことによる肺病が原因だったと考えられている。カレームの後継者の一人であるオーギュスト・エスコフィエは、フランス料理を20世紀仕様にするというカレーム同様の役割を果たしたが、彼は初代マエストロに対して、次のように敬意を表している。

  「カレームが生んだ(料理の)科学の基本原則は、料理という行為と同じくらい、長く残っていくだろう」
文=MARTINA TOMMASI/訳=桜木敬子

次節“旧石器時代の謎の女性像「ビーナス」”に続く・・・

⨁⨂参考資料: フランス料理(Cuisine française)(3/3) ⨂⨁

現代(20世紀)
1930年代に入ると大戦間期の三大シェフと言われるフェルナン・ポワン、アレクサンドル・デュメーヌ、アンドレ・ピックらが、エスコフィエの料理体系を受け継ぎながらも、更に時代に合わせた形へと進化させていった。

1960年代になると、エスコフィエの料理体系から素朴な家庭料理や郷土料理の数多くが取り残されているという問題点が指摘されるようになり、従来の高級料理一辺倒のイメージ払拭を兼ねて、カントリーサイドに焦点を当てたフランス料理本来の姿を全世界に紹介しようとする運動が始められた。

その中では郷土料理文化の積極的アピールと、それを体験させるためのガストロノミーツアー(美食旅行)が数多く企画されてミシェランガイドなどが大きな役割を果たした。

1970年代になると、伝統的なソースによる濃厚な味付けをあえて避けるようにして新鮮な素材主体の風味を活かそうとする調理技法が、ポワンの弟子であるボキューズ、シャペル、トロワグロ兄弟たちを中心にして指向されるようになり、これは「ヌーベルキュイジーヌ(新生料理)」と呼ばれてフランス料理の新たな潮流になった。

1980年代半ばになると、濃厚なソースを重視する古典回帰の調理技術が見直されてオートキュイジーヌに代表される伝統的な料理様式が改めて支持されるようになった。その中で伝統技術と現代科学技術をミックスさせようとする調理技法も誕生し、ロブション、ガニェール、デュカス、ロワゾーといったシェフたちが担い手になった。

現在もシェフたちによる新しい調理技法の探求は続けられており、古典重視の保守性と自由で柔軟な前衛性を持ち合わせたフランス料理文化は終わりのない進化の様相を呈している。

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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森のなかえ

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