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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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カレーム_上流階級の料理を刷新=シェフの王=(1/3); 歴史深層(029)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月13日<ⰧⰊⰧ

☆★ 乃木希典が明治天皇に殉じて、奥さんを道連れにセカンドインパクトを起こす(1912年)。☆★ 千里の山から流れていた三波春夫の歌声がこの日を限りに千秋楽となる(1970年=大阪万博が閉幕)。☆★ 毛沢東同志に取って代わろうとしたNo.2反革命分子の林彪が、家族・側近らとソ連に逃げようとするも途中ゴビ砂漠で墜落死、力尽きる(1971年)。

本日記載附録(ブログ)

アントナン・カレームはいわゆる「有名シェフ」の魁。マリー=アントワーヌ・カレーム シェフにしてパティシエ。当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。1814年、ウィーン会議の間、彼の料理は出席者の評判をさらう。

カレームの一生は、絶望的な貧困から、立身出世を遂げた驚異の物語といえよう。父親が石工職人、16番目の息子として、そのパリの下層階級で子沢山の極貧家庭に生まれた。貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出されたのは10歳の時である。

1798年、シルヴァン・バイイに弟子入りし、才能を認められ、出世への階梯を登り始めた。フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで料理人として働く。タレーランはカレームをたびたび激励、上流階級の夕食会を主催し、彼の料理を紹介する。カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭していく。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ナポレオンのウェディングケーキ作りを作り、フランス料理の基本を定めたカレーム……

◇◆ 19世紀フランスが生んだ「シェフの帝王」アントナン・カレームの物語 =1/3= ◆◇

 巨大レストラン事業や料理本、料理番組など、現代の有名シェフたちはさまざまな場面で活躍している。そんなセレブ・シェフが最初に誕生したのは、19世紀のフランスだった。

 フランス革命の後の数十年間に、世界初の料理帝国を築いたシェフ、アントナン・カレーム。彼は複数の店舗を構え、特権階級にケータリングを提供し、ベストセラーの料理本を何冊も出版した。著書はまた、伝統的なフランス料理の調理法を包括的に解説した、世界で最初の本ともなった。

 現代のシェフたちと同じように、カレームは芸術家であり、学者であり、科学者であり、自分を売り込む努力を惜しまない人物だった。
 カレームの作品として今日最もよく知られているのは、糸状のあめとアーモンドペーストを使って建築物や風景を模した「ピエス・モンテ」と呼ばれる大型の装飾菓子だろう。

 革命後においても、フランス貴族たちは、食卓の中央に置く豪華な装飾品を求めた。
 そうした派手な作品を作りつつも、カレームは、特権階級が好む手の込んだご馳走と、中産階級が増えてきたことを受けて提唱したモダンでシンプルな料理との、橋渡しを行った。カレームが登場するまでは、「ご家庭で試してみてください」などと言う人はいなかったのだ。

貧困を乗り越えて
 1784年、カレームはパリの貧しい家庭に25人兄弟の一人として生まれた。もともとの名前はマリー・アントワーヌ。カレームの幼少期はフランス革命の暗い影に覆われていた。10歳の時、彼を捨てた父親はこう言った。「これからは富の時代になるだろう。富を築くのに必要なのは知性だけ。おまえにはそれがある」(参考記事:「フランス革命はいかにしてメートル法を生んだか」)

 この言葉を胸に、幼き日のカレームは、酒場の厨房で住み込みの仕事を始めた。1794年のパリと言えば、「恐怖政治」と呼ばれる、革命後の大規模な逮捕・処刑の時代に突入していた。

 カレームが後に名前をマリー・アントワーヌからアントナンに変えたのも、1793年にギロチンにかけられた王妃マリー・アントワネットを連想させる要素を取り除くためだったかもしれない。(参考記事:「フランス革命の発火点 民衆に襲撃された監獄とは?」)

 1798年、カレームは酒場を辞め、一流パティシエであるシルヴァン・バイイの助手となった。ここで彼はパティシエとしての技術を習得し、細工菓子で見事な構造物を作れるようになった。また、食だけでなく建築への飽くなき探究心を満たすため、夜は独学で読み書きを学んだ。

 バイイに国立図書館の版画・彫刻室を訪れることを勧められたカレームは、そこで城やピラミッド、噴水などの建築物をスケッチし、自身の作品のインスピレーションを得た。

 当時のフランス料理界の主役は、菓子職人やパティシエたちだった。バイイが抱えていた富裕層の顧客に支持されるようになったカレームは、1803年、19歳で独立し、ラ・ペ通りに自らのパティスリーを開いた。

 ここで彼は、「風に乗って飛んでいく」ほど軽く膨らんだパイ菓子「ヴォロヴァン」をはじめ、現在でも人気のある菓子を考案した。こうした菓子は人気を博し、カレームは、数日かけて作るような作品を受注するようになった。

・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: フランス料理(Cuisine française)(1/3) ⨂⨁

 フランス料理(Cuisine française)は、フランスで発祥した食文化および調理技術であるが、フランスという全国名義で一括されるものではなく、フランスの各地域に存在している郷土食文化の集合体としての定義が強調されている。現代では世界三大料理の一つに数えられている。2010年にフレンチガストロノミー(フランス美食学)はユネスコの無形文化遺産に登録された。

中世
中世フランス料理は宮廷内限定の食文化であった。まだ明確な作法は存在しておらず、給仕においても特に規則性の無い雑多なメニューが次々と、あるいは一斉にテーブルに並べられていた。食肉は加熱調理された後に厚くスライスされてマスタード風味の濃厚なソースで味付けされることが多かったようである。食器の使用も稀であったようで、硬い平板状のパンが皿として用いられていた。

ナイフやフォークの使用も一般的でなく直接手づかみで食べるのが普通だった。スープやシチューはテーブルにある専用のくぼみに注がれ、それらはパンに浸すか、直接手のひらで器用にすくって飲んでいたという。

中世フランス料理の代表的なシェフはギヨーム・ティレルであり、14世紀に活躍した彼のレシピをまとめたとされる「Viandier」は一部に後世の創作が疑われるものの、現在に繋がるフランス料理の源流に位置付けられている。

近世(16〜18世紀)
16世紀のフランス料理は、イタリア料理の大きな影響を受けてほとんど一体化していたほどだったとも伝えられている。これはフィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディシスが、ヴァロワ朝のアンリ2世に輿入れした際に連れてきたイタリア料理人に起因すると言われているが、ルネサンス期の両国の文化交流の中で自然にもたらされていたという見方も存在する。

イタリア料理文化の影響によってフランスでもナイフとフォークを用いる食事作法が一般的になっていった。

17世紀になるとフランス主義の復興が重んじられて、イタリア料理の影響から離れる方向性でのフランス料理の改革運動が始められた。その結果誕生した「オートキュイジーヌ(至高料理)」はフランス宮廷料理のフォーマルな様式として定着し、現代ではフランスの伝統的な高級料理モデルとして認識されている。

ワインとチーズ文化およびパティスリーの世界も本格的な開明を迎えた。17世紀の高名なシェフであるラ・ヴァレンヌが1651年に上梓した「Le cuisinier françois」は、フランス初の正式なレシピ書として当時の宮廷料理事情を現代に伝えている。

フランス料理はヴァロワ朝からブルボン朝時代を通して豪華絢爛な発展を遂げたが、依然王侯貴族のための宮廷内の専売特許であった。
当時はギルド(同業組合)の統制によって食材業者と調理師の商業活動が制限されていたので、フランス料理文化の一般市民への普及は封建制度の消滅まで待たねばならなかった。

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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森のなかえ

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